第856話 予想だにしなかった挫折

統一歴九十九年五月九日、夕 ‐ 繁華街/シュバルツゼーブルグ



 ペイトウィンは逃げ出した。デファーグとエイーと共に闇夜のように暗い裏路地を駆けていく。

 ルクレティア一行はあと半時間は来ないというウエイトレスの言葉を信じ、ひとまずテーブルに出された料理を大急ぎで腹に詰め込んだ。でなければ次はいつ食事にありつけるか分からなかったからだ。手あたり次第口にツッコミ、何度か噛むとエールで胃袋に押し込む……せっかくの料理だと言うのに味など分かったものでは無かった。その食い散らかし様を見て、実は彼らが貴族だなどと想像できる者などいなかっただろう。近くの席に座っていた他の客やウエイトレスなどは、呆れて目を奪われてしまったほどだった。

 その後、サウマンディウス伯爵公子の来訪を告げる先触れの声が表から聞こえ、彼らは食事を切り上げた。ひとまず手で掴めるだけ掴み、口に詰め込めるだけ詰め込むと転げるように店から飛び出していったのだ。会計は注文した時に前払いしてあったから心配はない。


「なんだったんだアイツら?」


 見ていた客が呆れてつぶやくと、彼らの給仕を担当したウエイトレスが可笑しそうに言った。


「他所から来たイイトコの坊ちゃんみたいだよ?

 ランツクネヒトの兵隊が怖いんだってさ。」


 それを聞いた客は一拍置いて笑い出し、その笑いはやがて店中に伝播した。

 恐れられる軍隊……それは勇猛の証。その軍隊の身内にとってそれほど誇らしいことはあるまい。かつての大戦争ではその獰猛どうもうさで敵味方双方から恐れられたランツクネヒト義勇軍はランツクネヒト支援軍へと格上げされ、今では辺境アルビオンニア属州を守るアルビオンニア軍団として勇名をほしいままにしている。余所者の生意気なガキがその名を聞いただけでが青くなって震えあがり、尻に帆をかけて逃げ出した……それは彼らランツクネヒト族にとって、シュバルツゼーブルグ住民にとって最高に愉快な笑い話だ。


 勇猛なるかなランツクネヒト、その武名こそ我らの誇り

 万歳フラー万歳フラーランツクネヒト!


 笑い声はいつしかアルビオンニア軍団を称える歓声となり、やがて誰かが歌い始める。


 さあ乾杯だアイン・プロージットさあ乾杯だアイン・プロージット

 この素晴らしき陶然にデア・グリューーーミーーッヒカーーイト

 さあ乾杯だアイン・プロージットさあ乾杯だアイン・プロージット

 この素晴らしき陶然にデア・グリューーーミーーッヒカーーイト

 オァンスツヴォアドライ飲み干せズッファ!!


 陽気な歌声は店の外にまで響いていたが、既に裏路地へ入って逃げ続けていたペイトウィンたちの耳にまでは届いていなかった。


 ハァッ、ハァッ、ハァッ、ハァッ!


 常人を遥かに凌駕する体力を誇るはずの聖貴族が、みっともないくらいに息を乱し汗をかきながら狭く暗い路地裏を駆け抜ける。だがその速度は必ずしも速いとは言えない。いや、足元さえ見えない暗がりであることを思えば十分速すぎるぐらいなのだが、それぞれスキルや補助魔法によって暗視能力を獲得している彼らにとって多少の暗闇など障害にはなり得ない。なら何故、こうまで息を切らし、汗をかきながらドタドタとみっともなく走るのか……食べ過ぎ飲みすぎが原因だった。


「ハァーッ、ハァーッ、まっ、待って! 腹痛ぇし……吐きそう……」


 最初に値を上げたのはペイトウィンだった。足を止め、よろけるように壁に縋りつく。


「何!?

 止まってる暇なんてないぞペイトウィン!」


 気づいたデファーグは振り向いて叱責してきた。が、そうは言っても頭はガンガン痛いし、まるで世界がグラグラ揺れているようで気持ちが悪い。ペイトウィンは壁に右ひじを突き、その手に握った拳に額を預け、痛い脇腹を左手で押さえながらあえぎ続ける。


「ダメだ、もう限界……ちょっと、待って……気持ち……悪い……」


 吐く自分自身の息が酒臭い。せっかく食べたものがこみ上げてきそうだ。


「クソッ……何なんだコレ!?

 うううえぇ……なんか、毒でも入ってんじゃ……」


 いっそ吐いた方が楽になるだろうか?……涙で滲んでいるせいか、それとも焦点が合わなくなっているのだろうか、とにかくぼやけてよく見えない足元を見ながらペイトウィンはそんなことを考えた。


「あんなに飲むからですよホエールキング様。」


 エイーの指摘にペイトウィンはショックを受ける。


「ええ……俺……酔ってるのか!?

 これが……酒酔いなのか!?」


 ペイトウィンはウエイトレスに子供扱いされたことの反発から、エールのお代わりを立て続けに頼み、食べ物を飲み込む際にエールで流し込んでいた。他の二人もエールは飲んだが、二人合わせてもペイトウィンが一人で飲んだ量の半分くらいじゃないだろうか?


 ペイトウィンにしろデファーグにしろ身体がまだ成長しきっていない子供も同然だったが、今まで酒を飲んだことが無かったわけではなかった。曲がりなりにも貴族なのだし、百年近く生きているのだから酒を飲む機会くらいいくらでもあった。だがここまで大量に一気に飲んだのは初めてのことだった。


 これまで彼らの周囲にいた大人たちも、一応彼らは身体は子供だからと言うことで酒を飲みすぎないように注意していたこともあって一度に多く飲む機会はなかった。せいぜい味見程度にしか飲んだことは無かったのだ。

 そして生来高い魔力を持つハーフエルフたちは一定程度の毒耐性を持っているのが普通だった。このため、酒を飲んだことはあっても、酔って体調に異変を来たした経験などは無かったのである。だからペイトウィンは自分は酒を飲んでも酔わないと勝手に思い込んでしまっていた。酒に酔った大人を見たことはあったが、あれはハーフエルフよりも劣るヒトだからだと思い込んでいた。


 そのペイトウィンが初めて入った酒場でウエイトレスに子供扱いされたのである。そりゃ飲むだろう。ヒトの大人でも飲めないくらい飲んで驚かせてやろう。子供ではないと見返してやろう。そう自覚的に考えていたかはわからないが、心のどこかにそういう心理が働いていたのだ。

 だが今、ペイトウィンは現実を思い知らされていた。


 酒に酔わないと思っていた自分が、酒に酔っている!?

 あんなに軽蔑したヒトNPCの大人と、同じになっているというのか!?


 まるで世界が丸ごと揺れているような酩酊感めいていかんは酒のせいばかりではなかった。


「もう……解毒魔法をおかけしましょうか?」


 三人の中で一番平気そうなエイーが気遣きづかってそう言った。実はエイーは既に解毒魔法によって自分の体に入ったアルコールを除去してしまっていたのだ。


「ああ……ああ……たのむ……」


 ペイトウィンは耐えがたい挫折感を味わいながら、現実を受け入れた。

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