旅立つ元老院議員たち

第800話 群衆

統一歴九十九年五月十日、夕 ‐ アルトリウシア子爵邸/レーマ



 レーマ帝国における貴族ノビリタス屋敷ドムスには、《レアル》世界で「貴族の邸宅」と聞いて思い浮かべる情景にはあまり見られない一つの特徴がある。それは屋敷の敷地の外周……特に通りに面している敷地が外壁を兼ねた長屋状の貸店舗スペースになっていることだ。敷地の一部を貸し出すことで家賃収入を得られるとともに、軽食屋タベルナなどの店舗を営業させることで敷地の外周に常に人の目が行き届くようになることから、不法な侵入者の接近を未然に防ぐことが出来る……つまり、副収入源兼警備員としての役割が期待されているのである。

 店を借りる商人側としても貴族の屋敷前で営業するのはそれなりにメリットがある。その第一は固定客ができやすいことだろう。レーマには降臨者を通じて《レアル》ローマから引き継がれたクリエンテラという文化・風習があるからだ。

 クリエンテラとは被保護民クリエンテス保護民パトロヌスの相互扶助関係のことであるが、被保護民は保護民から様々な保護を受ける代わりに、保護民に対して奉仕の義務を負っている。その一つが毎朝行われる『表敬訪問サルタティオ』(サルタティオは日本語で『表敬訪問』以外にも『朝の伺候しこう』と訳されることがある)だ。被保護民は保護民の家を訪れて挨拶をし、ついでに様々な報告や訴えをしたり言いつけを言付ことづかったりし、そして保護民から『お手当スポルトゥラ』を受け取るのだ。つまり、貴族の屋敷前は住宅街ではあっても常に一定数以上の人通りがあり、店舗は大家の屋敷を訪れる被保護民が固定客となることを見込むことができたし、あるいは保護民が被保護民に手渡す『お手当』用のちょっとした食品などを大家に納めることもあった。

 そしてもう一つのメリットとしては他所よりも安全であることである。貸し出された店舗とはいえ土地も建物も貴族の所有物なのだから、何者かが悪意を持って店に嫌がらせをしようものなら、大家の貴族が黙ってはいない。それだけでもよほどの愚か者か大家よりも権勢の強い大貴族パトリキでもない限り軽々しくチョッカイを出しては来なくなる。それに店のすぐ裏は大家である貴族の屋敷であり、その中には貴族の私兵や使用人たちが常駐しているのだ。理由は何であれ店で何か騒ぎがあれば貴族の財産である店舗と店子を守るために即座に駆け付けてくるだろう。


 子爵令嬢ウィケコミティス・フィリアグナエウシア・アヴァロニア・アルトリウシア・マイヨルを乗せたレーマ皇帝インペラートル・レーマエの御料車の車列が、大グナエウシアグナエウシア・マイヨルのレーマ留学中の住居となっているアルトリウシア子爵邸ドムス・アルトリウシイに到着した時、屋敷ドムスの周辺には人だかりが出来ていた。これまで大グナエウシアがレーマに到着して間もない頃、「あの『白銀のアルトリウスアルジェントゥム・アルトリウス』の妹を一目見たい!」という、会ったこともない大グナエウシアとのロマンスの期待に胸を膨らませ目をハートの形にした気色の悪い男たちが一か月近くもの間押し寄せていたことはあったが、今日のそれはそれどころではなかった。屋敷の敷地を取り囲むように並んでいる店舗の中の様子も見えないくらいだ。


「?……何?何かあったのかしら?」


 屋敷に近づくにつれて馬車から見えるいつも通りの風景に、いつもとは違ってやけに人が増えていく様子に気づいた大グナエウシアが疑問の声を上げる。


「きっとお嬢様が宮城へ招かれたことがレーマ中に知れ渡ったせいですわ。」


「まさか!」


 侍女タネが自慢げに言うのを大グナエウシアは信じがたかった。

 『黄金宮』に招かれるのはもちろん名誉なことだ。特に領主貴族パトリキにとって皇帝インペラートルは自分たちの領主としての立場と権威との根拠ともなる存在であり、貴族制度の頂点に君臨する存在である。その皇帝に自宅である宮城へ賓客ひんきゃくとして招かれたことが名誉でないはずはない。同じ領主貴族で大グナエウシアと近しい者たちならば、きっと祝ってくれることだろう。

 だが、今子爵邸の周辺に集まっている人たちは領主貴族などではもちろんない。領主貴族たちの被保護民というわけでもないだろう。大グナエウシアが何か大々的な行事でもしているというのなら被保護民や囲っている食客ラウディケーヌスを派遣してサクラとして盛り上げてくれるということもあるだろうが、大グナエウシアはもちろん子爵家でもそのようなことはしていないのだ。かといって誰かが『黄金宮』に招かれた大グナエウシアを妬んで嫌がらせをしてきているとも思えない。現に道を行く人々は大グナエウシアを乗せた御料車に気づくと、今朝『黄金宮』へ向かう途中で通ったフォルム・レマヌムの群衆のように、盛んに歓声をあげている。その声、表情はどちらかと言えば好意的なものだ。

