第799話 ルードの御供(3)

統一歴九十九年五月十日、午後 ‐ 『黄金宮ドムス・アウレア』・レーマ



「よろしいのですか、大聖母グランディス・マグナ・マテル様?」


 諦めかけていたマメルクス・インペラートル・カエサル・アウグストゥス・クレメンティウス・ミノールはフローリア・ロリコンベイト・ミルフの口から零れた容認の言葉に我が耳を疑った。


いささか気になる点が無いわけではありませんが、陛下が御選びになられたのです。信じないわけにはいかないでしょう?」


 そのように認めてもらえるのはありがたいが、だったらごねるような様子など見せずにすんなり認めてほしかった。しかし、この場でそのように苦言を呈して機嫌を悪くさせ、せっかく認めてもらえた人選を「やっぱりダメ」とひっくり返されても困る。マメルクスは片眉を持ち上げて苦笑いするしかなかった。

 が、ここで別の方向から疑問の声が上がる。


「あの……本当にいいんですか、ママ?」


 声の主はフローリアの対面に座るロックス・ネックビアードだった。


「何か問題があるかしら、ロキシー?」


「え……だって、奴隷ですよ!?

 主人の目の届かない所へ行ったら、命令に背いたり逃げたりしないんですか?」


 ロックスは理解できないとでも言わんばかりに目を丸くし、上体を仰け反らせて束ねるように合わせた指先で口元を覆う。そしてロックスのその疑問にマメルクスとフローリアは無言のまま目を合わせた。


 ロックスは元々レーマ側の人間ではなく、啓展宗教諸国連合側の人間だ。あちら側では神の前では平等という宗教の教義、そして降臨者たちがもたらした人道や人権といった価値観に反する奴隷という存在に否定的な考えが一般的である。そして、そうした考えから奴隷という存在はそもそも信用に値しないと考えを発展させる者も数多くいた。ロックスもその一人である。

 奴隷が信用に値しない根拠の一つとして、過酷な労働を強制される奴隷は何事につけ消極的であり、チャンスがあれば逃亡したり反抗しようとしたりする……と、信じられている点が挙げられる。だからどれだけ都合がいいように思えても奴隷など持つべきではないと、倫理や道徳による論に否定的で自らの合理性を信じ、奴隷制批判に懐疑的な者たちを説得しようという論法である。

 それは一つの真実ではあったが、いささか欠陥のある論理展開でもあった。まず人間は過酷な労働ではなくても何かを強制されれば消極的になるものであり、奴隷かどうかは関係が無い。そしてすべての奴隷が過酷な労働を強いられるわけでもなかった。消極的かどうかは奴隷かどうかよりも個人の性格や置かれた環境の方がずっと大きく影響する。

 もちろん奴隷制は人道主義・人権主義といった立場に立つ限り確かに否定されるべきではあるが、だからといって現に奴隷という立場に置かれた個人が信用に値するかどうかとは全く別の話である。


 ロックスが何故そこまで目の前の奴隷たちに不審を抱いているのか、フローリアの方はロックスのそうした感覚の背景にあるものを知っていたが、ムセイオンを訪れたことすらないマメルクスはよく理解していなかった。ただ単に、奴隷を持ったことが無いから奴隷という存在に対して理解が無いか、何かを誤解しているのだろうと言う程度にしか考えられない。だから直接質問を受けたフローリアが答えるだろうとマメルクスは考えていたのだが、フローリアは答えないどころかマメルクスをジッと見たまま「ですって、陛下?」と質問をマメルクスに丸投げしてきた。


「え!?……あ、ああ……」


 どうやら自分が答えなければならないようだと気づいたマメルクスは弛緩させていた身体を起こし、口元に右手を当てて小さく咳払いをしてからロックスを向いて説明を始める。


「簡単なことだ。

 彼らは奴隷だが彼らには家族がいて、レーマで一緒に暮らしている。だから彼らだけで逃げることはない。」


 人質をとっているの!?……ロックスは無言のまま愕然とするが、表情の変化は小さかったのでマメルクスはそれに気づくことなく説明を続けた。


「そして彼らは立派に仕事をやり遂げれば報酬を手にし、その金で自分を買い戻して奴隷という身分から解放されることになる。家族と共に……

 だから、彼らが仕事を放り出して逃げることは無いのだ。」


 話はそこまで単純ではなかったが、マメルクスは事情を知らないロックスでも簡単に納得するだろうと思ってそのように話を単純化して説明して見せた。


 レーマでは奴隷制が敷かれているが、降臨者が齎した人道主義や人権主義といった考えももちろん理解されている。そして、そうした人道主義・人権主義に基づく批判を多少なりともかわすために、奴隷にも一定の権利が認められるようになっていた。

 たとえば奴隷といえども財産権が認められており、主人は労働に応じて一定水準の給料を支払われねばならなかったし、生活環境等についても基準が設けられている。刑罰の一環として奴隷身分に落とされて鉱山や櫂船で死ぬまで働かされるようなのは別として、奴隷だからと言って極端に劣悪な生活を強いられるわけではない。それどころか、奴隷を所有できるのはそれなりの財力のある貴族ノビリタスに限られていたので、貴族の庇護下で生活できる奴隷は自由民の貧民よりはマシな生活を送れている事例の方が多いくらいだった。


