インプ

第879話 倉庫

統一歴九十九年五月九日、夜 ‐ 『黒湖城砦館』ハーレ・デア・シュバルツゼーブルク倉庫ホレウム/シュバルツゼーブルグ



 晩餐会を終えたカエソーとアロイスはヴォルデマールの歓待に礼を述べ、大ホールを後にした。その後彼らは一旦自室へ引きこもり、それから『黒湖城砦館』ハーレ・デア・シュバルツゼーブルクの正門にほど近い、北側の倉庫群ホレアへ向かう。そこには彼らの部下たちが仮の兵舎として駐屯しており、部隊指揮官として就寝前に兵たちの様子を見に……というのは表向きの話であり、実際はそこから迂回して北西の倉庫群へ向かうためだった。

 北西の倉庫群は現在使われておらず空っぽの建物だけが残っている。が、今夜だけは『黒湖城砦館』の主ヴォルデマールも知らされることなく、臨時の取調室として使われることになっていた。その対象は言うまでもなくインプである。


 サウマンディア軍団レギオー・サウマンディアの二個百人隊ケントゥリアが駐屯している倉庫群の前を通り抜け、カエソーとアロイスがごく少数の供と共に北西の倉庫群へ到着する少し前、別のルートからカルスに先導されたルクレティアが到着する。


リウィウスとっつぁん奥方様ドミナが着いたぜ?」


 カルスが松明たいまつもランタンも無しに月明かりだけを頼りに迷うことなく目的の倉庫ホレウムへたどり着けたのは、そこが前回宿泊した際にヴァナディーズ襲撃の現場となった倉庫だったからだ。

 表の半開きになっていた扉から倉庫を覗き込んだカルスは用心深く、腰の右側に下げた短剣グラディウスの柄を掴み、中に居るはずのリウィウスに呼びかける。扉の向こう側、倉庫の真ん中をまっすぐ貫く広い通路は月明かりに慣れてしまったカルスの目には真っ暗な闇そのものだったが、左右の壁に並ぶいくつもの扉の内の一つが開け放たれていてそこからか細い明かりが漏れているのが見える。その明かりがわずかに揺れて数秒後、リウィウスの声が響いた。


「お~ぅ、こっちだぁ」


 よく見るとロウソクの頼りない明かりに照らされたリウィウスが手を振っているのがかすかに見える。カルスはヘヘッと安堵の笑みを浮かべて自分の後ろに付いて来ていたルクレティアを振り返った。


奥方様ドミナ、こちらです。」


 カルスは安心しきっていたがルクレティアとしてはそのまま馬鹿正直に中に入るのはどこか抵抗があった。何せここはあのファドが潜み、ヴァナディーズを襲った現場なのである。複雑な表情でカルスの曇りのない笑顔を見たルクレティアはわずかに逡巡した後、《地の精霊アース・エレメンタル》を呼び出した。


「《地の精霊アース・エレメンタル》様……」


 カルスはその声に一瞬目を丸くし、それからバツが悪そうに気を付けの姿勢を取った。精霊エレメンタルは神聖な存在であり、礼に則った態度を取らねばならない。そして貧民街で親の顔も知らずに育ち、ひょんなことから軍人になって初めて礼儀作法というものを習ったカルスにとって、高貴な存在に対する礼儀とは軍人が上官に対してとる態度に他ならなかったからだ。じゃあルクレティアはどうなんだ?カルスのルクレティアに対する態度は気安すぎないか?となるが、一か月近く身近に接してきたせいか、どうも悪い意味で慣れてきているようだ。

 そんな彼とルクレティアの近くに、緑色に光る半透明の小人が姿を現す。


『何用か、娘御むすめごよ?』


「《地の精霊アース・エレメンタル》様におうかがいいたします。

 この辺りに“敵”はひそんでおりますでしょうか?」


『この建物の中にはインプとホブゴブリンどもだけじゃ。

 全部、同じ部屋にまとまっておる。

 その他は何も居らん。ネズミすらひそんでおらん。』


 しばらく使われないまま放置されていた上に、ヴァナディーズ襲撃事件を受けて綺麗に清掃されてしまった倉庫にはネズミの餌になるような物は残っていない。屋根裏に巣くっていたコウモリですら綺麗さっぱり追い払われていた。


「で、ではこの倉庫ホレウムの周りはどうでしょうか?」


其方そなた下僕しもべどもだけじゃ。

 ……いや、北から兵どもが近づいてきておる。

 ヒトと……ホブゴブリンじゃ。

 まとまって来ておるが、ホブゴブリンは少ないの……』


「それはきっと味方です《地の精霊アース・エレメンタル》様。

 ヒトの軍人は伯爵公子閣下と、あとキュッテル閣下だわ。

 他には、他には何も居ませんか?

