第795話 残された懸念
統一歴九十九年五月十日、午後 ‐ 『
アルトリウシア子爵令嬢グナエウシア・アヴァロニア・アルトリウシア・マイヨルが退出した後、
「さて、いかがでしたか?
たしかにアルビオンニアは帝国でも一番の辺境ですが、決して蛮地ではないということはご理解いただけたと思いますが……」
今日の席は現地の様子を知りたいというフローリアの要請によって設けられたものだったが、同時に現地までの転移魔法での移動ルートをいち早く開拓するためにルードの派遣を認めてもらいたいというマメルクスの求めと、ムセイオンの外へ自由に出かけてみたいというルードの希望もあってのことでもあった。その点、昼の茶会は三者のそれぞれの要求を十分に満たすものであったことは間違いない。フローリアは現地の様子について過不足なく知ることができたし、
「そうね……」
マメルクスの問いかけに素っ気なく応えながら、フローリアは目の前に置かれた
フローリアはその茶碗を手元に引き寄せると、円卓のやや中央寄りに置かれた平皿から小さな花の形をした飴細工をつまみ上げて自分の香茶へポチャンと落とした。香茶の水面から顔を出す飴を指先でつついて
その間、フローリアはもちろん、ルードもマメルクスも一言も言葉を発することなくフローリアの次の言葉をジッと待っていた。その様子をフローリアの向かいから見ていたロックスも同じように飴細工を手に取り、自分の茶碗に落として静かにかき回す。
不思議な緊張感に満ちた時間が音も無く流れ、香茶の香りにも甘みが加わってきたころ、フローリアは茶碗を手に取って一口、音もたてずに飲んだ。
「蛮地などではないことはわかりました。
一昨年の火山災害の後、領主も領民も共に助け合って生活を立て直そうとしている話は感動すら覚えましたわ。」
口元から下ろした茶碗を円卓の上で両手で包み込むように持ちながらフローリアが落ち着いた口調でそう言うと、その向こう側で母の顔を見ていたルードが興奮したように眉を持ち上げながら息をスゥーッと吸い込み、身体を伸びあがらせる。
だが、フローリアの次の一言はルードの期待を裏切るものだった。
「でも、
そう言いながらフローリアは姿勢を変えることなく視線だけをマメルクスに向ける。その目はマメルクスを責めているようであった。
「子爵令嬢が話してくださった現地が安定的に発展している様子は叛乱が起きる前の話です。
人口数万の地方都市……それも半数以上が避難民という街で一つの軍団が本気で暴れたのだとしたら、その被害は計り知れませんわ。」
「それは仕方がありません
叛乱の第一報は降臨の第一報と共に昨日、レーマについたばかりなのです。
子爵令嬢が知っているはずはありません。」
魔法を除く長距離通信手段としては世界最速を誇っている帝国の
「それに軍団が暴れたと言っても
元々、強力な南蛮軍にぶつけることで
「現に、現地領主の報告にも叛乱軍は船で逃亡したとあったではありませんか?」
何を詰らないことを……とばかりにマメルクスは両手を広が手見せる。
「私、昨日帰ってからムセイオンで
フローリアは再び飴細工に手を伸ばし、香茶にもう一つ加えながら言った。
「ゴブリンとは言っても、ダイアウルフを乗りこなす騎馬民族だそうですね。
ハン族を平定し、ハンニア属州を版図に収めるため、レーマは百万もの兵力を投入しなければならなかったんですって?」
それは歴史的事実だった。ハンニア地方に広がる広大なアーカヂ平原を縦横に駆けまわるハン騎兵の機動力は圧倒的で、レーマ軍の
その特性は攻撃する際にも逃げる際にもいかんなく発揮され、こちらが気づかぬ間にどこからともなく近寄っては奇襲を仕掛け、そしてこちらが戦力を整えて反撃しようとするときには既に姿を消している。追撃しようにも姿も足音も声もなく、足跡を頼りに無理に深追いすると容赦のない
しかし、そのハン族の栄光も永遠には続かない。意を決したレーマ軍はこれまでアーカヂ平原に投入された中で最大の戦力を一挙に送り込んだのだ。
いくらダイアウルフ騎兵が強力だからといっても、その戦力は無限ではない。アーカヂ平原で生産可能な食料では、大喰らいのダイアウルフを養える数には限りがある。実際、ダイアウルフ騎兵の数は歴史上もっとも多い時でも一万に達したことは無いと言われていた。ならば、ハン族が機動力で
アーカヂ平原がどれだけ広大でダイアウルフ騎兵がどれだけ機動力に優れようとも、遊牧生活を送るハン族のキャンプ自体は早く移動できるわけではない。それに放牧生活を送る以上は草をある程度消費したら別の地域に……草がまだ生い茂っている地域に移動するしかないのだ。レーマ軍はハン族のダイアウルフ騎兵に対しては防御に徹しつつ、ハン族のキャンプを一つずつ追跡し、文字通り兵士による
最終的にハン族はレーマ帝国に従属する他なくなる……その、確かにやり方としては確実ではあるが実施された規模からすると馬鹿げていると呆れかえるしかないローラー作戦に投入されたのが、百万ものレーマ軍だったのである。その兵力数はアヴァロンニア攻略に投入された戦力の二倍を優に超えている。
とまれ、レーマ軍が一つの作戦に百万もの兵力を投入したのはハン族が最初で最後である。それだけ大兵力を投入しなければならなかった相手が脆弱だというのは少し無理があるのでは?……フローリアはそう言っているのである。
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