第987話 母の愛
統一歴九十九年五月十日、早朝 ‐
「母さんが!?」
セウェルスがポツリと言った言葉にネロは思わず立ちすくんだ。セウェルスが口にしたプリマはトラヤニア・ウィビア・アヴァロニア・レグリア、セウェルスの姉であり、ネロの母親でもある女性だ。妹が二人いるため家族は一番上の姉である彼女を
ネロが立派に
母さんに……知られた!?
ネロの実家レグルス家は
レーマでは軍団兵が無事に定年を迎えて退職すると、まとまった土地か相当の退職金かのどちらかを貰うことが出来る。先祖代々の軍人一家だったレグルス家もネロの祖父と曾祖父が定年退職した際に貰った農園を持っていたのだが、父と兄を相次いで失ってからは畑で働く男手はなく、農園での収穫は見込めなくなってしまっている。やむなく農地を近隣の農場主に貸し、得られた賃料で何とか
その状態から生活を切り詰め、入隊したての新兵ネロを十人隊長に就任させるだけの金を集め、惜しげもなく注いだ母……入隊する日は涙を流して見送ってくれた母……その母が、ネロが強制除隊させられた挙句、奴隷にまで堕とされて売り払われてしまったと知ったらどう思うか。
それはネロが一番恐れていた事だった。ネロは眼前が急に暗くなるのを感じた。
「お前、自分が奴隷になったことをプリマに隠していたな!?」
振り返ったセウェルスの見たネロの表情はまさに
「お、お、叔父上、まさか叔父上が?」
「馬鹿言うな!」
セウェルスはネロが立ち止まってしまったために離れてしまった距離を詰める。
「そんなこと言えるわけないだろ!?」
𠮟りつけるつもりでネロの顔を覗き込んだセウェルスだったが、その時セウェルスはネロ自身も酷いショックを受けていることにようやく気付いた。ネロが奴隷にされたことを知った母プリマと同じように焦点のあっていない瞳を、唇を震わせ、今にも過呼吸を起こしそうな様子だ。
今、ネロを責めても仕方がない。いや、責められないと気づいたセウェルスは思わず身を引き、
「じゃ、じゃあ誰が?」
「誰も彼もない。噂で聞いたんだ。」
救いを求めるように叔父を見るネロから、セウェルスはあえて顔を背けた。
「だいたい、隠し通せるわけないだろ!
目と鼻の先に住んでるんだぞ!?」
言いづらそうに押し殺した声で、だが吐き捨てるようにセウェルスが言うとネロはグッと息を飲んだ。
セウェルスの言ったことは当たり前のことだった。ネロの母プリマはマニウス要塞の
そんな彼女が異変に気付かないわけが無かった。
愛する息子ネロが帰ってこない。姿も見えなくなってしまった。ひょっとして、
いいえ、あの子はアルビオンニアに行っていたはず……ハン族とは戦ってないわ。じゃあ、どうして帰ってこないの!?
アルビオンニアに行っていた
手紙に書いてあった「特殊作戦」っていったい何?
母プリマの元にはネロから一応手紙が届いていた。ネロは
曰く、
曰く、
曰く、命令に反した
曰く、奴隷にされた奴らは買い手がつかず、仕方なく
そして母プリマはその噂になっている奴隷に堕とされた軽装歩兵の中に、ネロの名を聞きつけてしまったのだった。
プリマは必死でネロの動静を探った。脚が悪いにもかかわらず表に出ては行く軍団兵を呼び止め、直接話を聞いて回るような真似さえした。
セウェルスも姉プリマを見舞った際に問い詰められた。軍団の機密に触れるから話せないと突っぱねたのだが、それは噂は真実であると伝えているようなものだった。
要塞の中枢で働いている弟は何かを知っている。そしてその弟は軍機に触れるからと話してはくれなかったが、だがキッパリ否定もしてくれなかった。それを機に噂が真実だったと理解してしまったプリマはその場で卒倒してしまった。
ネロの母プリマはそれ以来病床に
「お前、特殊作戦だとか手紙に書いたそうだな?
まあ、その説明もあながち嘘ではないかもしれん。
だがそんな与太話が通じるわけないだろ!?」
一応遠慮しながらも、愛する姉を不幸にしてくれた不詳の甥っ子に堪えきれずに小言を溢すセウェルスが顔を背けたまま横目でチラッとネロを見ると、ネロの身体は力なくフラフラと揺れ始めていた。
「せめて、せめてあと
「二月?」
「そうすれば、リュウイチ様のことが、秘匿解除になって……それで、多少なりとも言い訳が……」
「三か月も隠し通せるわけないだろ!?」
いかにも子供じみたネロの甘い考えにセウェルスは思わず声を荒げた。
「一か月でも隠せていただけ大したもんだ!
プリマだってあっちこっち知り合いがいるんだぞ!?
お前を
ネロは思わず手に持っていた武装を地面に落とし、両手で顔を覆い、その大柄の身体を柄にもなく嗚咽と共に震わせ始めた。
図体ばかりは既に一人前の男に泣かれてもらっても困る。
「よせ、泣きたいのはプリマの方だ!
お前に泣く資格なんかあるもんか!」
思いもかけずに飛び出た辛辣な言葉ではあったが、ネロはむしろ当然のように受け入れ、逆に言葉を発したセウェルス本人の方が気まずさに耐えかね、つい舌打ちをする。
「か、母さんは?」
「ショックで寝込んださ……今はもう回復して起き上がってるがね。
だが、あと
「?」
言葉の意味が分からず、ネロは涙に濡れた顔を露わにして叔父を見た。セウェルスはボリボリと頭を掻き、しばらく間をおいて答えた。
「プリマだけどな。
お前を買い戻すって、金を集め始めてるぞ?」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます