第806話 フロンティーヌスの決意(1)

統一歴九十九年五月十日、晩 ‐ アルトリウシア子爵邸/レーマ



 アルトリウシア子爵邸の前は昼間、まるでフォルム・レマヌムのように人込みでごった返していたが、陽が落ちて空に星が瞬き始めるとさすがに静かになり始めた。アルビオンニアで降臨が起きたという噂を聞きつけ、いち早く降臨者の恩寵おんちょうに預かろうと駆け付けたレーマっ子たちだったが、肝心のアルトリウシア子爵家からもアルビオンニア侯爵家からも『黄金宮ドムス・アウレア』からも元老院セナートスからも何のアナウンスも無かったうえに噂の続報も無かったために「ガセネタだったのではないか?」との空気が急速に広がり、陽が落ちて暗くなったこともあって次々と帰途につき始めたのだ。


 続報が無かったのはレーマ皇帝インペラートル・レーマエマメルクス・インペラートル・カエサル・アウグストゥス・クレメンティウス・ミノール経由でムセイオンから出された秘匿要請を受けた上級貴族パトリキたちが家人たちに緘口令かんこうれいを敷いたこと、そして皇帝の失点を狙って意図的に情報を漏洩させたた元老院守旧派たちも自分たちの代表者を選定するにあたり執政官コンスルのフースス・タウルス・アヴァロニクス自身が突如立候補したことから下手に情勢をかき乱さない方が良いと判断し、今更ながら情報の流出に歯止めをかけたことが背景となっている。

 もちろん、情報発信源となった者が途中で口を閉ざしたところで一度広まった噂が簡単に消えさることなど無く、降臨が起きたという噂には勝手な尾ひれはひれがつけ加えられて今もレーマ市中に広がり続けている最中ではあった。ただ、広まった噂では降臨したのが《暗黒騎士ダーク・ナイト》だとのことだったから噂の多くは人々の不安をかきたてるような悲観的なものであり、ここアルトリウシア子爵家に集まった者たちが信じるような楽観的・肯定的な噂は全体からすると例外的なものでしかない。つまり、実を言うと降臨の噂を聞いたレーマ市民の内で恩寵のおこぼれに預かろう行動を起こしたのは極々一部でしかなく、大部分は再臨した《暗黒騎士》がこれから振りまくであろう世界的な災禍に思いを巡らし、それを防ぎ生き残るためにどうしたらよいかと不安を募らせていたのだ。世間の大部分がそうであるのだから、アルトリウシア子爵邸に集まった者たちが昼間の熱狂からは信じられないほど呆気なく姿を消したのも当然と言えば当然のことだったのである。


 それでもアルトリウシア子爵邸の前には未だに何人か人が残ってはいるが、通行人の邪魔にならないようにまばらに突っ立っているだけであり、昼間集まった群衆のように子爵邸の人に自らの存在をアピールしようとするようなものは一人もいない。むしろ逆に、静かに屋敷ドムスの様子や通行人たちを静かに観察しているかのようであった。


「思ったよりおそくなっちまったな。」

「ああ、もうこんなに暗くなってしまったとは……

 しかし、得たものは多かった。」


 子爵邸の玄関オスティウムから白地に赤い縁取りをした元老院議員セナートル用の正衣トガまとった二人のホブゴブリンが姿を現すと、夕焼けの赤から夜の青へと色彩を替えゆく空を見上げた……一人はヤレヤレとやるせないように嘆息したが、もう一人の方は充実した時を満喫しきったかのようにその表情はほがらかだ。一人はアレクサンデル・マエシウス、もう一人はフロンティーヌス・リガーリウス・レマヌスである。

 アレクサンデルはフロンティーヌスを片眉をひそめながら横目で見た。


「アンタは随分満足できたみたいだな。」


 貧相な顔つきにふさわしい粗野な口ぶりにはどこか皮肉めいた響きがある。


「満足?

 いや、まだまだ足らぬくらいですとも。

 次に再び子爵令嬢ウィケコミティス・フィリアまみえる時が今から待ち遠しくてたまらぬほどですよ。」


「おいおい、俺たちゃ明日レーマをつんだぞ!?」


 フロンティーヌスのあまりに能天気な言葉にアレクサンデルは仰天した。


 二人は元々、別々にアルトリウシアへ向かうはずだった。フロンティーヌスは元老院議員ながらアルトリウシア軍団レギオー・アルトリウシア軍団幕僚トリブヌス・ミリトゥムとして、そしてアレクサンデルはハン支援軍アウクシリア・ハン軍団幕僚トリブヌス・ミリトゥムとして務めを果たすために。二人は降臨を知ったから出発するのではなく、あくまでもメルクリウス発見の報を受けて遅ればせながら現地へ向かったことにするようになっている。そして、現地へ着いてみたら降臨が起きていたというていよそおうことになっていた。

 そのためには二人は別々に現地へ赴く方が良いと、彼らを送り出す元老院守旧派の重鎮たちは考えた。だから二人はわざわざ時間をずらして別々に呼び出され、それぞれ別々に現地への出張を命じられていたし、二人ともお互いが同じアルトリウシアへ派遣されることを知らされていなかった。しかし、同じ理由、同じ目的で、同じタイミングで同じ場所へ派遣されるのであるから、二人は遅かれ早かれ互いの存在に気づくことになる。そしてそのタイミングは誰もが予想していたよりも早かった。

