第816話 知っていてはいけないこと
統一歴九十九年五月十一日、午前 ‐ アルトリウシア子爵邸/レーマ
エーベルハルト・キュッテルは思わず身体を起こし、目を丸くした。目の前のハーフコボルトの少女がそのように冷静に、かつ的確に反問してくるとは思っても居なかったからだ。
レーマは男尊女卑社会である。いや、レーマに限らず
男女平等という考え方ひとつとっても同じで、実現するためには文明社会の成熟を待たねばならないが、この世界ではそれを実現できている国はまだ存在していなかった。人々の日々の暮らしを支える労働の大部分は過酷な肉体労働であり、家電製品などという文明の利器が存在しない以上、家事もまたその一つ一つが長時間人を拘束する重労働のままなのである。多くの国で一日二食なのは、食事を準備し、食べ、片づけるという手間を一日三回もかけられないからに他ならない。
そのような社会環境ではどうしても性差による役割分担が強要されることになってしまう。子を産み育てるという女性にしかできない役割が家庭にある以上、女性は家庭を守るのが仕事と自動的に決められ、男性が外で働くことになる。そして外で収入を得てくる男性が家庭内で、そして社会での発言権を独占するようになる。そして男尊女卑社会が成立する。女尊男卑社会も存在しないわけではないが、極めて例外的な少数でしかない。
そのように成立し、定着した男尊女卑の価値観はそう簡単に変わることは無い。たとえそれが
しばしの沈黙の後、グナエウシア・アヴァロニア・アルトリウシア・マイヨル子爵令嬢は自分が一線を踏み越えてしまったことを、女性が踏み入るべきではない政治的な話に足を踏み入れてしまったことに気づき、ハッとして急に身を縮こませた。
「すみません、キュッテルさん。
女の身でありながら、出過ぎた口を利いてしまいました。」
「いえっ、とんでもございません!」
自身が言葉に
「さすがは
その
「いえ、生意気を言いました。
どうかお許しください。」
レーマで唯一のアルビオンニア貴族である
しかし、知っておくこと、知るために質問することと、意見を言うことは全く別の話だ。まして、男性の考えや意見を女性がキッパリと否定したり反論したりするとなれば猶更である。
大グナエウシアの先ほどの発言は実際のところかなり際どいものだった。質問するという体裁を保ってはいたものの、エーベルハルトの予想を明確に否定する内容でもある。女のくせに生意気な……もし、この場に他の誰かが居たらそのように思われる可能性は高かっただろう。
エーベルハルトは爵位も持たない商人であり、子爵家令嬢である大グナエウシアより身分は明らかに下だ。だが、エーベルハルトはキルシュネライト伯爵家の御用商人を務める豪商であり、伯爵家当主オットマーの義兄でもあり、そして今はその名代でもある。
そしてオットマーは大グナエウシアのレーマにおける後見人……すなわち親代わりであり、エーベルハルトは実際に大グナエウシアの身の回りの世話も焼いてくれている。子爵家の御用商人であるリーボー商会はレーマには進出していなかったから、レーマで必要なものの手配や調べものなど本来なら子爵家の御用商人がするべき仕事を、エーベルハルトは代わりにやってくれていたし、大グナエウシアの社交上の所作や言葉遣いなどの指導もある程度担ってくれても居た。このため二人の立場は身分差の通りに大グナエウシアが上と決まっているわけではなく、実質的にはエーベルハルトの方が優位と言って差し支えない。
本来なら大グナエウシアは「浅慮な私にはわかりませんが」とか「女の私には理解が及びませんが」などと「難しくて理解できない」という風を装うことで相手の体面を保ちつつ、遠回しにこうではないかああではないかとやんわりと指摘すべきであった。普段の大グナエウシアなら実際、そのようにしたであろう。
だが、アルトリウシアでの
「いいえ
大グナエウシアが
「ですが……」
「いえ、どうぞご心配なく。
降臨という今般の事態に際し、私どもは共にアルビオンニア存続の途を探り、このレーマで出来る得る限りのことを為さねばなりません。」
自らの失態を恥じるばかりの大グナエウシアだったが、エーベルハルトの「存続の途を探り」という言葉にピクリと反応する。しかし、エーベルハルトはその反応に気づかなかった。
「これから
私たちの間では、男だからとか女だからとか、そういうのは抜きにして
少し
「……わ、わかりました、キュッテルさん。」
「もしも私のことを心配してくださっているのでしたら要りません。
私が言ったのはあくまでも色々ある考えの一つでしかありません。
そういうこともあるかもしれない。ですが、他にも色々可能性はあります。」
そこまで少し早口でしゃべったエーベルハルトは口を止め、大グナエウシアの顔をジッと見る。
「ただ、
一拍置いてエーベルハルトが落ち着きを取り戻した口調で言うと、大グナエウシアは無言のままコクリと大きく頷いた。
「はい、
「その通りです
今日もこの後すぐ、
くれぐれもご注意くださいませ。
私も
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