憶測
第808話 公衆便所での情報収集
統一歴九十九年五月十一日、午前 ‐
降臨者を通じて《レアル》古代ローマの文化・文明を
大概は公衆浴場や公共施設などに併設されている場合が多いが、周囲に競合する公衆便所が無ければ独立してポツンと設置されていることもある。さて、何故競合する公衆便所の存在がここで問題になるのか?
それは単純に無料の施設ではないからだ。公衆便所には専属の管理人がおり、入り口で入場料を取っている。公衆便所の中を清潔に保ち、必要な器具の整備なども万全を期すためにはそれなりに人件費がかかって当然なのだ。そして人件費がかかるということは、それは商売として成り立つということでもある。
商売としてやる以上は収益性を無視することはできない。ゆえに、競合する公衆便所があってはならないし、利用者の多くなるであろう公共施設の近くは有料公衆便所が収益性を高めるためにも理想的な場所であった。
その公衆便所は自宅から
建物に挟まれた裏通りは両手を広げれば左右の建物に同時に触れることができるほど狭く、陽の光が射すのは日中のごく限られた時間のみで常に薄暗いが貧民街のような悪臭と湿気とは無縁である。通り過ぎる人も朝の『
そんな通行人たちとすれ違うたびにその縦よりも横に太そうな身体を大仰に揺らして道を譲りあいながら小道を進み、フースス・タウルス・アヴァロニクスは目指していた公衆便所へたどり着いた。入口に立っていた管理人に他よりも少し高い入場料を払い、その肩をポンポンと叩いて中へ入っていく。
屋根に近い位置にある採光窓から入る外光のおかげで屋内にいるにもかかわらず意外と明るい内部は広く開けており、壁際に沿うように座面に等間隔に穴の開いたベンチシートが並んでいる。ジョロジョロと勢いよく水の流れる音が絶え間なく鳴り響いているほかは雑音は一切聞こえない。部屋の四隅に置かれた植木鉢には観葉植物が瑞々しい緑に輝く葉を茂らせて、風に揺れることも無く佇んでいる。
「
フーススが入ってきたことに気づいた先客の一人が挨拶をしてきた。先客は全部で四人。皆、フーススの見知った顔だ。
「
先ほどの管理人がフーススに声をかける。公衆便所の入り口には既に「清掃中」の札がかけられて扉が閉ざされていた。
フーススは「ああ、頼む」と答えながら
「
フーススのトガを壁際の棚に並んだ脱衣籠の一つに入れながら、管理人が背後から尋ねた。公衆便所の中でも少し高級な部類の便所はこのように飲み物や簡単な軽食のサービスを行うところもあり、この公衆便所もそうした高級公衆便所の一つだったのだ。
「ああ、香茶を一つたのむ。」
フーススはそう言いながら中へ進み、窓のない方の壁際のベンチシートの一つに腰かけた。その動きを四人の先客たちは無言のまま視線で追う。
「聞こうか?」
トゥニカの裾をまくり上げることも
「皇帝派の
少なくとも昨日の時点で、降臨の情報は掴んでいないようです。」
先客はいずれも、フーススのために働く密偵たちだ。公衆便所は時折、こうした会合や密会の場に使われる。身分違いの人が集まったところで誰も疑わないし、常に水の音がしているのでよほど大きな声でも出さない限り外から話を聞かれる心配もないからだ。公衆便所の管理人も、フーススの被保護民の一人である。
「もう噂は広まってるんだ。
知らないわけはないだろう?」
「まだ噂でしか知らないのでしょう。
キルシュネライト様の
キルシュネライト伯爵家はエルネスティーネ・フォン・アルビオンニア侯爵夫人の実家であり、ランツクネヒト族の代表として代々元老院議員を排出し続けていた家系の法貴族だ。ここで言うキュッテルとはキルシュネライト伯爵家の御用商人エーベルハルト・キュッテルのことである。
キルシュネライト伯爵家は先々代で一度没落して議員を排出できなくなっていたのだが、先代当主カミルが当時キュッテル商会を継いだばかりだったエーベルハルト・キュッテルに娘のエルメンヒルデを嫁がせ、キュッテル商会からの資金援助を元手に家を再興させて以来、再び元老院議員の座に返り咲いていた。その後はエーベルハルトの妹エルネスティーネを養女に迎え、アルビオンニア侯爵家へと嫁がせてもいる。現在ではその縁でアルビオンニア属州の代表として活躍していた。
現
「キュッテル商会は?」
「いつもと違った様子は何も……」
キュッテル商会現当主のエーベルハルトは現在のキルシュネライト家当主オットマーの義兄でもある。妹エルネスティーネをキルシュネライト家の養子にし、伯爵令嬢とすることでアルビオンニア侯爵家へ嫁入りを果たさせ、キルシュネライト家とアルビオンニア侯爵家という二つの上級貴族の御用商人の座を獲得して商会を急成長させたヤリ手として知られている。
アルビオンニアで降臨が起きたのに、その現領主エルネスティーネの義実家と実家が情報をまだ掴んでいないとは考えにくい。両方とも只の親戚とは違い、レーマに影響力のある実力者なのだ。必ず頼ってきているはずである。
エーベルハルトがキルシュネライトの屋敷に呼び出されたということは、少なくとも何らかの情報は入っていると見るべきだ。いくら義理の兄弟だからといって、このタイミングで只の親戚づきあいの一環で片づけるのはいくら何でも能天気すぎるだろう。
「必ず動くはずだ。
キルシュネライト家とキュッテル商会は警戒を怠るな。」
「はっ」
フーススは返事を聞きながら、管理人が持ってきた淹れたての香茶の入った
「ハァ~~~~~っ
あとは……アヴァロニウス家だ。
アルトリウシア子爵家の娘が留学中だったろう!?」
「昨日は『
フーススは顔を
が、だからといってこれを機に子爵家を攻撃できるかと言うとそうでもない。皇帝が一官僚に過ぎないという守旧派の主張が真ならば、フーススの執政官という役職も一官僚に過ぎないのだ。どちらを優先したからと言ってそれが即「元老院を軽んじた」ということにはならない。フーススからの申し込みよりもマメルクスからの招待の方が早かったのだから、大グナエウシアが先約優先でフーススを断ったとしても、断罪に値するようなことではないからだ。
元老院が軽んじられたというフーススの反応こそ、被害妄想でしかない。もちろんフーススも理性の部分ではそれを理解していたのだが、感情の部分ではそこまで割り切れていない。難しそうにフーススは
「
ほかには?
何もなかったのか?
誰か接触してきてはいないのか?」
重々しいフーススの雰囲気に密偵たちは一瞬身を引き、互いに顔を見合った。その気配で自分の質問に答えるべきか迷っていると気づいたのだろう。フーススが頭痛でも堪えるようにコメカミを揉みながら訪ねた。
「どうした、何かあったな?」
「ええ、
「誰だ?」
「ア、アレクサンデル・マエシウス卿とフロンティーヌス・リガーリウス・レマヌス卿のお二人です。」
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