第815話 皇帝の思惑

統一歴九十九年五月十一日、午前 ‐ アルトリウシア子爵邸/レーマ



「お、お考え?」


 領国で叛乱事件が起きた。それは領主貴族パトリキにとって一大事である。しかも叛乱を起こしたのが皇帝インペラートル直轄のハン支援軍アウクシリア・ハンとなれば、自身の私兵に過ぎない辺境軍リミタネイでこれを討つことに躊躇ためらいを覚えない領主は居ないだろう。だからこそ、筋を通すために支援軍アウクシリアの主たる皇帝にどうすべきかお伺いを立てる。そして皇帝は皇帝で既に腹案があり、それがあるからこそグナエウシア・アヴァロニア・アルトリウシア・マイヨル子爵令嬢には叛乱の事実を告げなかった……分からなくはない理屈ではある。

 だが、どういう腹案があるにしても現地はレーマから片道だけで三か月近くかかる辺境の地である。そこで起きた事件に対する腹案を、レーマの地で伏せねばならない理由と言われても大グナエウシアグナエウシア・マイヨルには全く思いつかなない。

 ここで秘密を今明かしたからといって、現地に影響が出るのはどれだけ早くても一か月以上先の話だ。ましてや一応上級貴族パトリキの一員とはいえ何の権能も持たない大グナエウシアに知られたからというだけで、何かが変わるようなことなど果たしてあるのだろうか?

 大グナエウシアが秘密を漏らし、それによって秘密を知った他の誰かが現地へ介入を試みたところで出来ること等知れている。仮に兵力や物資を送り込もうとしても現地に着くのは三か月以上は先になるだろう。それよりも皇帝直轄の軍である野戦軍コミターテンセスがサウマンディア属州に駐留している部隊を現地に派遣して叛乱軍を鎮圧する方がよっぽど早いに違いない。


 エーベルハルトは話を続ける。


「はい、たとえば此度こたびの叛乱に際し、降臨者様も被害者を援けるために大量のポーションのご提供くださったようです。」


「降臨者様が!?」


 大グナエウシアは握っていたロケットペンダントを放し、その両手で口元を覆った。

 ちぎれた手足さえ元に戻し、致命傷を負った者すら死の淵から呼び戻すとされるゲイマーのヒーリングポーション。そんなものを大量にいただけたとあれば、既に死んでしまった者を除く全員を助けることが出来るに違いない。

 しかし、エーベルハルトはぬか喜びしかけている大グナエウシアに釘を刺す。


「ええ、ただし……」


 エーベルハルトはそう言うと腰をずらして身を大きく前へ乗り出した。大グナエウシアも同じように身を乗り出し、耳をそばだてる。


ゲイマーガメル様のポーションを受け取れば、《レアル》の恩寵おんちょう独占を禁じる大協約に抵触する恐れがございます。」


 大グナエウシアは思わず目を大きくし、エーベルハルトを見返した。エーベルハルトはそのまま続ける。


「御領主様方はそろってポーションの受け取りを御遠慮申し上げたそうです。

 ですが、降臨者様の御意思も固く、やむなくポーションは御領主様方がお預かりすることとし、代わりに備蓄していたポーションを領民たちに放出なされたのだそうです。」


「そ、それは……」


 備蓄のポーションということはこの世界ヴァーチャリアで作られたレッサーポーションに違いない。レッサーポーションはゲイマーのヒーリングポーションの再現を目指して開発された治癒薬ポーションだが、頭にわざわざ「レッサー」とつけられているように効果の著しく劣る劣化版だ。劣化版とはいえ人体の持つ治癒力を高めるとともに苦痛を和らげる効果があるのは事実であり、普及はしていて生産量もそれなりだが、長期の保存が利かないために新鮮で品質の良い物は一般市民プレブスにとっては割高な価格で流通している。このため、古くなって効果の薄くなった粗悪品しか手に入れられない者は珍しくない。まして戦禍にまみれて着の身着のまま家から追い出された領民の中には、安い粗悪品すら買う金が無い者も大勢いることだろう。そうした被災者に対し、レッサーとはいえポーションが振る舞われたとすればかなりな援けにはなるはずだ。たとえ降臨者の本物のポーションとは比較にならないにしても……。

