第816話 知っていてはいけないこと

統一歴九十九年五月十一日、午前 ‐ アルトリウシア子爵邸/レーマ



 エーベルハルト・キュッテルは思わず身体を起こし、目を丸くした。目の前のハーフコボルトの少女がそのように冷静に、かつ的確に反問してくるとは思っても居なかったからだ。


 レーマは男尊女卑社会である。いや、レーマに限らずこの世界ヴァーチャリアの殆どの国がそうだ。降臨者によって人道主義・人権主義・平等主義・人文主義・民主主義といった《レアル》の近現代の知識や思想までもたらされているとはいえ、それらのすべてを導入するには至っていない。奴隷制度が残っている点からもそれは明らかだ。どれだけ素晴らしい考え方、理想的な仕組み、完璧な制度であっても、それを導入するためには必要な前提条件が整っていなければならない。民主主義にしろ法治主義にしろ、それによって国家を運営しようと思ったらすべての国民が一定水準以上の教育を受け、最低限度以上の教養を身に着けていなければならない。その条件を満たさない国が民主主義や法治主義を導入しても絶対に成功はしない。為政者が暴走して独裁者と化し、最悪な警察国家を生み出すか、政権交代を繰り返し、国家の体を成さない混沌とした社会を生み出すかのどちらかだ。


 男女平等という考え方ひとつとっても同じで、実現するためには文明社会の成熟を待たねばならないが、この世界ではそれを実現できている国はまだ存在していなかった。人々の日々の暮らしを支える労働の大部分は過酷な肉体労働であり、家電製品などという文明の利器が存在しない以上、家事もまたその一つ一つが長時間人を拘束する重労働のままなのである。多くの国で一日二食なのは、食事を準備し、食べ、片づけるという手間を一日三回もかけられないからに他ならない。

 そのような社会環境ではどうしても性差による役割分担が強要されることになってしまう。子を産み育てるという女性にしかできない役割が家庭にある以上、女性は家庭を守るのが仕事と自動的に決められ、男性が外で働くことになる。そして外で収入を得てくる男性が家庭内で、そして社会での発言権を独占するようになる。そして男尊女卑社会が成立する。女尊男卑社会も存在しないわけではないが、極めて例外的な少数でしかない。


 そのように成立し、定着した男尊女卑の価値観はそう簡単に変わることは無い。たとえそれが上級貴族パトリキであっても同じだ。政治は男の仕事であり、女が関わることはタブー視される。女性であっても貴族ノビリタスである以上、ある程度は政治的な発言や振る舞いが求められるが、表立って男性と対等に言い争ったりするような行為などまず許されるものでは無かった。


 しばしの沈黙の後、グナエウシア・アヴァロニア・アルトリウシア・マイヨル子爵令嬢は自分が一線を踏み越えてしまったことを、女性が踏み入るべきではない政治的な話に足を踏み入れてしまったことに気づき、ハッとして急に身を縮こませた。


「すみません、キュッテルさん。

 女の身でありながら、出過ぎた口を利いてしまいました。」


「いえっ、とんでもございません!」


 自身が言葉にきゅうしてしまったことに内心のいきどおりを覚えつつ、エーベルハルトは慌ててとりなす。


「さすがは子爵令嬢ウィケコミティス・フィリアです。

 その慧眼けいがんには感服するほかございません。」


「いえ、生意気を言いました。

 どうかお許しください。」


 レーマで唯一のアルビオンニア貴族である大グナエウシアグナエウシア・マイヨル……アルビオンニアで降臨が起きた以上、たとえ未成年であっても彼女の帝都レーマでの存在感は否応もなく高まることになる。今後のことを考えれば政治的なものであろうと、いや政治的なものであるからこそ、知っておかねばならない事はこれからどんどん増えるだろう。エーベルハルトがこうして大グナエウシアをオットマー・フォン・キルシュネライト伯爵のつかいとして訪ねてきているのも、そうした背景があればこそである。

 しかし、知っておくこと、知るために質問することと、意見を言うことは全く別の話だ。まして、男性の考えや意見を女性がキッパリと否定したり反論したりするとなれば猶更である。

 大グナエウシアの先ほどの発言は実際のところかなり際どいものだった。質問するという体裁を保ってはいたものの、エーベルハルトの予想を明確に否定する内容でもある。女のくせに生意気な……もし、この場に他の誰かが居たらそのように思われる可能性は高かっただろう。


