第838話 キルシュネライトの対応(1)

統一歴九十九年五月十一日、午後 ‐ キルシュネライト伯爵邸/レーマ



 今日は土曜日、明日五月十二日は日曜日である。キリスト教徒にとっての安息日であり、教会で礼拝をする日だ。キリスト教徒なら教会へ行き、司祭らの説教に耳を傾け、讃美歌を歌い、祈りを捧げなければならない。

 とはいっても、オットマー・フォン・キルシュネライト伯爵自身はそれほど熱心なキリスト教徒というわけでもなかった。もちろん彼も幼いころ、日曜ごとに礼拝をするようになってからというもの屋敷の礼拝堂で、あるいはあの荘厳なレーマ大聖堂で、何か魂が清められていくような神聖な何かを感じた経験は幾度か重ねている。だが、それが異教徒たちもそれぞれ自らが信じる神の神殿で等しく経験していることであることも分かっていた。


 この世界ヴァーチャリアには神々が多すぎる。

 キリストもキリスト教の神もこの世界ヴァーチャリアでは数多ある神々の一柱でしかない。

 しかも主は《レアル》の神……この世界ヴァーチャリアでは異界の神だ。


 そうした認識はレーマ帝国に移り住んだ多くのキリスト教徒たちが共通して持っているものだった。彼らはそれを実感していた。異教徒がそれぞれの信ずる神と、あるいは精霊エレメンタルと意思を通じて奇跡を起こすのが珍しくもないこの世界では、《レアル》のキリスト教徒たちがそうしたようにそれら異教の神々を『悪魔デーモン』とさげすんで否定し、対抗することなど出来はしない。

 ましてや彼らレーマ・ランツクネヒト族は祖国を追われ、啓展宗教諸国連合から脱してレーマ帝国の庇護を受ける身なのだ。自らの庇護者たちの信ずる神を否定することなど、政治的にも出来ようはずがなかった。


 しかし、降臨者パウル・フォン・シュテッケルベルク様のもたらしたキリストの教えそのものまでもが間違っているはずはない。ただ、《レアル》に適してはいたがこの世界ヴァーチャリアには適さない部分を改める必要はあるだろう。

 ランツクネヒト族はキリスト者としてレーマで生きていくために、信仰を捧げる神は主ただ一柱のみと定めたとしても、レーマの異教の神々はそれはそれとしてその神聖を認めるべきなのだ。


 信仰と民族意識、そして政治的妥協の結果生まれたレーマ正教会は、現在このような『適応派』と呼ばれる考えに基づいて設立され、運営されている。

 レーマ帝国へ亡命してきた同胞の民族としての結束を保つ際に、その中心となったのはキリスト教であったが、その地位と役割は今でも変わっていない。キリスト教とドイツ語はランツクネヒト族の普遍的な精神的支柱なのである。

 そのランツクネヒト族のレーマ帝国における代表者、俗世権威の頂点に位置するキルシュネライト伯爵家当主は、宗教的権威であるレーマ正教会とは良好な関係を維持し続けねばならない。キルシュネライト伯爵家とレーマ正教会ちう二つの権威がドイツ語とキリスト教という二つの精神的支柱をしっかりと支えることで、レーマ帝国のランツクネヒト族はその民族意識を保ち、結束することができるのだ。


総大司教猊下ザイナ・ハイリッヒカイト・デア・パトリアーヒも先月来伏せっておられたが、ようやく体調を回復され、次の礼拝では御自ら信徒に祝福を賜るそうだ。

 そのような場に私が行かなくてどうする?」


 オットマーはエーベルハルト・キュッテルから視線を逸らし、何もない床の部屋の隅の方を見やりながらやや苛立つように言った。その様子にエーベルハルトは溜息を噛み殺す。


「しかし、此度こたびのことはこの世界ヴァーチャリアそのものを揺るがしかねぬ重大事態です。

 今回くらいは参内を優先したとしても、主も総大司教猊下ザイナ・ハイリッヒカイト・デア・パトリアーヒもきっとお許しくださいます。」


 エーベルハルトの声には焦燥が滲んでいた。必ずしも自分たちに怠慢などの非があったわけではないとはいえ、現時点で彼らの事態への対応は全てにおいてあまりにも遅れている。ここへ来て皇帝からの召喚に応じず、参内を遅らせればキルシュネライト伯爵家はただ一人事態に取り残されかねない。明日、参内できるのであれば参内し、これまでの遅れを取り戻すべきなのだ。

 だがオットマーは頑なだった。チラチラとエーベルハルトへ横目で視線を送りつつも、顔はそっぽを向けたまま突っぱねる。


「ダメだ、神への務めをおろそかには出来ん。

 それこそ、皇帝カイザーもお許しくださるだろう。」


 この世界では精霊が身近な分、人々の信仰心は篤い。信じたところで何の恩恵もない迷信とは違って、精霊は恩恵も齎せば災厄も齎す存在だからだ。むしろ無視する方が難しい。そのような精霊の存在とレーマの十二主神教ディー・コンセンテスのような多神教はこの世界で容易に融合し、当たり前のように生活の一部に溶け込んでしまっている。

 そうであるからこそ、レーマは異教徒の信仰に対しても理解があり、異教の神だからと言って否定したりはしない。むしろ積極的に尊重してくれる。事実、過去にも皇帝や元老院セナートスからの招集を礼拝を理由に断ったことはあったが、そのことについて誰も文句を言ってきたことは無い。


「降臨が起きたのはアルビオンニア属州で、しかも降臨したのは暗黒騎士ダーク・ナイト》なのですよ!?」


「分かっておる!」


「いいえ、おそれながら分かっておられるとは思えません。」


 エーベルハルトはオットマーに詰め寄ると、オットマーはキッと目を剥いてエーベルハルトを見返した。エーベルハルトはそれに臆することなく言葉を続ける。


「御本人ではないとはいえ此度の降臨者は《暗黒騎士ダーク・ナイト》と同じ力を持ったゲイマーシュピーラなのです。

 もしもその力が振るわれればアルビオンニアの地は壊滅し、世界は再び大戦争の戦乱へ戻されてしまうでしょう。

 もちろん皇帝カイザー大聖母様グロースアイティヒ・ハイリヒ・ムターもそうならぬよう御力を注いでくれましょう。

 ですが、まかり間違えばそのためにアルビオンニアは召し上げとなり、皇帝カイザーの直轄地とされるか、あるいはムセイオンの管理下に置かれてしまうかもしれません。

 それを防ぐためには伯爵閣下オイア・エクスツレンツ・グラーフ、閣下に今こそ動いてくださらねばならぬのです!」


「そうだからこそだ!!」


 オットマーはエーベルハルトに負けずに言い返してきた。その気迫に気圧され、近くで二人の様子を見ていたヴェルナーは思わず一歩身を引いてしまう。


「貴様に言われんでも分かっておる!

 アルビオンニアこそ我らランツクネヒト族の《約束の地》!

 あそこにランツクネヒト族の、キリスト教徒の王国を築こうと誓ったのだ!

 その誓いは今の今まで一度たりとも忘れたことは無い。

 むしろ日々、新たにしておるのだ!」


「ならば!!」


「ならばこそだ、キュッテル!!」


 オットマーは椅子から立ち上がり、机越しにエーベルハルトと対峙する。


「いいかキュッテル、冷静になるがよい。

 アルビオンニアは遠い。どれだけ急ごうと、帝国の郵便システムタベラーリウスを駆使しても手紙一つ送るのに一か月は要するのだ。

 ここで我らがアルビオンニアで起きておる事態に直接介入しようと試みたところで、我らに出来ることは何もない。」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る