第807話 フロンティーヌスの決意(2)

統一歴九十九年五月十日、晩 ‐ アルトリウシア子爵邸/レーマ



 ガッツポーズでもするように右拳を握りしめるフロンティーヌス・リガーリウス・レマヌスの目は稜線りょうせんの向こうへ消えたはずの夕日を今もなお残すかのように輝いていたが、アレクサンデル・マエシウスにはその目はどこか現実ではない何かを追っているかのようにしか見えなかった。


 大丈夫かコイツ……


 お坊ちゃん育ちでいい歳して未だに頼りないとおおよそ元老院議員セナートルらしからぬ評判(?)で知られるフロンティーヌスだったが、少なくとも今日子爵邸でグナエウシア・アヴァロニア・アルトリウシア・マイヨル子爵令嬢の帰りを待っている間に初めて話し合ってみた時にはまだまともそうな感じだった。前評判など当てにはならんもんだとアレクサンデルも思ったものだったが、どうやらそれは早計だったようだ。

 上級貴族パトリキの評判なんてものは本人が自分をよく見せかけるために被保護民クリエンテス食客ラウディケーヌスたちを使って自分で広めたセルフプロデュースのキャッチコピーでしかないことが大半であり、あまりアテにできないというのは一般的にはその通りなのだが、フロンティーヌスについては実際に会ってみたところ評判通りの人物だったとアレクサンデルも認めざるを得ない。考えてみればフロンティーヌスの人物評として定着している「甘やかされて育ったお坊ちゃんプーエル」「詩人気取りの阿呆」「現実が見えない夢想家」「いつまで経っても大人にならない大きな子供」といった酷い評判をわざわざ自分で広めるわけはない。

 それまで割とまともに見えていたフロンティーヌスは大グナエウシアグナエウシア・マイヨルの姿を一目見た瞬間からまるで別人のようになってしまい、耳障りだけは良いが中身のないおべんちゃらを次から次へと吐き出すだけの阿呆に成り下がり、アレクサンデルをすっかり呆れさせたのである。


 さすがは『白銀のアルトリウスアルジェントゥム・アルトリウス』を兄に持つだけはあります。ホブゴブリンでありながら暗き夜の闇にあって光放つ貴女の姿の輝きは月の女神ルーナそのもの!《レアル》の『白雪姫ニックス・アルバ』も貴女を前にすれば恥じらうことでありましょう。


 よくもまあ仕事そっちのけでポンポンと歯の浮くようなセリフを吐けるもんだ。

 正直言って相手にしたくない。

 たしかには良いかもしれないがいい歳して十四の娘に逆上のぼせ上っちまって見ていてキモい……


 だがそれでもフロンティーヌスは元老院議員であり、アレクサンデルがアルビオンニア属州へ行くための旅費を捻出するためのでもある。アルビオンニア属州まで行くのならついでに便というていでフロンティーヌスには運賃を出させることにしているのだ。それが無ければ船乗りたちの給料が用意できないのだから、いくらフロンティーヌスがイカレていようともアレクサンデルとしては見放すことなど出来はしない。

 しかし、だからと言って理性と感情の折り合いをうまくつけるにはアレクサンデルにはまだまだ時間が足りていなかった。つい、心の内に秘めるべき愚痴が口をついて出てしまう。


「やる気を出してくれるのはありがたいが、ホントに大丈夫なんだろうね?

 子爵令嬢ウィケコミティス・フィリアにお熱んなって、自分の役目を忘れられちゃ困るんだが……」


「心配は無用だとも!」


「!?」


 まさか当の相手に聞かれると思ってもみなかったボヤキにフロンティーヌスが反応したため、アレクサンデルは大いに驚いた。


 ヤベッ、口に出ちまったか!?


