旅立つ元老院議員たち
第800話 群衆
統一歴九十九年五月十日、夕 ‐ アルトリウシア子爵邸/レーマ
レーマ帝国における
店を借りる商人側としても貴族の屋敷前で営業するのはそれなりにメリットがある。その第一は固定客ができやすいことだろう。レーマには降臨者を通じて《レアル》ローマから引き継がれたクリエンテラという文化・風習があるからだ。
クリエンテラとは
そしてもう一つのメリットとしては他所よりも安全であることである。貸し出された店舗とはいえ土地も建物も貴族の所有物なのだから、何者かが悪意を持って店に嫌がらせをしようものなら、大家の貴族が黙ってはいない。それだけでもよほどの愚か者か大家よりも権勢の強い
「?……何?何かあったのかしら?」
屋敷に近づくにつれて馬車から見えるいつも通りの風景に、いつもとは違ってやけに人が増えていく様子に気づいた大グナエウシアが疑問の声を上げる。
「きっとお嬢様が宮城へ招かれたことがレーマ中に知れ渡ったせいですわ。」
「まさか!」
侍女タネが自慢げに言うのを大グナエウシアは信じがたかった。
『黄金宮』に招かれるのはもちろん名誉なことだ。特に
だが、今子爵邸の周辺に集まっている人たちは領主貴族などではもちろんない。領主貴族たちの被保護民というわけでもないだろう。大グナエウシアが何か大々的な行事でもしているというのなら被保護民や囲っている
群衆は車列が子爵邸に近づくにつれて増えていき、子爵邸の前に到達するころにはもう上から見下ろしても地面が見えないほどの人混みとなっていた。衛兵たちが怒声と棍棒で群衆を押しのけなければ、車列が進むのもままならぬほど……群衆の歓声は大グナエウシアの鼓膜どころか、体中の体毛さえも直接くすぐるほどの勢いでまさに沸騰しており、それが辛うじて聞き取れる文言からどうやら称賛や祝福らしいことがわかっていても、大グナエウシアに不安と恐怖を感じさせるに十分なものであった。
やがて車列は子爵邸へ近づいていく。
他のレーマ貴族の屋敷と同様、敷地の外周を店舗スペースにして貸し出しているとはいえ、
車列は正門の内側の車回しをぐるりと回り、
「
「
レーマの子爵邸を預かるモルゲヌスの出迎えを受けながら馬車から大グナエウシアが下りると、その姿を門の外から認めた群衆がひときわ大きな歓声を上げた。その天から反響してくるような声に大グナエウシアは思わず言葉を飲み、身をすくめる。
あまりの声に馬車馬が怯え、御者が必死に宥めているにもかかわらず脚を踏み鳴らしながら首を盛んに振りはじめた。
「な、何なの、いったい!?」
「
「ここは危険です!」
大グナエウシアの耳元で叫ぶようにモルゲヌスとタネの二人に促され、おもわずその場にうずくまりそうになっていた大グナエウシアは怯えを隠し切れぬまま玄関の中へ入っていった。
あのままでは興奮した群衆が屋敷の中へ押し寄せてくる……というほどのことでもないだろうが、群衆の歓声に馬車馬が興奮して暴れだしたりでもしたら、馬車が急に動き出して周囲の者たちを巻き込み怪我人を出してしまうかもしれない。そしてその中に大グナエウシアが仲間入りしてしまう危険性も否定できなかった。
「いったい何の騒ぎなの?あの人たちはいったい何!?」
屋敷に入って玄関扉が閉められるとさすがに大気を震わすほどだった歓声も抑えられ、大きな声を出さなくても会話が通じるようになると、大グナエウシアは改めてモルゲヌスに尋ねた。その顔は今にも泣きだしそうである。
だが、薄くなった額の汗を拭きながら大グナエウシアの疑問に答えようとするモルゲヌスの表情もまた、ほとほと困り果てたといった様子であった。
「例の噂でございます、お嬢様。」
「噂!?」
「降臨です、お嬢様。
アルトリウシアに降臨が起きたという……」
大グナエウシアは思わず目を見開いてモルゲヌスの顔を見下ろす。大グナエウシアは女性ではあったがハーフコボルトであるため、ホブゴブリンのモルゲヌスよりも頭半分ほど背が高い。
「それで何で彼らはウチに押し寄せているの!?」
アルビオンニアで降臨が起きたという噂はどうやら事実らしい。それは今日、招かれて参内した『黄金宮』で皇帝マメルクスから教えられたばかりだ。それについては今更否定はできない。皇帝はなるべく隠蔽しておきたいようだったが、情報の秘匿に失敗してしまっていることは既に明らかであり、今から否定してみたところで意味のないことであろう。
だが、だからといってそれで何で子爵邸に群衆が押し寄せているのか大グナエウシアにはさっぱり理解できなかった。噂の真相を知るために押しかけて来たというにしては、あまりにも熱狂的すぎる。だいたい、噂は本当かどうかを訊くためにあんなふうに歓声を上げるわけがなかった。
困惑に怒りの表情が見え始めた大グナエウシアに、モルゲヌスは相変わらず薄くなった頭に際限なく浮かび続ける汗を
「どうやら彼らは、降臨者様の
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます