第896話 悪い予感

統一歴九十九年五月九日、夜 ‐ 『黒湖城砦館』ハーレ・デア・シュバルツゼーブルグ倉庫ホレウム/シュバルツゼーブルグ



 まずい、どうしよう?……愕然とした様子で目を開け、カエソーとアロイスの方を見たルクレティアの表情を文字にすればまさにそんな感じであった。


「い、いかが成されましたか?」


 ルクレティアの救いを求めるような視線にただならぬ気配を察したカエソーが思わず尋ねる。


「それが……《地の精霊アース・エレメンタル》様が……

 《地の精霊アース・エレメンタル》様がインプに……ハーフエルフ様を捕まえさせると……」


「「!?」」


 カエソーとアロイスはそろって我が耳を疑った。カエソーは明日にはルクレティアと共にシュバルツゼーブルグをつのだし、ヴォルデマールの目の前でヴォルデマールに無断で兵を動かすことはできない。かといってアロイスは先ほどハーフエルフは追い払えさせすればよく、今は追跡するつもりは無いと言ったばかりだ。インプにハーフエルフを追跡させることが可能だったとしても、それをサポートしながら実際にハーフエルフ捕縛を実行するために投入できる兵力は無いはずだ。それはルクレティアも先ほどまでの話で理解している筈。


「ま、待ってくださいルクレティア様。

 先ほども申しましたように、仮にインプがハーフエルフを追跡できたとしても、そのために兵を動かすつもりはありません。

 伯爵公子閣下も明日にはシュバルツゼーブルグを御発ちになる。

 一応、言っておきますがシュバルツゼーブルグ卿も動かせる兵に余裕はありませんよ?」


 アロイスは嫌な予感がするのを抑えながら、苦笑いを半分引きつらせて説明した。だが、そんなことはルクレティアも良く分かっている。事態はそんな事情などすっ飛ばしたその先へ進んでいたのだ。


「もちろん承知しております閣下。

 《地の精霊アース・エレメンタル》様もご理解なさっておいでです。」


「ならば……「《地の精霊アース・エレメンタル》様は!」」


 ルクレティアは切羽詰まったような声でアロイスをさえぎった。その瞬間、アロイスは表情を強張こわばらせ、その大きな両目でルクレティアを見たがあえてルクレティアの無礼をとがめることはなかった。

 本来、男尊女卑だんそんじょひ社会のレーマ帝国で貴族とはいえ女性が男性の、それも貴族の話を遮るなど本来あってはならない事である。たとえ相手のアロイスがルクレティアより下位の下級貴族ノビレスに過ぎないにしても、アロイスはルクレティアとの間に主従関係しゅじゅうかんけいのようなものがあるわけではない。他に誰も居ない場で二人きりの私的な会話ならともかく、この場はカエソー……つまり他の上級貴族パトリキがいるのだ。ここで女性が男性の会話を遮るということは、その男性に対して恥をかかせることになりかねない。

 ルクレティアも上級貴族の娘である以上、それくらいのことは承知している筈だ。なのにそのルクレティアがあえてアロイスの話を遮ったということはよほどの事が起きているということだ……アロイスはそう考えた。

 ルクレティアは気持ちがいていたとはいえ、アロイスの話を遮ってしまったことに今更ながら気づき、若干の後悔を覚えつつも話を続ける。


「《地の精霊アース・エレメンタル》様は、インプに独力でハーフエルフ様を捕まえてくるよう、お命じになられるおつもりです。」


 二人は表情を固くしてルクレティアを見た。ルクレティアの言った言葉は聞いたが、その意味が分からない……そんな感じだ。いや、言っている意味は分かるが、理解が追い付かない。

 その二人の反応にルクレティアも身を固くした。人が怒りを露わにして誰かを叱る直前の表情にそっくりだったからだ。さすがに上級貴族の一人娘であるルクレティア自身が過去にそういう目に遭ったことがあったわけではないが、貴族や使用人が下位の使用人の不始末に対し、怒りを爆発させる瞬間を何度か目撃したことはあったのだ。

 もちろん、カエソーもアロイスもルクレティアに対してルクレティアが予感したように怒りをぶつけるようなことはしない。ルクレティアが何故身構えたのか、その理由が自分たちにあることには二人とも気づかず、《地の精霊》がよほどのことをルクレティアに言ったのではないかと想像し、ルクレティアの次の言葉を待ち続ける。

 今にも怒りをぶつけてくるのではないかと恐れていたルクレティアだったが、二人が無言のまま固まっていたためおずおずと言葉を続ける。


「……その……《地の精霊アース・エレメンタル》様が御自身で御力を使わず、兵士レギオナリウスたちも動かさず、『勇者団』ブレーブスからこのシュバルツゼーブルグの街を守るには……それしかないと……」


 ただならぬ緊張感をみなぎらせた二人の軍人に薄暗い場所で間近で見下ろされるのは、十五の娘には結構過酷な体験である。ルクレティアの声は最後の方は消え入りそうになっていた。


「ちょっと待ってください。」


 数秒の沈黙の後、アロイスがまるで面白くない冗談に付き合って無理に笑うかのように頬を引きつらせた。


「あのインプにそんな真似ができるのですか!?

 見たところあのインプは私でも簡単に倒せそうだ。

 それなのに、魔法を使いこなせるハーフエルフ様を相手に出来るなんて、にわかには信じられませんが?」


 わざと大仰おおぎょうに身振り手振りを交えて問いかけるアロイスはお道化どけるように笑みを顔に張り付けていたが、その目は笑っていなかった。


「それは、《地の精霊アース・エレメンタル》様がインプに力をお与えになるそうです。」


「力を!?」


 カエソーがギョッとして声を漏らすと、アロイスの顔からも笑みが消える。ルクレティアは今度はカエソーの方を見て言った。


「はい……報酬も、インプに力を与える際の魔力で十分だろうと……」


 三人はそれぞれ互いの顔を見合わせる。三人が共に思い浮かべたのはブルグトアドルフの《森の精霊ドライアド》だ。あの《森の精霊》は『勇者団』の一人ナイス・ジェークを捕え、ルクレティアらに引き渡してくれた強力な精霊エレメンタルの一柱だが、ブルグトアドルフの森にあのような強力な精霊がんでいたなどという話はこれまで誰も聞いたことが無かった。だいたいブルグトアドルフの森はほんの半世紀ほど前までは木の一本も生えてない要塞ブルグ法面のりめんだったのだ。要塞の防御火砲の射界しゃかいを確保するために障害になる物は岩も木も全て取り除いて平坦な草地を維持していたのが、シュバルツゼーブルグの街が完成したことで要塞としての役割を終え、整備されなくなって木が生い茂るようになって森になったものなのである。おおよそ森と呼べるようになってからまだ二十~三十年程度しか経っていない。そのような若い森に《森の精霊》などが棲みつくはずがそもそも無いのである。

 もちろんそのカラクリは既に明らかになっており、まだ誰にも知覚できないほど脆弱ぜいじゃくだったその地の精霊が《地の精霊》から魔力を与えられ、《地の精霊》の眷属となったことにより、わずか一夜にして『勇者団』の一員をたやすく捕えることができるほど強力な《森の精霊》に成長を遂げたのだ。


 あのインプが《森の精霊ドライアド》のように強力な存在に成長するのか!?


 その想像は三人に漠然ばくぜんとした不安を抱かせた。

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