第986話 セウェルス、再会

統一歴九十九年五月十日、早朝 ‐ マニウス要塞カストルム・マニ/アルトリウシア



 三ピルム(約五メートル半)ほども離れれば人の顔を見分けるのも難しくなりそうな霧と暗さの中ではあっても、ネロの前に突如現れた男は見間違えようが無かった。二年前の火山災害に巻き込まれて左半身に重度の火傷を負って以来、顔の左半分がケロイド状になっていた上に左目と左脚を失っているのだ。その特徴、一目見れば簡単には忘れることなど出来はしない。服に隠れているので今は見えないが、その胴体も左腕も顔と同様に醜い火傷の痕が残っていることをネロは知っていた。


「お、叔父上、ご無沙汰してます……

 その……どうして……」


 現れたのはネロの叔父だった。名はセウェルス・アヴァロニウス・ウィビウス……かつては父や兄と同じくアルトリウシア軍団レギオー・アルトリウシア百人隊長ケントゥリオだった男であり、左脚を失って除隊を余儀なくされたものの、今では要塞司令部プリンキピア事務官カッリグラプスとして働いていると聞かされている。戦争と災害で目減りした親戚の中で数少ない生き残りの一人であり、不始末をして強制除隊させられた挙句に奴隷にまで堕とされてしまったネロにとって、一番会いたくない相手の一人だった。

 体格だけは立派なくせにどうしていいか分からずオロオロする甥っ子にセウェルスは急いで駆け寄る。


「どうしてもこうしてもあるか、お前に会うためにこうして……

 ええい、ちょっとそこで待ってろ、動くな!」


 いくら急いでも杖を突きながらヒョコヒョコとしか歩けないセウェルスから、逃げようと思えばいくらでも逃げることはできただろう。実際、ネロは何度か逃げようと試みた……が、何故か脚が動かなかった。動けなかった。


 怒られる……叱られる……どうしよう!?


 頭の中に叔父の、母の、家族や親戚たちの怒った顔が次々と浮かび上がってきて何も考えられない。

 心に葛藤を抱えたまま観念したように立ちすくむネロに、セウェルスは間近まで駆け寄るとそのままの勢いで飛び掛かってきた。


「おっ、叔父!?」


「ネロ!!ネロぉぉ……」


 気づけば飛びついてきたセウェルスの右腕は左肩越しに背中に回されており、右肩にはセウェルスの顔が押し付けられていた。それが抱擁であることにネロが気づくためには十数秒もの時間を要した。


「この馬鹿野郎、この、心配させやがってぇ……」


 セウェルスは、かつて子供だった頃に会った時と比べて小さかった。あれだけ太く力強かった腕もやせ細って、身体全体が軽いようにも感じられる。なのにネロはセウェルスを振り払うことが出来なかった。それどころか抵抗することも出来なかった。ただ、小さくなり、細くやせ細り、軽くなってしまった叔父の力はやけに強く感じられた。そして何より力強く抱き着いた叔父の震えがロリカ越しに伝わり、ネロを驚かせた。


 叔父さんが……泣いている!?


 ネロの耳に届いたのは間違いなくセウェルスの嗚咽おえつだった。それに気づいた途端、先ほどまでネロの頭の中を埋め尽くしていた家族や親戚たちの怒った顔が急に消え去り、代わりに家族や親戚たちの悲しみながらも優しく微笑む顔が次々と浮かび始める。その中にはそんな表情をしているところなんて見たこともなかった人も居たが、ただネロはその時、自分が受け入れてもらえていることを心の底から実感していた。


 彼らを悲しませているのは……自分だ……


 今まで必死に目を背けていた罪悪感が急激に沸き起こってくる。


 裏切っていた……自分を受け入れてくれていたのに……信じてくれていたのに……許してくれるのに……恐れて……裏切っていたんだ……


 そのことに気づいたネロの目頭が急に熱くなってくる。


「ごめん、ごめんなさい、叔父さん……ごめんっ!」


「馬鹿野郎、ネロ、この馬鹿野郎……」


 自然と声が口を突いて出てくる。夜明け前の霧の中、二人の男たちの嗚咽おえつが静かに響き、そして溶け込んでいった。


 長い時間だったのか、短い時間だったのかは分からない。霧の濃さも明るさも大して変わってないから、それほど長い時間ではなかったはずだ。ただ二人は自然と落ち着きを取り戻し、そして離れて向かい合った。


