第900話 悪魔の降誕

統一歴九十九年五月九日、夜 ‐ 『黒湖城砦館』ハーレ・デア・シュバルツゼーブルグ倉庫ホレウム/シュバルツゼーブルグ



 人間たちが固唾かたずを飲んで見守る中、喜色を浮かべていたインプの顔が苦悶くもんに歪み、屈めた身体を振るわせて苦しみ始める。それからさして間を置かず、ロウソクや松明たいまつの届かぬ暗がりではあったが、《地の精霊アース・エレメンタル》から与えられた魔力によって緑の光をまとっていたため、黒い身体が大きくなり始めるのが見えた。同時にインプがまるで酷く酔っ払いでもしたかのようによろめき始め、トタタッ、トタタッと蹈鞴たたらを踏みはじめる。

 身体が大きくなるということは、当のインプ自身からすると世界が縮むことであり、その影響を真っ先に受けるのが足だった。インプは自分の足元の地面が急速に縮んでいくように感じ、バランスを崩して転びそうになるのを踏ん張ろうと足を踏み出す。しかし、なおも地面が縮み続けるので再びバランスを崩して足を踏み出す……それを繰り返しているのだ。

 しかし、見ている方からするとそのような事情な分かるはずもない。頭を抱えたインプが震えながら死の舞踏でも踊っているようにしか見えない。いや、両手で頭を抱えているせいで顔が隠れてしまい、開かれた口から白い歯が覗いているため、苦しんでいるようにすら見えない。むしろ笑って、喜んで、踊っている風に見えてしまう。そのあまりの異様さにリウィウスは思わずルクレティアの前に立ちはだかり、短剣グラディウスの柄に手をかけて身構えた。


 だが前述したように事実は異なる。インプは自分の身体の急激な変化に苦しみ、世界が縮んでいくような錯覚に襲われ混乱を極めていた。身体が熱い、痛い、世界がグルグル回り、地面が縮まる。吐き気が止まらない。そして身体がリウィウスらホブゴブリンたちと同じくらいの大きさにまでなった時、ついに立っていられなくなり、膝を屈し、地面に手を突いてしまう。


 それでもインプの成長は止まらなかった。膝と手を突いてもまだ地面が縮み続けるために足を、手を、動かしてバランスを保たねばならない。が、やがてそれも限界に達し、ついにドカッと小さかった頃のインプからは想像も出来ないほどの重量感ある音をたてて床に突っ伏してしまう。


「キシャァッ、ハァ、アァ、アアアァァァァアァァ~~~~ッ!!」


 見ていた人間たちは気づかなかったが、床に倒れのたうち始めたインプに砂粒が集まり始めた。壁や柱を形成する石の隙間から、石畳の床から、小さな砂粒がインプに向かって飛び、ぶつかり、そして吸い込まれていく。


「まだ、なのか?」

「もうだいぶ大きくなったぞ!?」


 誰ともなく戸惑いの声が上がり始める。インプの身体はリウィウスらホブゴブリンの体格を優に上回っており、この場にいるヒトの中で最も背の高いアロイスの体格をすら超えようとしていた。


 あんな大きさの魔物がもし本気で暴れたら、人間じゃ太刀打ちできなくないか?


 彼らの胸中に渦巻くその懸念は事実であろう。少なくとも一対一の白兵戦では、この中の誰もインプに……いや、既にインプではない。インプだったコイツに敵わない。倒そうと思ったら一個百人隊ケントゥリアによる短小銃マスケータの一斉射撃くらい喰らわせねばならないかもしれない。

 だが、ここまでインプを強化してもなお、《地の精霊》は止めようとはしなかった。《地の精霊》が見るところ、今のインプではまだ『勇者団』ブレーブスとまともにぶつかって勝つには力が足らない。ハーフエルフ一人ぐらいなら相手にできるだろうが、『勇者団』の全員と戦うことになれば確実に負ける。殺さずに捕まえろと言う要望を叶させるには、もっと力を与えねばならない。

 《地の精霊》はクルリと身体全体を回転させ、ルクレティアの方を振り向いた。


「!?