 エーベルハルトは爵位も持たない商人であり、子爵家令嬢である大グナエウシアより身分は明らかに下だ。だが、エーベルハルトはキルシュネライト伯爵家の御用商人を務める豪商であり、伯爵家当主オットマーの義兄でもあり、そして今はその名代でもある。

 そしてオットマーは大グナエウシアのレーマにおける後見人……すなわち親代わりであり、エーベルハルトは実際に大グナエウシアの身の回りの世話も焼いてくれている。子爵家の御用商人であるリーボー商会はレーマには進出していなかったから、レーマで必要なものの手配や調べものなど本来なら子爵家の御用商人がするべき仕事を、エーベルハルトは代わりにやってくれていたし、大グナエウシアの社交上の所作や言葉遣いなどの指導もある程度担ってくれても居た。このため二人の立場は身分差の通りに大グナエウシアが上と決まっているわけではなく、実質的にはエーベルハルトの方が優位と言って差し支えない。


 本来なら大グナエウシアは「浅慮な私にはわかりませんが」とか「女の私には理解が及びませんが」などと「難しくて理解できない」という風を装うことで相手の体面を保ちつつ、遠回しにこうではないかああではないかとやんわりと指摘すべきであった。普段の大グナエウシアなら実際、そのようにしたであろう。

 だが、アルトリウシアでのハン支援軍アウクシリア・ハン叛乱という重大事件を隠されていたショックからか、昨日今日と過大なストレスを受け続けていた影響からか、今日の大グナエウシアは少しばかり動揺していたのかもしれない。叩き込まれたはずのプロトコルを、どこかへ置き忘れてしまったかのようだ。


「いいえ子爵令嬢ウィケコミティス・フィリア、十四歳の令嬢フィリアとは思えぬ冷静な指摘です。そこまで恥じることはありません。」


 大グナエウシアが大袈裟おおげさへりくだったためであろうか、エーベルハルトは愛想笑いを浮かべ両手を広げて大グナエウシアを宥める。


「ですが……」


「いえ、どうぞご心配なく。

 降臨という今般の事態に際し、私どもは共に、このレーマで出来る得る限りのことを為さねばなりません。」


 自らの失態を恥じるばかりの大グナエウシアだったが、エーベルハルトの「存続の途を探り」という言葉にピクリと反応する。しかし、エーベルハルトはその反応に気づかなかった。


「これから子爵令嬢ウィケコミティス・フィリアの役割もより重要となってまいりましょう。

 私たちの間では、男だからとか女だからとか、そういうのは抜きにして忌憚きたんなく思ったことを言うようにしましょう。疑問に思われたことはどうぞ遠慮なくお申し付けください。私も答えられるだけお答えいたしますし、分からなければ調べてまいりましょう。」


 少し口早くちばやにしゃべったのはエーベルハルト自身、やはり大グナエウシアからの思わぬ指摘に多少なりとも動揺しているのかもしれない。女性に、それも年端もいかぬ少女に反論されたというのは、この老人にとっても愉快なことではなかったということだ。


「……わ、わかりました、キュッテルさん。」


「もしも私のことを心配してくださっているのでしたら要りません。

 私が言ったのはあくまでも色々ある考えの一つでしかありません。

 そういうこともあるかもしれない。ですが、他にも色々可能性はあります。」


 そこまで少し早口でしゃべったエーベルハルトは口を止め、大グナエウシアの顔をジッと見る。


「ただ、皇帝陛下インペラートルがお話しになられなかったことには、きっとそれなりの理由があるはずです。であれば子爵令嬢ウィケコミティス・フィリア、あなたは。お分かりになられますか?」


 一拍置いてエーベルハルトが落ち着きを取り戻した口調で言うと、大グナエウシアは無言のままコクリと大きく頷いた。


「はい、陛下インペラートルが御話しくださるまで、知らぬふりを続けねばならないということですね?」


「その通りです子爵令嬢ウィケコミティス・フィリア

 今日もこの後すぐ、参内さんだいなさるのでしょう?

 くれぐれもご注意くださいませ。

 私も伯爵コメスにお逢いし、今日子爵令嬢ウィケコミティス・フィリアからお話し頂いたことをご報告いたします。場合によっては伯爵閣下コメス子爵令嬢ウィケコミティス・フィリアとお話ししたいと思召おぼしめされるかもしれません。」

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