 いいことなのか、それとも悪いことなのか、大グナエウシアが判断をつけられずにいるとエーベルハルトは口元に人差し指を当てて言葉を封じると、相変わらず声を低く抑えたまま続ける。


「備蓄のレッサー・ポーションが放出されたことで領民たちは多くが救われたことでしょう。ですが、このことが《レアル》の恩寵独占に抵触するかどうか、まだ判断がつきません。」


「お、叔父様や侯爵夫人マルキオニッサがおとがめを受けるかもしれないということですか?」


「それを防ぐためにも、子爵令嬢ウィケコミティス・フィリアにお話にならなかったのかもしれません。」


「どういうことですか?」


大聖母グランディス・マグナ・マテル様が御同席なされておられたのでしょう?」


 大グナエウシアは見開いた目でエーベルハルトの目を覗き込みながら大きく頷く。


「その場で子爵令嬢ウィケコミティス・フィリアに叛乱の話をすれば、その詳細は大聖母グランディス・マグナ・マテル様も知るところとなります。

 そして大量のポーションを受け取ったとなれば、御領主様方が《レアル》の恩寵独占の禁を破ったとして、ムセイオンに伝わるやもしれません。」


 思いもよらぬ理由を聞かされ、大グナエウシアは前かがみにしていた上体を伸びあがる様に起こした。

 大グナエウシアは子爵家の娘、先代領主の娘で現領主の姪だ。アルビオンニアで、アルトリウシアで起こった出来事は決して他人事ではない。ましてアルトリウシアに駐屯していた支援軍アウクシリアが叛乱を起こしたなんて、領主の家族として知らないでは済まされぬような大事件である。にもかかわらず皇帝マメルクスは大グナエウシアにそのことを教えてくれなかった。大グナエウシアはてっきり自分が女だからとか、自分が子供だからとか、そういう理由だと思っていた。要は馬鹿にされた、あるいは見くびられたと思っていたのだ。


「で、では、大聖母グランディス・マグナ・マテル様に知られぬようにするため、あえて私にお話しになられなかったということですか?」


 エーベルハルトもゆっくり身体を起こした。


「いえ、まだ分かりません。」


 自身が示した予想を自ら否定するエーベルハルトに、大グナエウシアは思わず無言のまま口をキュッと結んだ。


皇帝陛下インペラートル大聖母グランディス・マグナ・マテル様にお話になられておられないのであれば、そういうこともあるかもしれないということです。」


 そう言うとエーベルハルトは茶碗を手に取り、香茶を一口啜る。その様子を大グナエウシアは黙ったままジッと見つめていた。


 たしかに、皇帝陛下インペラートルがお話くださらなかったのは何か理由があったからなのかもしれない。私の知らないところで、何か深い事情が御有りなのかも……でも……


「その……女の私がこういうことをお尋ねするのはどうかと思いますが……」


 しばしの逡巡の後、大グナエウシアはそう前置きして思い切ったように尋ねた。


皇帝陛下インペラートル大聖母グランディス・マグナ・マテル様に戦のことを御隠しになられるのでしょうか?」


 エーベルハルトは茶碗を卓上に降ろし、少し驚いたように大グナエウシアの顔を見た。


「だってそうではありませんか?

 これからムセイオンから降臨者様に使者をおたてになられるのですもの。

 使者には聖貴族コンセクラトゥムが選ばれるはずです。もしかしたら、大聖母グランディス・マグナ・マテル様御自ら向かわれるかもしれません。

 それなのに、アルトリウシアで戦が起こっていることを御隠しになられるでしょうか?」

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