 閣下!そちらへ避けて、道を開けてください!!

 リウィウスさんも!」


 《地の精霊》から何か念話で言われたのであろう、ルクレティアは一瞬 《地の精霊》の方を見て驚くと、カエソーたちの方を向いて大きな声を上げ、そして自身も目の前のリウィウスの肩に手をかけて脇へ避けた。


「なに!?」

「あ、ああ?」


 カエソーは戸惑いながらルクレティアたちと反対方向へ避けようとし、隣にいたアロイスにぶつかり、アロイスは押されてスカエウァにぶつかった。そしてそのまままるで羊の群れのようにノソノソと壁の方へ避けると、背後の通路の方から何やらゴロゴロと異様な音が響き始める。その音には外に居るはずの兵士たちの悲鳴も混ざっているようだった。


「何だ、この音は?」


 アロイスが異変に気付いて声を上げると、松明を掲げていた兵士の一人が「見てまいります」と言って部屋から出ようとする。それを見てルクレティアが「ダメ、部屋に残って!!」と声を掛けるが、それは少し遅かったかもしれない。


「うわっ!?」


 通路から部屋に急に何かが飛び込みはじめ、兵士はそれにぶつかって後ろへ飛ばされ、尻もちをついてしまった。取り落とした松明が火花を散らしながら床に転がり、乾いた音を立てる。


「何だ!?」

「これは……砂!?」

「石も混ざってる!?」


 最初、それが何か分からなかったが、それは大量の砂と石であった。まるで砂嵐の奔流ほんりゅうとでも呼ぶべき風の渦がものすごい勢いで部屋に流れ込み、それが部屋の奥にいるインプへ向けて流れ込んでいる。


「グッ、グヴォオオオオオオッ!!」


 インプが居たはずの場所から恐ろし気雄叫おたけびが響き、人間たち全員が顔を青くする。カエソーとアロイスは思わず腰に下げた剣の柄に手をかけ、リウィウスはルクレティアを守るべく剣を抜いて身構えた。

 だが部屋に吹き込み、インプが居るであろう場所で渦巻いている砂嵐のせいで何も見えない。《地の精霊》がインプを眷属にし、魔力を与えていたはずだが、今彼らの目の前の光景は《地の精霊》がインプを土属性の攻撃魔法で攻撃しているようにしか見えない。


「な、何が起きているんだ!?」


 誰が言ったか分からないその疑問に誰も答えなかった。答えることが出来なかった。が、砂嵐はその後急速に収まり始める。渦巻く砂嵐で舞っていた砂や石が、その渦の中心にいたインプの身体へ突っ込み、吸収されていったからだった。やがて飛び交っていた砂や石が一つ残らず消えた時、彼らの目の前にインプが立っていた。いや、それはつい先刻までインプではあった筈だが、とうにインプなどではなくなっている。

 見た目の基本的な形はインプと同じだったかもしれない。人間のような二本の腕と両足を持ち、背中にコウモリのような羽と尻から尻尾を生やした基本形は全く同じだ。が、やせ細っていた手足は盛り上がった筋肉によってたくましく膨れ上がり、ポッコリと膨れていた腹はスッキリと引き締まって全身が筋肉の塊のようだ。細かった首も尻尾も以前とは比べ物にならないほど太くなり、背中の羽根も大きくなってまるでドラゴンのようだ。そして全身を覆っていた真っ黒な肌は、ゴツゴツとした明灰色の岩石へと変わっている。が、そうした変化は全体から見れば小さな変化と言えるかもしれない。一番の変化は何といっても身体のサイズだ。最初は猫ほどしかなかったその体躯は今や高さ二ピルム(約三・九メートル)はあるはずの天井に頭がつっかえるほど大きくなっており、部屋に納まりきらない巨体を羽根も頭も小さく縮こませて窮屈きゅうくつそうにしていたからだ。

 緑色の光が消えて暗さを取り戻した天井から、自分の身長の倍ほどもある高みにから、見下ろす赤い二つの目がニィッと愉悦に歪んだ瞬間、アロイスは思わず唸った。


「ディ……悪魔ディーモン

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