 そして奴隷の権利の一つとして、自分の身分を金で買い戻す権利が認められているのだが、実はスケレストゥスもカクラウスもどちらも自身はもちろん自分の家族の身分も買い戻せるだけの金を既に稼いでいた。つまり、彼らはいつでも自分自身を奴隷という身分から解放できる状況にあり、彼らは意図して奴隷身分のままでいたのである。


 では何故彼らは奴隷のままでいるのか?……その方が都合が良いことも色々とあるからだ。

 彼らは皇帝お抱えの剣闘士グラディエーターとして働いている。そして剣闘士としては奴隷という身分そのものが一つのステータスになっていた。ちょっと考えてみれば容易に想像がつくであろうが、闘技場コロッセオに登場する際「皇帝お抱えの…」と紹介されれば観客はそれだけで沸き立つことになる。それだけ注目を浴びることになる。剣闘士という商売をするうえで注目を浴びやすいというのは十分メリットになるのだ。

 そして、奴隷でいるといくつかの税金が免除される。奴隷が自助努力によって自らを解放しやすくできるようにとの配慮から税制上有利な制度になっているのだ。そうした制度が成立した背景には、「誰だって金があれば奴隷のままでいようとは思わないだろう」という性善説じみたもあったのだが、奴隷という身分ではあっても環境がそれほど劣悪ではないのならあえて自由になろうとは思わない者も現実には存在していたのだ。世の中には借金から逃れるために自らを奴隷として売るような者だっていたのである。

 実際、二人の生活環境は決して悪くはない。何せ彼らが住んでいるのは皇帝の住まう宮殿『黄金宮ドムス・アウレア』の一角だ。レーマ最高の住居といえる宮殿の一角で家族と一緒に生活することができ、奴隷の権利として衣服も食事も皇帝から提供してもらえるのだ。安くない金を払って自由民になり、レーマの狭くて薄暗くて不潔な貧民街で高い家賃と税金を払って空き巣や強盗に怯えながら生きるよりは、彼らの場合は奴隷のままでいた方がずっとマシだったのだ。


「余の説明で納得がいったかね、ミス・ネックビアード?」


「は……はい、陛下。ありがとうございます……」


 そんなわけでスケレストゥスとカクラウスは好き好んで自ら奴隷という立場に甘んじていた。彼らは皇帝に買われたことを幸運にすら思っていた。だが、そのようなことを長々と説明するのはマメルクスにとって非常に無駄にしか思えなかったので、マメルクスはロックスにかなり端折った説明で済ませていた。

 その端折った説明によってマメルクスは目論見通り最小限の言葉でロックスを納得させることに成功はしていたのだが、しかしロックスの中では「やっぱりレーマは野蛮な国なんだわ……」という感想を抱かせることにもなってしまっていた。


 フローリアはロックスがマメルクスに対して良からぬ感想を抱いたであろうことに気づいていた。

 人権・人道に対する考え、答えは一つではない。特にそれをどう実現していくかという政治的実践の話となると、理想を唱えればよいという単純な話でもなくなってしまう。同じゴールを目指してもスタート地点が違えば最善のルートも違ってきて当然なのだ。理想と現実の接点を模索し続けること……それこそがあらゆる実務者に共通した責務なのだが、現実を理解しないまま理想を唱えたがる人物にそれを理解させるのはいつだって極めて困難だった。

 ロックスはムセイオンの聖貴族の中では比較的聡明な方であり、現実の問題を把握しようともせずに理想だけを唱え続けるような面倒な人物ではなかったが、ムセイオンという閉鎖的空間で“箱入り”で育っている以上、どうしてもそうした傾向から無縁の存在でいられるわけでもなかった。むしろ、綺麗ごとでコーティングされた菓子を毎日食べて育っているのだから、どうしたところで“世間知らず”にならざるを得ない。そして綺麗ごとを信じてしまっている純真な魂に、現実を突きつけるのはいつだって辛く難しい苦行なのだ。

 だからフローリアは今回、あえてマメルクスに説明をさせていた。手元から放したくない息子に遠出をさせざるを得ない……そのことを自分に納得させるだけで既に十分に疲れていた彼女は、今回ロックスに綺麗ごとと現実の違いを教える苦行からあえて逃げ出していた。もっとも、ルードに遠出をさせるきっかけを作ってしまったマメルクスに対し、可愛い女の子からの密かな軽蔑を送り付けることでささやかな復讐を遂げるという目論見もないわけではなかったが……。


「さて、じゃあこれで決まりね。」


 フローリアのため息交じりの言葉にルード・ミルフ二世は心の中で快哉を上げる。その心の声は外に漏れてはいないはずだったが、フローリアはジロリと愛息子を睨んだ。


「それで、いつから行くの?」


 また不機嫌そうな声に戻ったフローリアが嫌々ながら訪ねると、ルードは母親の心配などどこ吹く風といった様子で目を輝かせ、快活に答えた。


「はい、さっそく明日から行こうと思います、母上マテル!」

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