「とにかく、元気そうでよかった。」


 セウェルスは指で涙を拭いながら言った。それを見て眼球が無くても涙は流れるんだななどと場違いなことを思いながら、ネロは目を伏せる。


「ごめんなさい、俺……」


「いや、いい。事情はクラッスス閣下から聞いて知っている。」


 何とか説明をしようと試みるネロをセウェルスが止めさせると、ネロはセウェルスの話に出て来た名前に驚く。


「クラッスス閣下って……要塞司令官プラエフェクトゥス・カストルム!?」


 セウェルスが除隊して軍団レギオーから離れたものの、人手不足から事務官として再び軍務についたとは聞いていた。マニウス要塞の司令部で働いているとも……だが、ネロも当時はアルトリウシア軍団に入隊したばかりで実家にはあまり帰らなかったこともあって叔父のその後について詳しくは聞いてなかったので、まさか要塞司令官と直接接する立場だとは思ってもみなかった。


「ああ、事務官カッリグラプスだからな?」


 ネロの驚く様子から少し気をよくしたらしい、どうと言うことは無いという風を装いながらもどこか自慢げにセウェルスは口角を持ち上げ、話を続ける。


「クラッスス閣下もその……お前の御主人様に謁見なされたそうだな。

 私なんかではは叶わんが、それでもクラッスス閣下の身の回りの雑務をやっているからな、必要が認められてのことは知らされている。

 だが、しかし……」


 セウェルスはそこまで言って言葉に詰まり、無言のまましばしネロの顔を観察する。


 馬鹿なことをしたな……

 軍命に背くやつがあるか!

 敵に攻撃するのは難しくない、攻撃するだけなら臆病者にだってできるんだ。

 戦場では臆病な奴ほど、恐怖から逃れるために武器を振るうもんだ。

 それで味方を巻き込んじまう。

 逃げもせず、攻撃もせず、かといって動かんでもなく、軍命に従うのが良い兵士だ。

 なのによりにもよって勝手に攻撃を始めるなんて……

 手柄に目がくらんだか……

 メルクリウスと《暗黒騎士ダーク・ナイト》を見間違えるなんて……

 殺されなかっただけ幸運だった。

 よく生き残れたものだ。

 死んでてもおかしくなかったぞ!?

 いや死ぬだけならいい。

 それを機に《暗黒騎士ダーク・ナイト》がアルトリウシア軍団レギオー・アルトリウシアを敵と見定めて襲い掛かって見ろ、全滅はまぬがれん!

 レーマ帝国だってどうなるか……そんな恐ろしいゲイマーガメルに軍命を無視して攻撃するなんて、処刑されても当然だ。

 いや違う、そんなことを言いたいんじゃない。

 今更言ってもしょうがないじゃないか……

 ともかく生きててくれてよかった。

 奴隷に堕とされたが、しかし結果的には大出世だったんじゃないか?

 奴隷とはいえ降臨者様にお仕えできるんだ、そうだろう?

 それにしたって連絡の一つも寄こしてくれんとはどういうことだ?

 あれから一か月だぞ、いくら奴隷の身とはいえ……


 言いたいことは山ほどあった。だがいざ甥っ子に会ってみるとそれらは全部どうでもいいことのようにも思えてくる。セウェルスは何かを振り払うように小さく頭を振った。


「叔父上?」


「いや、歩こう。ここは寒い。

 要塞司令部プリンキピアに行く途中なんだ、付き添ってくれ。」


 セウェルスはそう言うとネロを待ち伏せていた場所に置いてきた荷物を拾いに歩き始める。ネロは一瞬の逡巡の後、叔父の後をガシャガシャと装備を鳴らしながら小走りで追いかけた。

 荷物を拾い上げたセウェルスにネロが追い付くと、二人は連れ立って歩き始める。要塞司令部はセウェルスにとってこれから出勤する職場だったし、その建物の裏はネロにとっての住居兼職場の陣営本部プリンキパーリスだ。トレーニングの途中ではあったが、同時に帰る途中でもあったネロにとっては、どうせ行く方向は同じである。

 連れ立って歩く二人はしばらくの間無言のままだった。セウェルスがわざわざ待ち伏せていたということは、何か用があってのことだろうとネロは叔父の言葉を待っていたし、セウェルスはセウェルスで話をどう切り出していいか迷っている様子だった。

 だが、いつまでも無言のままと言うわけにもいかない。要塞司令部に近づけばさすがに人目も増えるだろうし、聞かれたくない話を聞かれてしまうかもしれない。セウェルスは覚悟を決めるとそれまでうつむき気味だった顔をわずかに上げて大きく息を吸い、思い切ったように口を開いた。


「ネロ……お前のこと、プリマに知られてしまったぞ?」

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