 二人とも現地へ行く前に現地の領主貴族パトリキやその関係者と最低限挨拶をし、可能なら現地の様子を聞くなり現地での便宜を図ってもらうなりした用が良いと気づき、そして二人ともアルトリウシアからレーマに留学している子爵令嬢の存在を思い出したのである。そして二人はレーマのアルトリウシア子爵邸へ急ぎ、そこでバッタリと出くわした。

 レーマでアルビオンニアの話を聞ける上級貴族パトリキは今現在グナエウシア・アヴァロニア・アルトリウシア・マイヨル子爵令嬢しか存在しないのだから、二人の邂逅かいこうは必然以外の何物でもなかったといって良いだろう。しかも当の大グナエウシアグナエウシア・マイヨルは『黄金宮』へ参内していて留守であり、二人は期せずして子爵邸で大グナエウシアの帰りを待つ時間を共にすることとなったのである。

 結果、二人は互いの境遇を知り、それでは一緒に行こうかということになった。フロンティーヌスは出発は決まっていたものの船の手配がつかずに困っていたし、逆にアレクサンデルは自前の船は持っていたが運航できる目途が立っていなかったのである。


 アレクサンデルは多くの中道派元老院議員がそうであるように元々商家の出身だ。実家は海運業を営んでおり船を何隻か所有していたのだが、残念ながら経営は順調とは言い難かった。

 船という奴は運航すれば大きな利益が得られる。一回の航海でその船の建造費がだいたいまかなえるくらいの利益が得られるので最初の航海で原価を償却し、二回目以降の利益は丸々儲けになるが、船という乗り物は十回に一回は遭難するものであった。船員の消耗は激しく、船長でさえ一つの船に何年も乗り続けることはあまりないため、同じ船でも操る人間は頻繁に入れ替わっていく。安定的に利益を出し続けることが難しく、海運業はある意味投機的といって良い商売だ。

 しかもアレクサンデルは幸運とはあまり縁のない男だった。アレクサンデルが実家の稼業を継いでから所有する船舶の遭難が立て続けに起こり、家は傾きはじめたのだ。

 何とかしなければ……幸い、親戚に不幸があって遺産相続によって思わぬ財を得たアレクサンデルは元老院議員になることを思いついた。元老院議員選挙に勝てば上級貴族パトリキの仲間入りを果たし、貿易を行う特権が得られる。海運業を営む彼がその特権を得れば、これまで以上に大きな利益を上げられるようになるに違いない。


 いくら多少の財を得たからと言って元老院議員選挙に打って出て議員になりおおせるなど、かなり博打に近い行為だったと言える。他の商家出身の中道派議員らと違って、彼らは下地となるような支持基盤がほとんどなかったからだ。

 そんな彼が議員になれたのは幸運以外の何物でもなかった。実際、彼に勝因と呼べるようなものは一切なく、むしろ競争相手となった候補者の自滅によって議員になれたようなものだったからだ。だが、彼の幸運はそこで尽きたようである。


 結局、彼の稼業の経営状況は回復することは無かった。元老院議員になってからも船の遭難は続いたし、元老院議員になったことで開拓しようとした事業は皇帝派議員の既得権益と衝突したことで頓挫してしまった。そして経営的に危機に陥ったのみならず、衝突した議員を怒らせてしまったせいで守旧派議員に身売り同然で助けを求めるしかなくなってしまったのだから。

 今、彼の事業はほぼ自転車操業に近い状態になっている。生き残った数隻の船をやりくりしてやっと存続し続けているような状態であり、上級貴族の元老院議員のくせに下級貴族ノビレスほども羽振りは良くない。

 幸い、今回の出張で使う船自体は自前のものを都合できたが、船乗りたちに払える報酬が片道分しか用意できないのだ。せめてついでに運ぶ荷物でもあれば、その分で船乗りたちの報酬を約束できるのだが、何せ急な話だったので積み荷を運びたいという荷主を見つけることが出来ないでいたのだ。

 

 最悪、オリエネシアで船を手放さねばならんかもしれん……それでも死ぬよりはマシだろう。


 そう思い詰めていたアレクサンデルが子爵邸で出くわしたのがフロンティーヌスだった。行き先が同じでありながらまだ船を見つけられていないというフロンティーヌスに便乗を持ち掛け、運航費用の肩代わりを認めさせることに成功したところだったのだ。

 ところが、そのフロンティーヌスが明日にはもう船出するというのに「次に再び子爵令嬢ウィケコミティス・フィリアまみえる時が今から待ち遠しくてたまらぬ」などと素ッとぼけたことを抜かしたのだから、驚き慌てたのも仕方のないことだろう。


「もちろん分かっていますとも。

 明日にはマエシウス卿の快速船クリッパーに乗せていただき、アルトリウシアへ旅立つのだということぐらい……そう、あの子爵令嬢ウィケコミティス・フィリアの故郷へ……

 そして無事に務めを果たし、再び子爵令嬢ウィケコミティス・フィリアと再会を果たすのです。」

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