第840話 オットマーの腹積もり
統一歴九十九年五月十一日、夕 ‐ キルシュネライト伯爵邸/レーマ
「伯父殿、どうか気を落とされずに……」
ヴェルナー・フォン・キルシュネライト伯爵公子は伯爵邸を辞するエーベルハルト・キュッテルを見送りながらそう励ました。
「ありがとうございます、ヴェルナー様。
大丈夫、私はそれほど気にしておりませんよ。
伯爵閣下のお考えも決して間違っているわけではございません。
ただ、優先順位の付け方が私と閣下で違いがあっただけですからね。」
エーベルハルトは努めて明るく答えたが、その笑みに力は無かった。
オットマー・フォン・キルシュネライト伯爵の考えは変わらなかった。明日は参内には応じず、予定通り日曜礼拝に参列する。参内は明後日の月曜日以降に調整する……それがオットマーの決定だった。
オットマーとしては先に足場を固めておきたいらしい。彼はアルビオンニア属州の代表という立場の
何かの代表者として力を振るう場合、その力の源泉となるのはその何かの支持そのものだ。オットマーの場合はアルビオンニア属州、そしてレーマに居るランツクネヒト族ということになる。アルビオンニア属州やアルビオンニア属州以外の地域に住んでいるランツクネヒト族の支持が大きければ大きいほど、オットマーの発言力も大きなものとなるのだ。
しかし、今回対峙しなければならないのは
つまり、オットマーはフローリアと対峙する上では、アルビオンニア属州から実質的に切り離されてしまったに等しい。いくらオットマーが「私はアルビオンニア属州の代表者であり、私の発言はアルビオンニア属州の意思である」などと主張しても、そのアルビオンニア属州との認識共有は数か月がかりでなければできず、フローリアはその間にアルビオンニアへ行き、
というより、フローリアはそれをするだろう。一つの書簡を往復させるだけで二か月はかかる以上、オットマーを窓口にしてアルビオンニア属州と連絡を取り合うなど無駄以外の何物でもない。オットマーはアルビオンニア属州の窓口としては認めてもらえない可能性が高い。
であるならば、オットマーがフローリアと対峙する上で必要となる力は、今現在レーマで暮らしているランツクネヒト族コミュニティの支持のみなのである。そして、ランツクネヒト族コミュニティの中心に存在するのがレーマ正教会であった。
日曜礼拝を利用してレーマ正教会を統べる総大司教に会い、現状の認識を共有するとともに支持を取り付ける。レーマ正教会はオットマーへの支持を表明するだろうし、礼拝のために集まった信徒たちランツクネヒト族たちにオットマーへの支持を呼び掛けてくれることだろう。
私はレーマ帝国に住まう全てのランツクネヒト族を代表して意見を言わせていただきます……そう言えれば、機能不全になっている属州代表という肩書よりよっぽど発言の重みが増すというものだ。
そしてレーマ正教会の支持を取り付けるのも、レーマ正教会が信徒に支持を呼び掛けるのも、オットマーが参内する前の方が良い。何が起こるか分からない……何も明らかになっていない現状での、そういう不安感がオットマーへの支持をより強くするであろうからだ。
逆にもし先に参内し、フローリアと会って協力関係を結んだ後でレーマ正教会に支持を取り付けに行ったとしたら……その時既にフローリアとの関係が出来上がって事態が安定しているとなれば、そこであえてオットマーにすべてを任せるという気は起きにくくなってしまうだろう。オットマーが支持を呼び掛けても「いや、だって大聖母様が働いてくださるんだろ?」と思われるのがオチだ。仮にオットマーへの支持を約束してくれたとしても、それは切実なものとはならないはずだ。
オットマーが政治家として、支持母体であるレーマ・ランツクネヒト族の支持をより強固に集めるのであれば今を置いて他にない……そう考えるのは何ら無理のないところである。むしろ、政治家としては正し判断を下したと言えるかもしれない。
しかし、それでもエーベルハルトとしては参内の方を優先すべきだと言う気持ちには変わりが無かった。
アルビオンニア属州は祖国を追われてレーマ帝国に渡ったランツクネヒト族にとって、初めての“自分たちの領土”であり“約束の地”なのである。ランツクネヒト族の領主が治め、多くのランツクネヒト族が住む“安住の地”。レーマ帝国にランツクネヒト族が安心して根を下ろすことができる拠点であり、心のよりどころなのだ。ランツクネヒト族にとってはレーマから少しばかり遠すぎるのと、寒すぎるのが難点ではあったが、それでもレーマのランツクネヒト族にとってかけがえのない土地であることには変わりはない。
今回の降臨はそのアルビオンニア属州で起きたのだ。しかも降臨したのは本人ではないとはいえ、史上最強は間違いないとされる《
もしも一人で数百人のゲイマーを短期間のうちに討ち取ったという《暗黒騎士》が再び暴れ出したら、アルビオンニア属州は間違いなく壊滅してしまうだろう。現地に住んでいる住民は死滅してしまうだろうし、二度と人の住めない土地になってしまうかもしれない。
仮にそうならなかったとしても、それだけ強力なゲイマーがアルビオンニア属州に住まうこととなれば、アルビオンニア属州が今のようにエルネスティーネの治めるに任せたままとなるかどうか疑問だ。《暗黒騎士》が平和裏に居住するとなれば、現地に
たかが一属州が強大すぎる力を持つことを、レーマ帝国が認めるだろうか?
そうなるとアルビオンニアは侯爵家から召し上げとなり、
そうなればランツクネヒト族はアルビオンニア属州という土地を失ってしまうことになるだろう。せっかく得た安住の地を、約束の土地を、自分たちの国を……再び失うのだ。
そんなことは認められない。許すわけにはいかない……
そのためには一日でも早く参内し、皇帝マメルクスに、あるいは大聖母フローリアに謁見し、アルビオンニア属州安堵の約束を取り付けてもらわねばならないのだ。それができるのはランツクネヒト族でありアルビオンニア属州代表元老院議員であるオットマー・フォン・キルシュネライト伯爵ただ一人なのである。
「ともかく、私も自分で出来ることをするつもりです。
ですからヴェルナー様……」
エーベルハルトは車回しまで見送りに来てくれたヴェルナーに期待をかける。ヴェルナーもそれを分かっていたのだろう、夕日を受けてオレンジ色がかった褐色の顔に笑みを浮かべた。
「わかっています伯父殿。
父の意向を今更変えることはできないでしょうが、せめて礼拝の後にでも参内できないか調整してみます。」
レーマ正教会の日曜礼拝は昼のうちに終わるはずである。オットマーは礼拝の前後で聖職者たちと会談するつもりだろうが、なるべく早く切り上げさせればもしかしたらその日のうちに参内することもできるかもしれない。ヴェルナーに出来るのはその可能性を探ることだけだった。
「それだけで十分です。どうかよろしくお願いします。」
エーベルハルトは孫ほど歳の離れたヴェルナーにそう言って後事を託すと、座輿へ乗り込んだ。
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