第903話 グルグリウス

統一歴九十九年五月九日、夜 ‐ 『黒湖城砦館』ハーレ・デア・シュバルツゼーブルグ倉庫ホレウム/シュバルツゼーブルグ



「「「「「「「!?」」」」」」」


 二ピルム(約三・七メートル)はある天井から見下ろす岩石の怪物、グレーター・ガーゴイルの顔が音もなくニィッと笑った時、それを見上げていた全員が戦慄した。

 頭では《地の精霊アース・エレメンタル》の眷属だとは分かっている。ルクレティアを守るためにリュウイチが付けた守護精霊……その眷属なのだから間違っても彼らを害することなど無いはず。頭ではそうと分かっていても、しかしこの巨大な体躯に凶悪な顔、そして何より圧倒的な存在感を目の当たりにして、その一挙手一投足に脅威を感じずにいられる者など居ようはずがなかった。


 もし、コイツが暴れ出したら……絶対助からない……


 その確信に心を捕らわれた者が、当のガーゴイルが自分たちを見て笑うの目にしたのである。気づけば生きた心地などどこかへ消え失せてしまっていた。顔色を失った人間たちが見上げていたガーゴイルは、しかし忽然こつぜんと姿を消してしまう。


「「「「「「「!?」」」」」」」


 松明たいまつの頼りない明かりに照らされていた巨大な怪物は何の前触れもなく姿を消し、何の飾り気も無い石材を組み上げただけのアーチ状の天井だけが目に映る。


「……き……消えた!?」

「ど、何処へ!?」


「ここですよ皆さん。」


 見えなくなったガーゴイルの姿を探して天井を見渡す人間たちの耳に聞き覚えのない、まるで井戸の底から響いてくるようなやけに野太く低い声が聞こえた。彼らが一斉に声の主を求めて視線を下げると、そこにはやはり見たこともない偉丈夫いじょうぶが立っていた。

 シルエットだけを見ればヒトであろう。だが背丈はこの中で最も長身のアロイスよりも高く、まるでコボルトを思わせるほどガッシリと筋肉が付いているのが服の上からでも見て取れ、まるで角のないオーガのようである。だが肌は暗闇の中で浮かび上がって見えるほど青白く、端正な細面ほそおもてはまるで生気が感じられない。しかし漆黒の髪は丁寧に撫でつけられて、丹念に整えられた髭と同様に濡れたように艶やかに光っており、表情も溢れる自信に裏打ちされた余裕の笑みを浮かべている。力に満ちた眼差しは何人を前にしようとも揺るぎない優位を保てそうなほど落ち着いていた。

 そしてその服装がまた変わっていた。細かな刺繍の施された白いシャツは顎に接するように襟を立て、その上から縁をレースで飾った襟巻クラバットを巻いている。シャツの上からキラキラと銀色に光って見えるベストに身を包み、上から膝丈の上着を羽織っている。高い折り返しが付いた襟とやけに広いラペルが付き、ウエストから下にフレアーのついた上着はアビのようにもルダンゴトのようにも見える。下半身は脚のラインがクッキリ見える細身の真っ白な長ズボンに、膝下まである真っ黒な革のブーツ……レーマ帝国では滅多にお目にかかれない服装だ。


ごきげんようサルウェー


 にこやかにほほ笑みながら、その男は淀みない脚運びでテーブルの手前まで歩み寄ると、そう言って軽く会釈した。


「イ、インプなのか?」

「ガーゴイルです閣下。」


 目の前で起こっている事に理解が追い付かず、頭に浮かんだ疑問をそのまま口にしてしまったアロイスに脇からスカエウァが注意する。それを見た男はスカエウァにニコッと微笑み、アロイスの方にも笑顔を向けた。しかし、その目までは笑っておらず、アロイスはゴクリと乾いた唾を飲む。


「ええ、先ほどまで、か弱く憐れなインプであった者です。

 今は《地の精霊アース・エレメンタル》様の眷属に加えていただき、グレーター・ガーゴイルに進化を遂げさせていただきました。」


 そこまで言うと男は言葉を切り、全員を見渡して続ける。


「改めてご挨拶申し上げます。

 この度、《地の精霊アース・エレメンタル》様の眷属に加えていただきました。

 名は、そうですな……ガーゴイルにしていただけたのですから、吾輩わがはいのことはグルグリウスとでも呼んでいただきましょうか。

 我が主 《地の精霊アース・エレメンタル》様の御為おんため、微力を尽くす所存にございます。」


 他を圧倒するゴツい体躯、やけに野太く低い声に似合わず、その物腰は柔らかく気品すら感じられた。先ほどまでの卑しいインプと同一人物だとはとても思えず、生まれついての上級貴族パトリキのようですらある。

