第878話 二人の焦燥(2)
統一歴九十九年五月九日、夜 ‐
「怒られるだけで済めばいいけどな……」
「なんだよ?」
ナイスはヴォルデマールに難癖をつけて高価な皿を巻き上げた(まだ受け取っていないが)。そして巻き上げた皿を返すことなく、その償いをしなければならないとすれば、別の宝物と交換するという方法しかなくなるだろう。
ナイスたちに用意できる皿の代わりとなり得る宝物……その想像にナイスの顔が青ざめはじめた。
「まさか俺たちの
もはやナイスの頭の中には『
ゲーマーの子たちならかなりな聖遺物を遺産として受け継いでいる。だが、それが孫・
もしもそれでも数少ない聖遺物の中から何かを渡せなどと言われたら……
もちろん、聖遺物はゲーマーの血を引く正当な子孫でなければ所有できないことにはなっている。だが、聖遺物そのものの所有は無理でも聖遺物に関する何らかの権利を有することは聖貴族じゃなくても可能なのだ。
たとえばナイスが彼の魔導弓アイジェク・ドージを担保に借金をしたとする。それで借金を返せなくなれば、当然担保は差し押さえられることになる。すると、アイジェク・ドージに関する権利はすんなり債権者の元に渡ることになる。
債権者が聖貴族でなければ、たとえアイジェク・ドージの権利を有していても実際に手にしたり家に飾ったりといったことはできない。アイジェク・ドージそのものはムセイオンに強制的に収容されることになるのだが、権利者は代わりにムセイオンから金銭的な対価を受け取ることが出来るし、他の聖貴族に売却することも出来る。あるいは将来的にその債権者が聖貴族の誰かと婚姻関係を結べば、その子孫にアイジェク・ドージを相続させることも可能になるのだ。
大協約で聖遺物の所有に関して厳しい制限が設けられているのは、聖遺物……特に危険な
本当ならゲーマーの子たちが引き継いだすべての聖遺物は没収されるべきだろう。実際、大協約の草稿が検討されていた当初はそうした意見も声高に主張されていた。しかし、仮に大協約を盾に聖遺物を没収しようとしても、ゲーマーの家族たちは絶対に承諾しないだろう。
ゲーマーの妻となった聖女たちは元は普通の人間でも魔力を得て夫であるゲーマーに近い力を得るに至っている。ゲーマーの子を産んだ聖母ならば
誰も従わない法律など作るだけ無駄だ。むしろ法律を
そこで、所有権の移動は認めつつも制限を設けたのである。
聖遺物は聖貴族以外が所有することはできない。そして、聖貴族以外の者が所有する聖遺物はムセイオンに収容され、管理されなければならない。
大協約が制定された当時、聖遺物……特に魔導具を所有していたのはゲーマーの血縁者だけだったからこの条項はすんなり受け入れられた。聖貴族たちは自分たちの特権が認められたことになるのだし、それ以外の者にとっては危険な魔導具が正統ではない所有者の手に渡る危険性を排除できたのだから……しかし、実際にはこれは長い時間をかけて少しずつ聖貴族から聖遺物を奪い、ムセイオンに収容することを目的としたものだった。
世界は発展のために人材を欲している。魔力を有し、暴走しがちな
だが子供が増えればどうなるだろうか?子供が多ければ一人が相続する財産は必然的に目減りするのである。百個の魔導具を持った聖貴族が十人の子を儲ければ、一人が魔道具を十個ずつ相続することになるだろう。その子がさらに十人の子を儲ければ、一人が一つしか魔道具を相続できなくなる。聖遺物は聖貴族にとって権威の象徴だ。数多く所有しているならともかく、わずかしか所有していない聖遺物なら簡単には手放そうとしなくなるだろう。それだけでも魔導具が世に流出する危険性を大幅に減じることが出来るわけだが、もちろんそれだけでは魔導具の回収は進まない。
そこで、聖貴族以外への権利の移動を認めたわけだ。聖貴族のすべてが賢く清廉潔白に育つわけではない。必ず何人かは生活破綻者が出てくる。虚栄に満ちた貴族社会で生きていれば、必ず膨大な金が必要になる。そして金が足らなくなり、借金を背負う者が出てくる。そのうち聖遺物を担保にしたり売り飛ばしたりする者も必ず出てくるだろう。
聖貴族以外、聖遺物に何の権利も持ちえないのであれば、聖遺物は担保にすることもできないし売り飛ばすのも難しくなる。仮に担保にして金を借りたり、売り飛ばしたりするとすれば、その相手は聖貴族に限られることになるだろう。そんなことになれば聖遺物は元の所有者の手を離れても、他の聖貴族の手に渡るだけだ。下手すれば特定の聖貴族の元に聖遺物が集中するような事態になりかねない。だが聖貴族以外への権利の移動を認めながらも、聖貴族以外が所有する聖遺物のムセイオンへの収容を義務付ければその限りではなくなる。
聖貴族以外の貴族や商人たちは、己の名誉や見栄のために、将来への投資のために没落しつつある聖貴族に金を貸し、あるいは聖遺物の買取に応じるようになる。そして聖遺物はムセイオンへ収容される。それが進めば、いずれ聖遺物の多くがムセイオンへ行きつくことになるだろう。
気の長い話だ……が、そのプロセスの中に今ナイスがはまり込もうとしている。
もしもナイスがアイジェク・ドージの権利を手放すことになってしまえば、ナイスは相応の対価を払って買い戻すか、債権者に使用料を払うなどして
「
「おいおい、
いくら聖遺物に匹敵する品質とはいっても所詮は製造物だ。
「だけどお前、今代わりに対価になり得るものを持ってるか?」
「……ない……」
そう、今の彼らは何も持っていない。すべてを没収されていて、今ある財産は着ている服だけだ。金さえ持ってないのだ。ムセイオンから脱走した際、ムセイオンのあるケントルムで流通してる貨幣を持って来てはいたのだが、その貨幣はレーマ帝国では流通してないことに気づいて以降、それ使うと脱走者だとバレる可能性があると判断し使わないことにしていた。そして万が一にも落としたりして“足跡”を残してしまわないようにするため、アジトにまとめて置いて来てあったのである。
だから彼らは今、聖遺物に匹敵する品質の上等な皿の対価となり得るようなものなど、何一つ持ち合わせていなかったのだ。
「だろ?」
「いや、それなら後でいくらでも……」
ムセイオンに帰ってから代わりの品を……いや、それでは事後とはいえ自分たちの身分をバラすことになりかねない。俺たちの正体を隠したまま弁済するには……待てよ、そうすると
「……なんてこった……」
ナイスは自分の状況がどうやら結構深刻かもしれないと思い始めていた。顔色がどんどん悪くなる友を憐れに思い、メークミーは優しく慰める。
「まあ焦るな、まだ決まったわけじゃないさ。
けど、大事なのはここで騒いで失点を重ねないことだ。
じゃないとホントに
愛弓アイジェク・ドージを本当に失うかもしれない……その想像にナイスは世界がグルグルと回り始めるような気持ち悪さを感じていた。
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