第899話 新たな眷属

統一歴九十九年五月九日、夜 ‐ 『黒湖城砦館』ハーレ・デア・シュバルツゼーブルグ倉庫ホレウム/シュバルツゼーブルグ



 《地の精霊アース・エレメンタル》とインプが何を話しているのか、周囲の人間たちには全く聞こえなかった。両者は念話で会話していたし、声に念を乗せてしゃべっていたインプの声は人間の耳には聞き取れなかった。しかし、これから《地の精霊》がインプに話をして眷属にするということ自体は事前に説明がなされていたし、机の上に這いつくばって《地の精霊》を見上げるインプの様子から、今実際に何か話をしているんだという程度のことは見て取れる。

 何度かインプが頭を上げたり下げたりを繰り返した後、どうやら話が付いたらしい。インプはキシシッと笑うように鳴くと何度か《地の精霊》に向かってお辞儀を繰り返し、突然パッと身をひるがえして机から飛び降りてしまった。


「あっ!?」


 インプの背後で壁になっていたヨウィアヌスはインプを逃がすまいとしたが、《地の精霊》とインプの話が始まってから邪魔にならないように(何かあった時にとばっちりを食わないように?)机から少し離れていたので反応が間に合わなかった。インプはヨウィアヌスが伸ばした手をあっさりすり抜け、部屋の奥の方へ滑空し、着地してからさらに数歩羽ばたきながら四つん這いで走った。


「待って!」


 追いかけようとするヨウィアヌスをルクレティアが呼び止める。


「大丈夫ですヨウィアヌスさん。

 インプは逃げたわけじゃありません。」


 振り返ったヨウィアヌスにルクレティアは《地の精霊》の方を気にしながら言った。そして、ヨウィアヌスがどこか納得しきれないながらもインプを追うのを止めたのを確認すると、ルクレティアは今度は周りの人たち全員に向かって説明する。


「話はまとまったそうです。

 これから、《地の精霊アース・エレメンタル》様がインプに力を与え、眷属になさいます。」


 ルクレティアの話を聞いた者たちの反応は二つに分かれた。部屋の外での会話で既にこれから行われることを知っていたカエソーとアロイス、そしてルクレティア本人は「いよいよか‥‥」と覚悟を新たにし、部屋に残っていたスカエウァやリウィウス、ヨウィアヌス、カエソーらは寝耳に水の説明に一様に驚きを隠せないでいる。


 インプは机の上のロウソクや兵士の掲げた松明たいまつの火が届かなくなるくらいまで奥へ進んだ。この部屋は倉庫の中の一室であり、上階の重量を支えるために左右の壁や柱の間隔は狭くなっているが、奥行きは結構ある。幅が二ピルム(約三・九メートル)ほどなのに対し、奥行きは十ピルム(約十八メートル半)ほどもあった。インプはその真ん中くらいまで進んでようやく立ち止まり、こちらへ振り返る。インプの黒い身体は薄暗い部屋の闇にほぼ溶け込んでいたが、インプの赤く光る目だけが浮かび上がるように見えた。アーチ状の天井にインプのキシキシと嬉しそうな声が響き、やけに大きく聞こえる。

 すると今度は薄く緑色に光って見える《地の精霊》の姿が、音もなくスーッとインプの方へ向かって進んだ。


「ド、奥方様ドミナ、ホントにインプアイツ、《地の精霊アース・エレメンタル》様の眷属になっちまうんですかい?」


 リウィウスが小声で尋ねると、ルクレティアは小さな声で「ええ、そうです」と答えた。


 信じらんねぇ……まさにそう書いてある表情でリウィウスはヨウィアヌスやカルスらと互いに顔を見合わせる。彼らはインプを必ずしも丁寧に扱ってはいなかった。リウィウスは小剣プギオーを突き付けて脅したこともあったし、運ぶ際は籠に入れて閉じ込めもした。それから何度か乱暴な言葉づかいで脅したり揶揄からかったりもしている。そんなインプが《地の精霊》の眷属に加わるなんて想像すらしてなかった展開だ。


 やべぇな、嫌なことにならなきゃいいが……


 リウィウスはカルスが生まれる前からアルトリウシア軍団レギオー・アルトリウシアで飯を食っていた。思わぬ形で除隊させられたが、軍団レギオーでは最古参兵に属するベテランの老兵だったと言っていい。その間、リウィウスはずっと平の軍団兵レギオナリウスだった。

 レーマ軍では将兵の出世は賄賂わいろやコネが物をいう。リウィウスが最古参兵になるまでの長い軍歴の中で、ずっと出世せずに一兵卒であり続けたのは普段の彼の素行の悪さもあったが、手に入った金を賄賂などに使わずすべて酒と女につぎ込んでしまったからに他ならない。当然、そんな彼よりも後任であったにも関わらず彼よりも出世していった軍団兵は数知れず存在した。

 立場の逆転……リウィウスは何度も経験している。生憎とそれまで威張っていた奴より優位に立って立場を逆転させるといった経験はほとんど無かったが、自分が面倒を見てやった若い兵士が出世して自分の上官になってしまった例は数え切れないほどあった。そして、人間は出世して権力を手にすると、次第に本性を現すようになるものなのだ。

 それまでヘーコラしていた奴が出世して偉くなった途端、手のひらを返したように尊大に振る舞うようになる。中には面倒を見てやったことを逆恨みする者も居る。あるいは、少しばかり揶揄からかってやったのを、随分と根強く恨んでいて、事あるごとにここぞとばかりに嫌がらせをしてくる者もいた。


 そして今、また同じように立場の逆転が起きようとしている。しかも今度はインプだ。珍しくはあるが小さくて弱いインプ……てっきりこの場限りの付き合いだと思ったのに、そいつが今、とんでもない力を持った《地の精霊》の眷属になろうとしている。眷属になったインプがどうなってしまうかはさすがに想像できないが、この場限りの付き合いでは済まないのは確実だ。少なくとも力関係が大きく変わることは間違いないだろう。

 リウィウスたちは奴隷という、レーマ帝国では最下層の身分に堕とされははしたが、それでも仕える主人は《暗黒騎士リュウイチ》だ。この世界ヴァーチャリアで最強最高の降臨者の従者である以上、奴隷と言えども上級貴族パトリキでさえないがしろにできないという不可思議な立場を得た。多分、多少のをしたからと言ってリウィウスたちをどうにかできる人間など居ないだろう。奴隷という立場ながら、同時に安定と安心を手に入れたと見ることも出来るかもしれない。

 だが、《地の精霊》は別だ。リュウイチに仕える従者・眷属という同じくくりの中で、リュウイチが召喚した精霊エレメンタルは確実に立場が上だろう。少なくとも力は圧倒的に上だ。そして、その《地の精霊》とリウィウスたちの間に、今インプが加わろうとしている。もしかしたらリウィウスたちに面白からぬ感情を抱いているかもしれないインプが、《地の精霊》の眷属に加わる……それはリウィウスたちの将来に影を投げかけるには十分なものだった。


「……はじまった……」


 カエソーのつぶやきが聞こえた。《地の精霊》がまとう緑色の光が強くなり、それにやや遅れてインプの身体も緑色の光に包まれ始める。


 キシッ!?キシシシィ~~ッ、シィィィイ~~~~ッ!


 やがてインプが苦悶の表情を浮かべ、うずくまり、もだえ始めた。

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