 アレクサンデルは今回叛乱を起こしてしまったハン支援軍アウクシリア・ハン軍団幕僚トリブヌス・ミリトゥムだ。これまでも色々と問題を起こしてくれたハン支援軍だったが、それでも今までは何とかアレクサンデルでも誤魔化し揉み消すことが出来る程度の問題だった。しかし、さすがに叛乱となると簡単に揉み消すことなど出来ない。しかも間の悪いことに降臨が起きたその日に、その属州で叛乱を起こしてくれている。支援軍アウクシリアに対する管理監督責任があるアレクサンデルはまず引責を避けられないだろう。最悪、アレクサンデル自身も極刑に処される可能性も否定できなかった。

 だが、もしも元老院セナートスからの使者として預かった手紙を降臨者に手渡し、元老院と降臨者の関係を築く一助となったあかつきには、今回の叛乱に関してアレクサンデルが極刑に処されるのだけはまぬがれるように守旧派の重鎮たちに取り計らってもらえる約束になっている。正直言ってアルビオンニア属州もハン支援軍もどうでもいいのだが、アルトリウシアに行って預かった手紙を降臨者に手渡さなければ確実な死がアレクサンデルを待っているのだ。降臨者との交渉内容次第では、ハン支援軍叛乱の責任を免れることもあり得るのだから、アレクサンデルは何が起ころうともアルトリウシアへ行かねばならない。

 しかし、うっかり口を滑らせたせいでフロンティーヌスを怒らせでもしたら、アルトリウシアまで行くだけの旅費を賄うだけの金が捻出できないアレクサンデルはアルビオンニアに行くどころの話ではなくなってしまう。行けなければ捕まって死刑になるか、逃亡の果てに野垂れ死ぬしかない。


 思わず手で口を押えたアレクサンデルだったが、既に薄暗くなっていたためその顔色をフロンティーヌスに見られることは無かったようだ。もっとも、今のフロンティーヌスにアレクサンデルの顔色が見えたところで気にしたかどうか怪しいものだが……


「僕たちの目的は一つだ!

 降臨者様と帝国の橋渡しをし、帝国に平和と繁栄をもたらすんです!

 それは元老院議員セナートルの責務であり、僕たちの任務であり、そして子爵令嬢ウィケコミティス・フィリアの願いでもある!

 そうでしょう!?」


「お、おう!」


 一人で盛り上がるフロンティーヌスの熱意はアレクサンデルの思っていた以上だった。

 ここ数年、やることなすこと失敗続きですっかりやさグレていたアレクサンデルはアルビオンニア属州になんぞ行きたくなかった。だが行かねば殺されるから仕方なく行くのだ。しかし、どうしようもないから仕方なく行って果たさねばならないその役目でさえ、どうせ失敗するだろうと半ば諦め、既に投げやりになていた。

 その彼からすると、フロンティーヌスのこの盛り上がりようは到底理解の及ぶものでは無かった。勢いに飲まれる形で思わず相槌を打ったが、気分はすっかり置いてけ堀をくっている。


「僕は今まで間違えていた。

 正直、アルトリウシアなんて聞いたことも無い辺境へなんか行きたくなかった。

 でも、今は違う!

 今日、子爵令嬢ウィケコミティス・フィリアに会ってわかったんだ!」


「な、なにが?」


「僕たちの任務の崇高すうこうさがさ!

 何処とも知れぬ辺境の地なんかどうでもいいと思っていたが違うんだ!

 辺境の人々こそが、帝国の繁栄を力強く下支えする大切な存在だったんだ!

 そんな人々を守るために、帝国を代表し、元老院セナートスを代表して僕は行くんだ!

 これほど名誉なことがあるんだろうか!?」


「…………」


「僕は決めた!

 此度こたびの役目、必ずや立派に果たして見せる!」


 空を見上げているにもかかわらずフロンティーヌスの表情は夕闇の暗さではよく見えなかったが、それでもキラキラとした目の輝きだけは認めることができた。


 やべぇ……こいつ、だ……

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