 ちっぽけなインプがいきなり巨大な悪魔のような怪物になり、そして一瞬にして一人の紳士に姿を変えてしまったことに理解が全く追いつかなかった。特にインプをさげすみ、無意識のうちに邪険な態度をとっていた者たちは、相手との力関係がいきなり逆転したことに戸惑うばかりで、認識のアップデートが思うように進まない。心のどこかで無礼な態度をとったことをまずは謝罪すべきだろうかなどという考えが頭をもたげつつも、力関係はともかく立場はまだ自分の方が上なのだし……いや、上なのか?などと問題が頭の中でグルグル渦巻き始め、一向にどのような態度で接するべきか答えが出ないまま時間が流れてしまう。

 そんな中でカエソーが一番最初に動き始めた。両手を広げ、歓迎の意向を示す。


「お、おお……グルグリウス殿、歓迎します。

 貴殿のような頼りがいのある強者つわものが我が陣営に助力していただけるとは有り難い限りだ。

 その力、大いに役立てていただきたい!」


 カエソーの言葉にグルグリウスは満面の笑みを一瞬浮かべたが、すぐに困ったような苦笑いを浮かべ、束の間の逡巡しゅんじゅんを経て思い切ったように尋ねた。


「失礼!閣下はその……伯爵公子閣下でいらっしゃる?」


 グルグリウスの質問を受け、カエソーは自分がまだ自己紹介をしていなかったことに気づいた。


「おお!これは申し遅れた。

 私はこれより北のサウマンディア属州領主ドミヌス・プロウィンキアエ・サウマンディイプブリウス・ウァレリウス・サウマンディウス伯爵の長子、カエソー・ウァレリウス・サウマンディウス伯爵公子です。」


「そうでしたか!

 御高名は兼ねがねうかがっております伯爵公子閣下。

 歓迎していただき感謝いたします。」


「ほほぅ!?

 グルグリウス殿が私のことを御存知でしたか?」


「ええっ、我々妖精には集合知しゅうごうちとでも呼ぶべきものがあるのです。」


「集合知?」


「はい、インプは他のインプが見聞きした知識や経験などを、ある程度共有できるのです。

 ですから、吾輩は今日、召喚されたばかりでしたが、他のインプが閣下のことをどこかで知ったのでしょう、閣下のことをは全く知らないわけではありませんでした。

 何でも、レーマ帝国南部の上級貴族パトリキの中では最も広い領土を持ち、もっとも強い権勢を誇るとか……」

 

 グルグリウスの説明を聞いたカエソーはひどく驚き、驚いた顔のまま左右のアロイスやルクレティアたちの顔を見渡してからグルグリウスに向き直った。


「おお、確かにそうです。

 これは驚いた。そのようなことは初めて知りました。

 まさか私のことがインプたちにまで知られていたとは!」


「ハハハ、無理もありません。

 インプのことを知っている人間の方が珍しいのでしょうからな。」


 愉快そうに笑うグルグリウスにカエソーは期待を込めて尋ねる。


「ということは、人間のことは?」


「もちろん良く存じておりますとも。

 インプは人間たちの、人には言えないような秘密の願いや相談を聞くことが多いですからな。

 ああ!もちろん、依頼者の秘密を他の人間に漏らすような真似は致しません。

 インプは人間よりも義理堅いのです。

 閣下もどうか、我らに依頼人の秘密を明かさせようなどとは期待なさらないでください。」


 グルグリウスの刺した釘にカエソーは少し意外そうな顔をした。

 カエソーたちは今色々と面倒を抱えている。面倒の理由はリュウイチや『勇者団』の存在を秘匿しなければならないという制約によるものだ。今後、グルグリウスを戦力に加えるうえで、秘密を守ることに慣れているという彼の特性はありがたい。だが、同時にそれゆえに『勇者団』の情報が得られないとしたら少しばかり期待外れだった。カエソーはグルグリウスから手紙の送り主のことを聞き出したかったのだが、その手紙の主とはグルグリウスにとって仕事の依頼主……つまり、グルグリウスが秘密を守るべき相手という位置づけになってしまうからだ。


「では、この手紙の送り主のことは?」


「それは構いません。」


 少し残念そうな表情を隠し切れないカエソーはダメ元で尋ねたが、グルグリウスは陽気に快諾した。


「彼は手紙を届けた後は好きにしろと吾輩に言いました。

 そして吾輩は依頼通りに手紙を届けましたが、彼は報酬を偽っていました。

 彼は吾輩を騙していたのです。

 である以上、吾輩は彼に義理立てするつもりはありません。

 むしろ、当然の報いをくれてやるつもりですとも。」

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