第836話 オットマーの焦燥

統一歴九十九年五月十一日、午後 ‐ キルシュネライト伯爵邸/レーマ



「まさか、大聖母グランディス・マグナ・マテル様が既にレーマへお越しになられておられるなんて……」


 彼らランツクネヒト族は同じランツクネヒト族しかいない場ではドイツ語で話すのが習慣になっていた。民族の文化的アイデンティティの根本は言語と宗教である。彼らにとってキリスト教とドイツ語は自分たちがランツクネヒト族であるという自尊心を保つために必要不可欠なものであり、言語は特に使う機会が無ければ母国語でさえ忘れ去られてしまうものなのだ。ゆえに、彼らはレーマ帝国において自分たちのアイデンティティを維持するために、普段はドイツ語で話す機会がほとんどない者であっても、ランツクネヒト族同士で話す時はドイツ語を使う。

 ところがヴェルナー・フォン・キルシュネライト伯爵公子は今思わずラテン語でつぶやいてしまっていた。この場ではドイツ語を話すべきであっただろうし、現にエーベルハルトが説明を始める前まではドイツ語で会話をしていたにもかかわらず、無意識に零れたのはラテン語だった。彼のような若い世代にとってはラテン語の方が素の言葉なのである。

 ヴェルナーの声に父であり現当主であるオットマー・フォン・キルシュネライト伯爵はハッと我に返る。


「そうだ!

 大聖母グランディス・マグナ・マテル様が来ているなんて聞いていないぞ!?」


 どうやら息子のラテン語を聞いて彼の頭の中のスイッチもドイツ語からラテン語に切り替わってしまったらしい。オットマーの発した言葉もラテン語だった。自分が何語を話しているかも気づかずオットマーは惹きつけでも起こしているかのように身を震わせる。


「それほど高貴なお方がレーマに来ておられるのに、何故誰も知らされてないのだ!?

 歓待の準備もせねばならんと言うのに!

 そうだ!アルビオンニアにお越しになるというのならその前に是非大聖母グランディス・マグナ・マテル様を当家にお迎えし、ランツクネヒト料理で盛大に持て成さねば!」


「ま、まあ、お待ちください!」


 ついさっきまで茫然としていながら唐突に興奮し始めたオットマーをエーベルハルト・キュッテルは必死になだめる。


「あちらはお忍びで来ておられるのです。

 そのように大々的になどできるわけもありません。」


「だが、高貴な客人がありながらロクに接遇もせぬとあっては貴族の名折れだぞ!?

 お忍びだとしても人目を忍びながらであっても御馳走くらい振る舞わねば、面目が立たんではないか!」


 貴族はとにかく名声、評判を大事にする。来客があればこれを遇し、精いっぱいの接待によって自分が如何いかに気前がいいかをアピールし、これを宣伝するのは貴族として当然のことだ。これが世界ヴァーチャリアで最も高貴な人物となれば、これを歓待して満足させれば貴族として最高の自慢になるだろう。そのチャンスが間近に迫っているのだ。これを逃す手があるだろうか?

 いや、名を挙げるチャンスを逃すどころの話ではない。高貴な客人がありながら何のもてなしもしなかったとなれば、それは貴族にとって恥以外の何物でもないのだ。客人を持て成す度量もない狭量、あるいは客人の高貴さも理解しない愚か者と陰口を叩かれることだろう。普段いい顔をしてるくせにイザとなると……という類の評判は貴族で無くても男なら、いやレーマ人なら誰もがもっとも嫌う侮蔑に他ならない。


 ようやく復興を遂げたばかりのキルシュネライト伯爵家の家名が傷つく!!


 オットマーが社交界のことばかりを中心に考えているのは、決して彼が無能なお気楽貴族だからではない。ここレーマで元老院議員セナートルとして、そして上級貴族パトリキとして、発言力・影響力を維持するためには家名に傷つくような真似など絶対に出来ないのだ。領地を持たない法貴族の権威の源泉は、世間の評判に他ならないからである。


おそれながら、今のです。

 私たちもまた、ムセイオンから高貴な方々が来ておられることなど、。」


 エーベルハルトの指摘にオットマーは一瞬目を剥き、グッと息を飲みこんだ。


子爵令嬢ウィケコミティス・フィリア大聖母グランディス・マグナ・マテルの御来訪について他言せぬと御誓い申し上げられました。

 しかし、伯爵コメスを御信頼申し上げるがゆえに、それをあえて私にお話くだされたのです。それなのに私たちが高貴なお方を歓待申し上げるなどと騒ぎ立てれば、子爵令嬢ウィケコミティス・フィリアが高貴なお方に対して建てられた誓いを破られたことが世に知られましょう。それでは子爵令嬢ウィケコミティス・フィリアのお立場がありません。

 子爵令嬢ウィケコミティス・フィリア伯爵コメスに対する御信頼をも裏切ることとなってしまいます。世のすべての御婦人たちのためにも、どうかご自重じちょうください。」


 世のすべての御婦人たちのために……もし女性にこれを言われて何かを頼まれたなら、ランツクネヒト族の男なら大抵のことは受け入れねばならない。今、これを言ったのはエーベルハルトだったが、それでもその理由が実際に大グナエウシアの立場と信頼とを守るためであり、それを受け入れなければ大グナエウシアの、ひいては南部貴婦人の名誉が損なわてしまいかねない以上、さすがに突っぱねることなどできはしない。


「そう言うことであれば、致し方あるまい。」


 オットマーは両拳をギュッと握りしめ不満げではあったが、それでもフーッと長い溜息とともに引き下がった。


「だがこれほどの大事なのだ。

 知らぬふりをせねばならぬとはいえども、何もせぬというわけにはいくまい。」


 興奮していた様子は収まったかに見えたが、オットマーの心の内の混乱はまだ収まっていない。冷めた興奮は今度は焦燥となって彼の内側でくすぶり続ける。


「クソッ、このまま手をこまねいてはおられんというのに……」


 しまいにはランツクネヒトらしい大柄な身体を丸めて爪を噛み始めた。オットマーの子供のころからの癖である。


「しかし父上、今は何がどうなっておるのかわかりません。

 今は情報を集め、事態を把握する以外何もできぬのではありませんか?」


 狼狽うろたえる父を見かねたのか、ヴェルナーがわずかに眉をひそめて言うと、オットマーは両手でバンッと机を叩いた。


「それはもうやっておる!!」


 机を叩く音とオットマーの大きな声に、ヴェルナーは思わずビクッと身体をすくませた。そのヴェルナーを責めるようにオットマーは人差し指を突き付けた。


「だが遅いではないか!

 こちらが情報を集めておる間に状況はかくも進んでおる。

 既にムセイオンからは大聖母グランディス・マグナ・マテル様が自らお越しになられ、子爵令嬢ウィケコミティス・フィリアから現地を様子を御下問ごかもんなされて居られるのだぞ!?」

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