追われる者たち

それぞれの朝

第985話 早朝トレーニング

統一歴九十九年五月十日、早朝 ‐ マニウス要塞カストルム・マニ/アルトリウシア



 その日の朝靄あさもやはいつもより濃かった。漆黒の空が青白くなるにつれて漂い始めたもやは時間と共に深みを増し、既に霧といって良いほどの濃さになりつつある。まるで空の雲が地上に降りて来たかのようだ。

 ただそこに立っているだけで冷たく濡れる乳白色の闇の中を、一人の男が息を切らせながら歩いていく。歩くと言ってもその速度は常人の小走りに近い速さだ。ホブゴブリンにしては大柄な男は重く古びた軍装に身を包み、軽装歩兵ウェリテス用の円盾パルマ投槍ピルムを手に持ち、腰には肩から襷掛たすきがけに騎兵用の長剣スパタを下げている。フード付きの外套サガムの下に隠されたそれらはいずれも使い古したボロばかりな上に種類もチグハグで何の兵科か分かりづらいが、身に着けている武装は少なくともレーマ軍のそれであることには違いない。だが彼はレーマ兵ではない。ホブゴブリンでありながら、マニウス要塞カストルム・マニを拠点とするアルトリウシア軍団レギオー・アルトリウシア軍団兵レギオナリウスではなかった。


 ハァ……ハァ……ハァ……ハァ……


 吐き出す白い息は、そして身体から立ち昇る湯気は、瞬く間に霧の中へ溶け込んでいく。時折、額から垂れて来た汗を拭いながら彼が人気ひとけのまったくない要塞カストルムを歩きまわり始めてもうすぐ一時間にはなるだろうか?そのペースは徐々に乱れ、落ちて来ていた。


 ハァ……ハァ……ングッ……ハァ……

 クソッ、やっぱり体力が落ちて来てるな……


 軍団レギオーを離れて以来、それでも時間の許す限り鍛錬を重ねてきた。だがそれでも体力の低下は認めざるを得ない。身体を鍛えるための時間が、現役だったころのように確保できてないせいだ。食べ物は良くなってるはずなのに、身体を鍛える時間は半減してしまっている。

 決して忙しいわけではない。むしろ、当初予想していたよりずっと自由に時間を使わせてもらえているくらいだ。その自由な時間をすべて鍛錬に注ぎ込むことが出来たなら、たった一か月で体力の低下を実感してしまうほど体はなまらなかったかもしれない。

 にもかかわらず鍛錬の時間を確保できない理由……まずは「待機」も仕事の内だからだ。表向きは自由な時間であっても、いつどんな仕事が舞い込んでくるか分からない。いつ仕事が舞い込んできても対応できるように待機せねばならないときに、筋トレで体力を消耗してしまうわけにはいかない。

 もっとも、これは当番を決めてあるのだから、非番の時にまでは影響しない。非番どころか、安息日なんてものまで貰えるくらいなんだから、やろうと思えばもっと鍛錬のための時間を増やすことは造作もないことだろう。

 鍛錬の時間を増やせないのにもっと別に理由がある。人目を避けるためだ。


 要塞外への外出は原則禁止だ。要塞内も基本的に要塞司令部プリンキピア周辺区画の外へはなるべく出るな。人目を避け、外部との接触も極力避けろ。


 そういう指示が出されているのはもちろん影響していないわけではない。だが、それでも要塞内であれば、今彼が実際にそうしているように出歩くことは可能だ。にもかかわらずここまで周到に人目を避けているのは、もっと深刻な理由が彼にあるからだった。


 人に見られたくない。人目に触れるわけにはいかない。誰にも見られたくない。


 そうした彼自身の感情が、人目のある時間帯での鍛錬を不可能にしていた。今、人通りのない夜明け前の要塞内でたった一人で行軍訓練の真似事をしているのは、そうした理由からだった。


 筋トレや剣術・格闘術といった訓練は屋内でも出来るが、何よりも重要なのは行軍訓練だ。ヒトに比べて筋力に大きく優れるがスタミナでは大きく劣る彼らホブゴブリンが、兵士として一人前になるためにはとにかく歩いたり走ったりして持久力を高めなければならない。実際、ホブゴブリンで構成されるアルトリウシア軍団はヒトで構成されるアルビオンニア軍団レギオー・アルビオンニアに比べ、行軍訓練に二倍近い時間を費やしているほどなのである。

 にもかかわらず、彼の場合は外出できる時間が限られているために持久力をあげるための行軍訓練が満足に行えないのだ。代わりに筋トレなどを強化しているのだが、筋肉が付きすぎたのか持久力は却って低下してしまっている気がしている。


 クソッ……情けない!

 こんなんじゃ……

 こんなんじゃ、父さんや兄さんみたいに、立派な軍人になれない!

 母さんの期待に、応えられない!!


 兵隊にとって一番重要な仕事は攻撃でも防御でもない、移動することである。戦場において敵に対して優位な位置に陣取るためには何よりも機動力が必要だ。そして攻撃するためにも、逆に逃げるためにも脚力が何よりもモノを言う。

 鉄砲が普及してしまっているこの世界ヴァーチャリアでは、かつてのようにホブゴブリンが筋力でヒトの兵士を圧倒するという場面はほとんどなくなった。適切なタイミングで適切な場所へ移動し、一糸乱れぬ陣形運動によって敵陣に向けて銃撃を浴びせる……求められるのはそれを実現するための能力なのである。その点、ヒトはホブゴブリンより優れていた。ヒトとホブゴブリンが取っ組み合いをすれば必ずといって良いほどホブゴブリンが勝つし、短距離走でも確実にホブゴブリンの方が速いが、長距離走はヒトが圧倒的に速い。鉄砲を主力兵器として運用する戦列歩兵戦術では、ホブゴブリンはヒトより不利なのだ。

 だからこそ、ホブゴブリンの彼が立派な兵士になるためには、筋力なんかよりも持久力を高めねばならないのである。


 なのに……なのに……

 クソッ、兵士の仕事は走る事だろうが!


 わざと重たい装備を身に着け、さらに重石おもしを詰め込んだ鞄まで背負って軍団の標準的な行軍速度で歩いて約一時間……もうかなり限界が来ていた。情けないことに足取りがおぼつかなくなってきている。

 その彼の前に突然、兵舎の向こうから人影が飛び出してきた。


「!!」


 見られた!?……思わず一瞬立ち止まる。飛び出してきたのは左目と左脚のないホブゴブリンの中年男だった。見覚えのあるその顔と目が合い、相手の正体に気づいた彼はパッと身をひるがえしてその場から立ち去ろうとする。が、立ち去る前に呼び留められた。


「待て!ネロ、私だ!」


 重たい装備に身を包み、既に体力を消耗しているとはいえネロはまだ十七歳の若者。本気で逃げれば杖を突いた隻脚の中年男に追いつかれるはずもない。が、ネロは叔父の、かつての上官の呼び声を無視することが出来なかった。

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