第880話 捕えられていたインプ

統一歴九十九年五月九日、夜 ‐ 『黒湖城砦館』ハーレ・デア・シュバルツゼーブルク倉庫ホレウム/シュバルツゼーブルグ



「ようこそお運びでありがとうございやす奥方様ドミナ。」


 インプがいるという部屋にルクレティアがようやくたどり着いた時、入り口で迎えたリウィウスはそう言って頭を下げた。


「ここなの?」


「へぃ。

 ……他の方々は?」


「後から来るわ。」


 脇へ退いてルクレティアに道を譲るリウィウスにうながされるままに部屋に入る。物資を保管するための倉庫内の一室だけあって内装も何もない。石畳の床に石積みの壁、そしてアーチ状に石を積んだ天井がむき出しになっている。その真ん中にメンサが据えられ、そこにこの部屋の唯一の照明である簡易な燭台にロウソクが一本灯されている。部屋全体を照らすには明らかに光源不足だが、それでも光の一つもない倉庫内の中央通路を通ってきたルクレティアにはややまぶしく感じられた。そして、机のすぐ脇に立つヨウィアヌスに見張られながら、ロウソクのすぐ近くにうずくまり一心不乱に何かを食べている黒い生物。猫ぐらいの大きさの人間のようだが、背中には割と大きなコウモリの羽根が生え、目は赤く光って見える。それが自分の頭の何倍もありそうなパンパニスのような物を両手で持ち、無我夢中でかぶり付いている。


 これが……インプ……


 ルクレティアが眉を寄せ目を細めたのはロウソクの光が眩しかったからなのか、それともインプの見た目の醜悪さからなのか……ともかくルクレティアは机を見据えたまま立ち止まり、息を飲んだ。

 インプが夢中で何かを食べ続けている様子に目を奪われたままのルクレティアに続き、部屋に戻ってきたリウィウスがインプを見張っていたヨウィアヌスと話を始める。


「何でぇ、まだ食ってんのかよ。」

「ああ、もうすぐ二つ目ぇ食い終わるとこだ。」

っせぇ身体のどこに入んだか、スゲェ食いっぷりだな。」

「もうリウィウスとっつぁんの分は残ってねぇぜ?」

「何ぃ、今食ってんのはおぇのだろ?

 俺のぁまだかごに残ってる奴じゃねぇのかい?」

「今のが二つ目って言ったろ?

 かごの中のはカルスの分さ。」


 そうこうしている間にインプは食べ終え、舌なめずりしながらパンパンに膨れた腹を満足そうに両手でなでさすり、そして近くに置かれた籠の中の残っていたもう一つに手を伸ばす。するとすかさずヨウィアヌスが籠を手に掴んで取り上げた。


「おっと、おぇの分はもう終わりだ。

 コイツぁカルスの分なんだからよぅ?」


 ヨウィアヌスが籠を頭よりも高く掲げ、インプを見下ろしながら𠮟りつける。するとインプはシーシーと言いながらヨウィアヌスの方へヨタヨタと歩み寄り、机の縁から身を乗り出すようにしてヨウィアヌスの服を掴み、すがりついた。


「あ、オイ駄目だっつったろ!?

 コイツぁカルスの分なんだよ!

 お前ぇのは終わりだ、ホラ放せって!」


 右手で籠を掲げ上げたヨウィアヌスが左手で何とかインプを引き離そうとするが、インプは諦めようとしない。両手でヨウィアヌスの服にしがみつき、しきりにキシーキシーと鳴きながら羽をバタつかせて抵抗する。その形相は必死そのものだ。ヨウィアヌスも机から離れればよさそうなものだが、そうするとインプが机から落ちてしまいそうだ。


「ヨウィアヌス、いいからくれてやれ。

 カルスの分は後で別のを買ってやらぁ。」


 呆れたようにリウィウスが言うと、ヨウィアヌスはしかめっ面でリウィウスをチラッと見、そして左手でまとわりつくインプを抑えながら右手に持った籠を机の真ん中へゆっくり戻した。


「いいのかよリウィウスとっつぁん

 もう屋台なんて閉まってるぜ?」


 ヨウィアヌスにしがみついていたインプは自分を押さえつけようとするヨウィアヌスの左手越しに降ろされていく籠を視線で追い、籠が机に降ろされるや否やヨウィアヌスを放して籠に向かって突撃する。


