第803話 頼りない二人
統一歴九十九年五月十日、夕 - アルトリウシア子爵邸/レーマ
暗き闇に浮かぶがごとき白き姿……
光を
いかなる闇も影も、
「……リガーリウス卿……」
おお、地上に降りた
星々の女王、華やかな夜の女王よ……
「リガーリウス卿!……リガーリウス卿!?」
「はっ!……あ?……えっ?!」
フロンティーヌス・リガーリウス・レマヌスは自分を呼ぶ押し殺したような男の声にハッと我に返った。声の方向を見ると、見慣れぬホブゴブリンのどこか貧相な顔が見えた。何やら怒りを笑顔で覆い隠したような顔をしている。
あれ……この人たしか……
「リガーリウス卿、大丈夫ですか!?」
「はっ?……えっ!?」
貧相な男が押し殺すような声で何か言っているがよく聞き取れず、思わず訊きなおす。貧相な男は苦笑いを大きくして歯をむき出しにして見せた。
あれ、この人はたしか……そうだ、アレクサンデル・マエシウス卿?
「挨拶っ、御挨拶ぅーっ!!」
「は……あっ!」
アレクサンデル……今日初めて互いに自己紹介した同じ
「あの……改めまして、わたくしアルトリウシア子爵家のグナエウシア・アヴァロニア・アルトリウシア・マイヨルと申します。」
どうやら正気に戻ったらしいフロンティーヌスに
「あっ!こ、これはとんだ失礼を!
フッ、フロンティーヌス・リガーリウス・レマヌスと申します!
えっ・・・・・あっ、と、突然押しかけてしまい、も、申し訳……いや、にもかかわらず、歓迎していただき、お詫びを感謝いたしまう。」
「リ、リガーリウス卿!?」
もはやしどろもどろどころの騒ぎではなかった。相手が相手だけに笑うに笑えない。
ただでさえ今日色々あって疲れているのに、
何この人、
出身氏族同士の敵対関係もあって大グナエウシアのフロンティーヌスに対する印象は最悪であった。そもそも、武門の誉高いアヴァロニウス氏族の大グナエウシアからすると、自分よりも背が低いだけでなくホブゴブリンの癖に身体も貧弱そうなフロンティーヌスはちっとも魅力的に見えない。それでも、相手は元老院議員で自分は子爵令嬢とはいえ未成年の子供に過ぎない。無礼な態度など間違っても取るわけにはいかなかった。
「まぁ、その……どうぞ、おかけください。
今、お茶を淹れなおさせます。」
大グナエウシアはフロンティーヌスの挨拶に戸惑いながらも、そう言って二人に
二人は勧められるままに長椅子に腰かけた。二人とも先ほどの失敗ゆえか、大グナエウシアからあえて目をそらし、どこかソワソワと落ち着かない様子でタネが香茶を淹れなおすのを静かに待っている。思わぬ形で出鼻を
何とかこの失点を挽回せねば……
別に二人は何らかの交渉事に来たわけではなかったのだが、
自己嫌悪を噛みしめる二人の鼻孔を、やがて上等な香茶の豊潤な芳香がくすぐり始める。湯気を立てる
「本来なら
「いやあっ、十分です!」
「そ、そうです。
み、未婚の貴族令嬢が、男を
会話というものを言葉を介したキャッチボールのようなものだとと考える人は少なくない。その考え自体は間違ってはいないだろう。だが時折、言葉のキャッチボールというものをやけに重大に考えてしまう人がいる。
しかし、実際の会話はそこまで重大なことでも真剣にとらえねばならないようなものでもない。特に初対面同士の世間話なんて言うものは、基本的には限られたパターンで言葉をやり取りするだけのパズルゲームであり、その言葉に心を乗せる必要なんて全くなかったりする。要は、そのパターンを共有できるかどうかと言う点こそが重要なのだ。心のこもっていない型通りの言葉のやり取り……それこそが、相手の常識や社交性を計る尺度となる。
その点、今の二人はとてもではないが上級貴族として及第点は付けられかった。しょっぱなの失敗を引きずり、動揺を隠せていない。最低限の
「ご理解
大丈夫かしら、この人たち?……自分よりも遥かに年上の大人が、自分よりも未熟な社交性しか持ち合わせてなさそうな事実に戸惑いつつも、それでも大グナエウシアは失礼があってはならないと気を引き締める。
「それで、急の御用と
大グナエウシアはニコリと笑って二人に尋ねた。
そう、相手がどれだけみっともなかろうと、自分の方は誠意を失ってはならない。いや、“
「いや、あっ!」
「そうっそれっ」
二人は大グナエウシアの問いかけに同時に反応し、同時に隣からの反応に気づき、同時に口を
……何なのこの人たち?
打ち合わせとかしてないのかしら?
普通、二人で一人に何か交渉を持ちかけるのであれば、どちらが主でどちらがサポートに回るとか最低限の役回りくらい打ち合わせておくものだろう。しかし大グナエウシアの目の前の二人はどうやらそんな準備もしていないようだった。そして、大グナエウシアのその予想は
二人はそもそも、一緒に大グナエウシアと面会するつもりなど最初からなかったのだ。二人とも今日の昼に
アルトリウシアへ行けば領主である子爵に会わずにはおれまい。そしてレーマから来た上級貴族が子爵に会えば、レーマに留学中の娘の状況などを訊かれるのは避けられないだろう。それで「お嬢様のことは知りません」などと言った日には子爵の心証は悪くなることはあってもよくなることなどあり得ない。その程度は貴族なら予想して当たり前……ならばレーマを発つ前に留学中の子爵令嬢に挨拶をし、実家への手紙でもあれば預かるぐらいの配慮を見せるのは当然あってしかるべきであろう。
そうして二人は「明日レーマを発つ前に…」とレーマ市内にあるアルトリウシア子爵邸へ向かい、子爵家で意図せず出会ってしまった二人はそこで初めて挨拶をかわし、互いの境遇が同じであることに気づき、「それなら一緒に……」という話になって今に至っていた。二人とも行き当たりばったりだったのである。どちらがどうとか決めるなど、まったくしてなかった。
「ど、どうぞ?」
「あ、いや僕は……」
小声で互いに譲り合い、二人は途中でフロンティーヌスが
「あ、えーっ、オホンッ!
そ、その、御用と言うのは他でもありません。
僕たちは実はアルトリウシアへ行くことになったので、そのご挨拶に伺いました。」
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