 群衆は車列が子爵邸に近づくにつれて増えていき、子爵邸の前に到達するころにはもう上から見下ろしても地面が見えないほどの人混みとなっていた。衛兵たちが怒声と棍棒で群衆を押しのけなければ、車列が進むのもままならぬほど……群衆の歓声は大グナエウシアの鼓膜どころか、体中の体毛さえも直接くすぐるほどの勢いでまさに沸騰しており、それが辛うじて聞き取れる文言からどうやら称賛や祝福らしいことがわかっていても、大グナエウシアに不安と恐怖を感じさせるに十分なものであった。


 やがて車列は子爵邸へ近づいていく。

 他のレーマ貴族の屋敷と同様、敷地の外周を店舗スペースにして貸し出しているとはいえ、正門ポルタ・プラエトーリアの周辺には店舗は設置しておらず、車回しに使えるように広く開けていた。もちろんそこも群衆で埋まっていたのだが、御料車が近づいてくると子爵邸の私兵が正門から押し出してきて、車列を囲む衛兵がそうしていたように怒声と棍棒で群衆を押しのけた。皇帝が御料車の護衛に付けた衛兵隊と子爵邸の私兵とが合流して車列が通過できる通路が開通すると、その一瞬の隙を突くかのように馬車は子爵邸の正門へ飛び込んでいく。

 車列は正門の内側の車回しをぐるりと回り、玄関オスティウムの前へ横付けしてようやく止まった。従者が馬車のすぐ横に踏み台を用意し、扉を開けると敷地の外から聞こえるどよめきが一段と大きくなる。


おかえりなさいませグラータ・ドムムお嬢様ドミナ


ただいまスム・ドムムモルゲヌス、これはいったい……!?」


 レーマの子爵邸を預かるモルゲヌスの出迎えを受けながら馬車から大グナエウシアが下りると、その姿を門の外から認めた群衆がひときわ大きな歓声を上げた。その天から反響してくるような声に大グナエウシアは思わず言葉を飲み、身をすくめる。

 あまりの声に馬車馬が怯え、御者が必死に宥めているにもかかわらず脚を踏み鳴らしながら首を盛んに振りはじめた。


「な、何なの、いったい!?」


お嬢様ドミナ、とにかく中へ、中へお入りください!」

「ここは危険です!」


 大グナエウシアの耳元で叫ぶようにモルゲヌスとタネの二人に促され、おもわずその場にうずくまりそうになっていた大グナエウシアは怯えを隠し切れぬまま玄関の中へ入っていった。

 あのままでは興奮した群衆が屋敷の中へ押し寄せてくる……というほどのことでもないだろうが、群衆の歓声に馬車馬が興奮して暴れだしたりでもしたら、馬車が急に動き出して周囲の者たちを巻き込み怪我人を出してしまうかもしれない。そしてその中に大グナエウシアが仲間入りしてしまう危険性も否定できなかった。


「いったい何の騒ぎなの?あの人たちはいったい何!?」


 屋敷に入って玄関扉が閉められるとさすがに大気を震わすほどだった歓声も抑えられ、大きな声を出さなくても会話が通じるようになると、大グナエウシアは改めてモルゲヌスに尋ねた。その顔は今にも泣きだしそうである。

 だが、薄くなった額の汗を拭きながら大グナエウシアの疑問に答えようとするモルゲヌスの表情もまた、ほとほと困り果てたといった様子であった。


「例の噂でございます、お嬢様。」


「噂!?」


「降臨です、お嬢様。

 アルトリウシアに降臨が起きたという……」


 大グナエウシアは思わず目を見開いてモルゲヌスの顔を見下ろす。大グナエウシアは女性ではあったがハーフコボルトであるため、ホブゴブリンのモルゲヌスよりも頭半分ほど背が高い。


「それで何で彼らはウチに押し寄せているの!?」


 アルビオンニアで降臨が起きたという噂はどうやら事実らしい。それは今日、招かれて参内した『黄金宮』で皇帝マメルクスから教えられたばかりだ。それについては今更否定はできない。皇帝はなるべく隠蔽しておきたいようだったが、情報の秘匿に失敗してしまっていることは既に明らかであり、今から否定してみたところで意味のないことであろう。

 だが、だからといってそれで何で子爵邸に群衆が押し寄せているのか大グナエウシアにはさっぱり理解できなかった。噂の真相を知るために押しかけて来たというにしては、あまりにも熱狂的すぎる。だいたい、噂は本当かどうかを訊くためにあんなふうに歓声を上げるわけがなかった。

 困惑に怒りの表情が見え始めた大グナエウシアに、モルゲヌスは相変わらず薄くなった頭に際限なく浮かび続ける汗を布巾スダリオで拭きながらモジモジするように答える。


「どうやら彼らは、降臨者様の恩寵おんちょうに預かろうというのです。」

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