第867話 悪魔
統一歴九十九年五月九日、晩 ‐
ルクレティアの一行についてシュバルツゼーブルグまで避難してきたブルグトアドルフ住民たち数十人は、敷地内に残されていた倉庫群のうち現在使われていない空いている倉庫をあてがわれた。一昨年の火山災害でアルビオンニウムから逃れてきた避難民の救済や
倉庫に入ったブルグトアドルフ住民たちは既に陽が沈んでいたこともあって、今から料理をするのは難しいだろうと夕食が配給になっている。それはもちろん、ホールでルクレティアたち
ごく平凡な
「すごいぞ!?
御馳走だ!」
「さすがはフォン・シュバルツゼーブルグ様だ!」
「シュバルツゼーブルグへ来てよかった。
街に残った奴らは残念だったな。」
「さあ、食べよう!ビールもあるぞ!?」
「荷解きなんか後で良い!そんなのは明日にして、こっちへおいで!!」
家族を、同郷の友人を、そして家を奪われ、蓄えを奪われ、街を追われたのに?……
その姿を見た者たちの中には少なからずそのように考える者もいた。事実、不謹慎に見えても仕方のない様相である。では彼らの内に悲しみや苦しみが無いかと言うと決してそう言うわけではない。彼らは彼らで己の内の悲嘆を討ち払いたいという気持ちもあったし、また愛すべき家族が、隣人たちが絶望に沈んでいる姿を見たくも無かったのだ。いわば、彼らの空元気だったのである。
とはいえ、他の住民たちにしたところでいつまでも沈み込んではいられない。一部の陽気な隣人たちにある者は引きずられるように、あるいはある者は当てられたように、誘われるままに食卓へ集まってきた。
「さあカッスィ、お前もおいで……
寝藁は良いのがたっぷりあるみたいだし、寝床なんか後で良いよ。」
カサンドラも住民たちに貸し出されたランタンの灯りを頼りに寝床を整えるべく家族の分も藁を積み上げ、その上からシーツを被せる作業の途中で呼び出された。
カサンドラは昨日から丸一日、ほぼ誰とも口を利かずに孤独に過ごしていた。一昨日の夜、ブルグトアドルフの我が家へ祖母の薬を取りに戻った際に見つけてしまった木のお化け……そのことを住民たちに話し、街へ戻るのは危険だと訴え、騒ぎを起こしたせいで彼女は家族からこっぴどく叱られたのだ。その後は一緒にシュバルツゼーブルグまで連れられてきたのだが、もし状況がこのようでなかったら彼女は数日家に閉じ込められていたことだろう。それは彼女に反省を強いるためでもあったし、彼女を隣人たちから守るためにも必要なことだった。
どの国、どの時代、どの地方であっても田舎の地域社会というものはどういう意味においても住民同士の人間的な距離感が近い。近すぎるくらいに近い。地域社会を構成する人間が少ないので、個々の結びつきがどうしても強くならざるを得ないのだ。そして、個々の結びつきが強すぎるということは、何か問題が起きた時には深刻化しやすいということでもある。
何か事件が起きれば誰もが当事者になってしまう。そして中立的な立場に立てる人間がほとんどいない。これは何か問題が発生したとしても、揉め事を仲裁してくれる第三者の介入を期待できないことを意味するのだ。
公正中立な裁定者が存在しない社会において、波乱が生じた際に無力な一市民が身を守る術は二つである。一つはその社会で他を圧倒しうる有力者に
社会そのものに服従することでしか身を守れないカサンドラとその家族は、カサンドラを必要以上に叱り、過剰といって良いほど反省を促す様を周囲に見せることで事態を乗り越えるしかなかったのである。でなければ、カサンドラは……一歩間違えればカサンドラの家族も、ブルグトアドルフで孤立を余儀なくされたことだろう。百戸に満たない小さな村社会に過ぎないブルグトアドルフで孤立するようなことになれば、もう生きていくことなどできはしない。それはその地域で抹殺されたも同然なのである。
「でも……」
カサンドラも若いとはいえ小さな社会で生まれ育った身である。地方社会のそうした空気は身に染みて理解していた。だからこそ、彼女自身も大人しく反省することを受け入れていたのだ。
「いいからおいで。
もうみんな許したから……さあ、いっしょに食べよう。」
許された……その言葉にカサンドラは胸の中のつっかえが取れたような安心感を得た。もちろん、家族のその一言ですべてが許されたわけではないことは理解している。ここで下手に調子づいて先ほどまでの反省の態度をすべて捨ててしまえば、「本当に反省したのか!?」「反省したフリをしてたんだ」と周囲から
カサンドラは少し大きな深呼吸を一つし、呼びに来てくれた母と一緒に倉庫の真ん中の通路に据えられた食卓へついた。何人かが何食わぬ顔で横目でジッとカサンドラの様子を観察している。カサンドラの家族たちはそうした隣人たちの監視の目に気づいていないフリをしながら、カサンドラを一番目立たない食卓の一番隅っこに座らせた。
「いいかい?
もうあんな騒ぎは起こしちゃだめだよ?」
肩を抱きながら母は繰り返し囁き、カサンドラはそのたびに黙ってうなずく。そう、こうやって反省している様子を、社会に順応しようと努力している姿勢を見せて隣人たちを納得させなければならないのだ。馬鹿げているが、必要な儀式でもあった。そしてカサンドラもそれを理解したうえで受け入れている。これからもブルグトアドルフで生きて行かねばならない彼女にとって、それは決して馬鹿げた儀式などではなかったからだ。
やがてカサンドラの前にも、料理を盛った皿が置かれ始め、カサンドラの座っている方とは反対側の端っこで男が立って盃を掲げた。
「いやぁ皆さん、ここまでご苦労だった。
だが今日、ようやくシュバルツゼーブルグまでたどり着くことができた。
我らのブルグトアドルフは大変な目に遭ったが……」
この倉庫を割り当てられた住民たちの中で一番立場の強い男が全員を代表して挨拶を述べ始める。まるで名士気取りだが、その挨拶は最後まで告げられることは無かった。
ガシャンっ!!
気のない様子でボーッと自分の目の前に置かれた料理を眺めながら、近所のおじさんの挨拶を聞いていたカサンドラの目の前に突然黒くて小さな生き物が現れた。
「キシッ、キシシシシッ」
そいつは猫くらいの大きさの黒い人間で、背中にコウモリの羽根を生やし、尻からは細く尖った尻尾が伸びていた。どこからともなく飛んできたそいつは着地の瞬間にカサンドラのスープ皿をひっくり返し、目の前の料理を台無しにしてしまっていた。そしてそれを悪びれるようにカサンドラの方を見上げ、愛想笑いをしていた。その赤く爛々と輝く目が自分の方を見上げてイヤらしく歪むのを見た瞬間、カサンドラは悲鳴を上げた。
「ヒッ、ヒヤァァァァァァァァァァ!!!!!!」
悲鳴を上げながらカサンドラは立ち上がり、後ずさろうとしてスカートと椅子が絡んだ拍子に後ろへ倒れ、ガタンッと木の椅子が石畳に叩きつけられる大きな音をたてながら自身も尻もちをついてしまう。
「なんだ!?
どうした??」
突然の出来事に驚いた家族や隣人たちが一斉にカサンドラの方を見る。
「悪魔!悪魔よ!!!
悪魔がそこにぃっ!!!!」
周囲の者たちに訴えるカサンドラの示した指先には何もいなかった。既に先ほどの謎の黒い生物は飛び去っており、ひっくり返ったスープ皿と野菜スープを浴びた料理の残骸だけが残っていた。
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