 あの……ファドみたいな者が潜んでは?」


『いや、おらん。

 は魔力を隠して居ったからだけじゃ。

 居るのは分かっておったが、“敵”と区別できんかった。

 じゃが、今は何も居らん。

 じゃからは潜んでおらんよ。』


 《地の精霊》から安全のお墨付きをもらい、ルクレティアはようやくホッと胸を撫でおろした。むろん、これらの会話の内 《地の精霊》の念話の分は周囲の者たちには聞こえていない。ルクレティアの声だけしか聞こえてなかったが、それでもルクレティアの態度からどうやら安全が確認されたらしいと言うことだけは分った。


「お待たせしましたカルスさん、行きましょう?」


 安堵したルクレティアがようやく緊張を解いてカルスに呼びかけると、カルスは先ほどまでのどこか弛緩した態度とは打って変わってビシッと引き締まった態度で元気よく答える。


承知しました奥方様エーティアム・ドミナ!!」


「!?……え、ええ……よろしく、お願いするわ……」


 まるで絵に描いた軍人のようなカルスの反応に面食めんくらい、ビクッとしたルクレティアだったが何とか気を取り直し、カルスに続いて倉庫へ入っていく。その後を《地の精霊》と、そしてルクレティアの侍女クロエリアが続いた。が、入った途端、そのあまりの暗さにルクレティアの脚が止まる。


「ま、待ってカルスさん。」


「は、はい奥方様ドミナ?」


 カルスはルクレティアの数歩前で立ち止まり、振り返ったがその姿は既に見えなかった。カルスの目が倉庫入り口から差し込む月光を反射しているのがかすかに見えるくらいである。


「その……暗いわ。何も見えない。

 あかりは無いの?」


「ああぁ……すみません奥方様ドミナ

 人目に付くから火は使うなと言われたもんで……」


「ア、アナタは平気なの?

 ホブゴブリンがヒトより夜目が利くなんて聞いたことないんだけど?」


 ヒトとホブゴブリンは種が違うだけあって見た目以外にも色々と能力的な違いもある。よく言われるのが体力だ。ホブゴブリンはヒトに倍する筋力を誇るが、スタミナはヒトに及ばない。あと、肩関節の微妙な違いからホブゴブリンは腕もまっすぐ上に挙げることが出来ない。だから何かに両腕で捕まってぶら下がって移動する、いわゆる「雲梯うんてい」が出来なかった。同じ理由で物をオーバースローで投げることが出来なかったし、剣を大上段から振り下ろすと言うことも苦手だ。何かを投げる時はサイドスローやアンダースロー、あるいは砲丸投げのように肩口や首元あたりから押し出すように投げなければならず、ホブゴブリンの軍団兵レギオナリウス投槍ピルム投擲とうてきする際も、砲丸投げのように肩口から斜め上に投げ出すように投擲している。

 ヒトと戦闘する上でそれらはホブゴブリンの弱点であり続けたが、それでもヒトに倍する筋肉量がもたらす力とスピード、そして頑丈さがそれらの弱点を補うに足るアドバンテージとなっていた。近接戦闘、特に格闘戦でホブゴブリンに勝てるヒトはまずいないと言って良いだろう。

 感覚器ではヒトより嗅覚が優れている点が挙げられる。いつぞやのカール・フォン・アルビオンニア侯爵公子を襲った毒麦事件でも、ホブゴブリンやブッカ、そしてハーフコボルトたちは麦に混入された毒麦の臭いを嗅ぎ取ることができたが、ヒトは毒麦の存在を教えられた後ですら誰一人その臭いを嗅ぎ取ることができなかった。

 ほかにも皮下脂肪が少ないので寒さに弱いとか、泳ぎが苦手とかいう話もある。平均寿命はヒトの方が確実に長いが、成長の速度はホブゴブリンの方が早い。知能はヒトの方が優れているとかいう話もあるが、大差ないという説もある。


 が、ヒトとホブゴブリンの差異はルクレティアが知る限りその程度の筈だ。視力でヒトとホブゴブリンの間に差があるなんて話は全く聞いたことが無い。たぶん、種族の差より個人差の方が大きいはずだ。そして、カルスの答えはルクレティアのそうした認識が間違っていないことを告げるものだった。


「あ、ああ……俺も見えてねぇですよ?」


 暗すぎて何も見えてない……それはどうやらルクレティアもカルスも同じだったようだ。が、カルスはルクレティアの前をまるでちゃんと見えているみたいに平気で歩いていた。


「!?

 じゃ、じゃあどうして平気で歩けるの?」


 見えないのに歩けるわけないじゃない!

 何かにぶつかったらどうするのよ!?

 つまづいて転んだりとかしないの???


 そうしたルクレティアの疑問は当然のものだろう。事実、ルクレティアの後ろで話を聞いていたクロエリアも驚き、困惑を隠せないでいた。が、そうした疑問に対してあっけらかんと答えたカルスは二人を拍子抜けさた。


「え!?……そりゃあ、ここにゃ何も無ぇことはわかってますんで、あとはこうやって壁に手ぇついて壁伝いに歩けばいいんですよ。」

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