「何を……食べさせているのですか?」


 インプが籠に残っていたパンに飛びつくのを嫌そうな表情で見たままルクレティアが尋ねると、似たような表情でインプを見ていたヨウィアヌスが答える。


「えっと、ライベクーヘンとかいう菓子でさぁ。

 表の屋台で売ってた物らしいです。」


 摩り下ろしケーキライベクーヘンというのはジャガイモパンカートッペルプッファージャガイモケーキカートッペルクーヘンとも呼ばれるジャガイモで作るパンケーキに似たお菓子だ。実際、英語ではポテトパンケーキと呼ばれる。

 ジャガイモを摩り下ろして塩と香辛料を加え、多めの油で揚げ焼きにしたものであるが、摩り下ろすとは言ってもあまり細かくし過ぎないで繊維を残すのと余計な水分を絞ってある取り除くのがおいしさのコツだ。摩り下ろしたジャガイモには細かく刻んだり摩り下ろしたりしたタマネギを加えることもあるし、つなぎとして小麦粉や卵を入れることもある。なお、ライムント地方は小麦の生産は行われておらず、輸入に頼っていて比較的高価なのでアルビオンニアのライベクーヘンに小麦粉が使われることは滅多にない。

 高温で揚げ焼きにするので見た目はパンケーキというよりは揚げカマボコや掻揚かきあげに近い。外はこんがりサクサク、中はフンワリとしており、食感は揚げカマボコとはまったく別物だ。よく屋台で出されるランツクネヒト族の伝統菓子であり、ランツクネヒト族の住む地域で何かイベントがあれば屋台などで必ず目にする定番の品でもある。

 通常はアップルソースなどを酸味のある甘い果実ソースをつけて食べるが、帝都レーマではサワークリームをつけて出す店も多い。シュバルツゼーブルグを含むライムント地方ではクランベリーの生産が盛んなのと、南蛮から砂糖が比較的安く入って来ることからクランベリーのソースやジャムをつけて出す店が増え始めている。


 今インプが食べているライベクーヘンは、今日はブルグトアドルフへ行ったアロイスの部隊が今日帰って来るからというので、軍人たちの需要を見込んで営業していた屋台で作られたものだ。それを店主の期待通りに兵士が買い求め、兵舎に持ち帰っていた物の一部をヨウィアヌスがかっぱらってきたのである。このため、屋台で売られている時には添えられていたクランベリーソースはついてきてなかった。インプがかぶり付いているライベクーヘンはジャムもソースもついてない、素のままである。

 本来のおいしさからは幾分いくぶん味が落ちるはずだが、それでもインプは夢中でがっついている。ライベクーヘンの入った籠にたどり着き、よだれを垂らしながら両手を伸ばすインプを見ながらヨウィアヌスは尋ねた。


「それはそうとカルスの奴ぁどうしたんで?」


「カルスさんは伯爵公子閣下の御迎えに行かれました。」


 ヨウィアヌスの質問にはルクレティアではなく、ルクレティア付きの侍女クロエリアが答えた。

 籠に飛びつき、中に残されていたライベクーヘンを両手で掴みだしたインプが最初の一口を頬張り、顔を上げて満足げに咀嚼そしゃくする。そして二口目を食いつこうとしたインプは、ふとその視線の先にルクレティアを見つけた。


「・・・・・・・」


 インプの動きがピタリと止まり、赤く光る目がルクレティアを見据える。


「……りゅくえった、ひゅぱーたかしゃ?」


「しゃべった!?」


 首をかしげてルクレティアの名前らしきものを口にしたインプにクロエリアが思わず声を漏らし、おぞましい物でも見たかのような表情で口元を手で押さえる。名を呼ばれたルクレティア本人は顔を硬直させ、まっすぐおろしていた左手の肘あたりを右手で掴み、垂らしていた左手をギュッと握りしめた。

 リウィウスとヨウィアヌスはいつでもルクレティアを守れるように、腰の左側に差した小剣プギオーの柄に手をかけ、わずかに身構える。


「りゅくえった、ひゅぱーたかしゃ!

 ゆくえった、ひゅぱぅたかっしゃ!!」


 インプは食べかけていたライベクーヘンを籠の中へ投げ出し、四つん這いで机に放りだしていた手紙の元へ駆け寄るとそれを油でまみれた両手で抱え上げ、ルクレティアの方へ向かってトタトタと身体を大きく左右に揺らしながら歩み出た。そして机の縁まで来ると、両手で抱えた紙束をルクレティアの方へ突き出し、それをブンブン上下に振りながら笑顔でルクレティアの名前を連呼し始める。


「りゅくえった、ひゅぱーたかしや!

 ゆくえった、ひゅぱぅたかっしゃ!!」

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