第795話 残された懸念

統一歴九十九年五月十日、午後 ‐ 『黄金宮ドムス・アウレア』/レーマ



 アルトリウシア子爵令嬢グナエウシア・アヴァロニア・アルトリウシア・マイヨルが退出した後、レーマ皇帝インペラートル・レーマエマメルクス・インペラートル・カエサル・アウグストゥス・クレメンティウス・ミノールと大聖母グランディス・マグナ・マテルフローリア・ロリコンベイト・ミルフ、そしてその息子ルード・ミルフ二世と彼ら母子の付き人であり聖貴族コンセクラータのロックス・ネックビアードは小一時間ばかりの休憩を終えて別室へ再び集まった。陽は既に傾いていて窓から差し込む光は少し黄色味がかってきている。彼らが集まった部屋には侍従たちの手によって早くも灯りの用意がされつつあった。


「さて、いかがでしたか?

 たしかにアルビオンニアは帝国でも一番の辺境ですが、決して蛮地ではないということはご理解いただけたと思いますが……」


 円卓メンサについたマメルクスは真向かいに座るルード、そして左隣に座るフローリアにそれぞれ視線をやりつつ問いかける。

 今日の席は現地の様子を知りたいというフローリアの要請によって設けられたものだったが、同時に現地までの転移魔法での移動ルートをいち早く開拓するためにルードの派遣を認めてもらいたいというマメルクスの求めと、ムセイオンの外へ自由に出かけてみたいというルードの希望もあってのことでもあった。その点、昼の茶会は三者のそれぞれの要求を十分に満たすものであったことは間違いない。フローリアは現地の様子について過不足なく知ることができたし、大グナエウシアグナエウシア・マイヨルの話を聞いたフローリアの様子を見る限り現地が十分に発展し整備された都市であって未開の蛮地などではなく、ルードを派遣することに何の問題もないことをアピールできたという確信をマメルクスもルードも共有している。実際、ルードは一見いつものポーカーフェイスを保っているようではあったが、マメルクスの目にはルードの目が希望の輝きを宿しているように見えた。


「そうね……」


 マメルクスの問いかけに素っ気なく応えながら、フローリアは目の前に置かれた茶碗ポクルムに手を伸ばす。今回の茶碗は香茶用として用いられる口の大きさと深さが等しい定番の物とは異なり、口が広くて底の浅い酒杯キュリクスのような形状をしていた。そしてその中に満たされた香茶も通常の薄い黄色ではなく、浅いはずの茶碗の底が見えないくらいに黒く濁っている。茶葉が黒っぽくなるまで焙煎ばいせんしたもので、春の新茶特有の瑞々しい香りよりもスッキリした喉越しを味わうためのお茶で、食欲を増進し消化を援ける効果があると言われ、食前食中食後に出されるものだった。

 フローリアはその茶碗を手元に引き寄せると、円卓のやや中央寄りに置かれた平皿から小さな花の形をした飴細工をつまみ上げて自分の香茶へポチャンと落とした。香茶の水面から顔を出す飴を指先でつついてもてあそぶと、飴でできた花は急速に溶けて形を崩していく。

 その間、フローリアはもちろん、ルードもマメルクスも一言も言葉を発することなくフローリアの次の言葉をジッと待っていた。その様子をフローリアの向かいから見ていたロックスも同じように飴細工を手に取り、自分の茶碗に落として静かにかき回す。

 不思議な緊張感に満ちた時間が音も無く流れ、香茶の香りにも甘みが加わってきたころ、フローリアは茶碗を手に取って一口、音もたてずに飲んだ。


「蛮地などではないことはわかりました。

 一昨年の火山災害の後、領主も領民も共に助け合って生活を立て直そうとしている話は感動すら覚えましたわ。」


 口元から下ろした茶碗を円卓の上で両手で包み込むように持ちながらフローリアが落ち着いた口調でそう言うと、その向こう側で母の顔を見ていたルードが興奮したように眉を持ち上げながら息をスゥーッと吸い込み、身体を伸びあがらせる。

 だが、フローリアの次の一言はルードの期待を裏切るものだった。


「でも、ハン支援軍アウクシリア・ハンの叛乱についてはご存じなかったようね?」


 そう言いながらフローリアは姿勢を変えることなく視線だけをマメルクスに向ける。その目はマメルクスを責めているようであった。


「子爵令嬢が話してくださった現地が安定的に発展している様子は叛乱が起きる前の話です。

 人口数万の地方都市……それも半数以上が避難民という街で一つの軍団が本気で暴れたのだとしたら、その被害は計り知れませんわ。」


「それは仕方がありません大聖母グランディス・マグナ・マテル様。

 叛乱の第一報は降臨の第一報と共に昨日、レーマについたばかりなのです。

 子爵令嬢が知っているはずはありません。」


 魔法を除く長距離通信手段としては世界最速を誇っている帝国の郵便システムタベラーリウスで昨日届いたばかりの情報を一介の地方領主の娘が掴んでいるとしたら、それはそれで大問題だ。マメルクスからすれば難癖をつけられたようなものである。


「それに軍団が暴れたと言ってもハン支援軍アウクシリア・ハンはゴブリンから成る脆弱な部隊です。戦力も現地で消耗しきっていて、残存兵力は一個大隊コホルスほどしかありません。」


 元々、強力な南蛮軍にぶつけることでり潰して全滅させるつもりの部隊である。たびたび要望のあった戦力補充も意図してほとんど認めておらず、調消耗し続けた彼らが反旗をひるがえしたところでそれほど影響があるとは思えない。


「現に、現地領主の報告にも叛乱軍は船で逃亡したとあったではありませんか?」


 何を詰らないことを……とばかりにマメルクスは両手を広が手見せる。


「私、昨日帰ってからムセイオンでハン支援軍アウクシリア・ハンについて少し調べましたのよ?」


 フローリアは再び飴細工に手を伸ばし、香茶にもう一つ加えながら言った。


「ゴブリンとは言っても、ダイアウルフを乗りこなす騎馬民族だそうですね。

 ハン族を平定し、ハンニア属州を版図に収めるため、レーマは百万もの兵力を投入しなければならなかったんですって?」


 それは歴史的事実だった。ハンニア地方に広がる広大なアーカヂ平原を縦横に駆けまわるハン騎兵の機動力は圧倒的で、レーマ軍の騎兵エクィテスをもってしても対処不能だった。ハン族の駆るダイアウルフの走力は馬と大差ないのだが、草原を逃げ回るために進化して脚力を得た馬と違い、狩るために進化して脚力を得たダイアウルフは走力は同じでも性質が全く異なる。馬には出来ないがダイアウルフは背の高い草に隠れて気配を消しながら移動できるのだ。

 その特性は攻撃する際にも逃げる際にもいかんなく発揮され、こちらが気づかぬ間にどこからともなく近寄っては奇襲を仕掛け、そしてこちらが戦力を整えて反撃しようとするときには既に姿を消している。追撃しようにも姿も足音も声もなく、足跡を頼りに無理に深追いすると容赦のない伏撃ふくげきう。アーカヂ平原周辺の地域で略奪を繰り返すハン族の被害は数百年前から断続的に繰り返されていたのだが、神出鬼没しんしゅつきぼつを極める彼らにレーマ軍は長い間一方的に翻弄ほんろうされるばかりだったのだ。


 しかし、そのハン族の栄光も永遠には続かない。意を決したレーマ軍はこれまでアーカヂ平原に投入された中で最大の戦力を一挙に送り込んだのだ。

 いくらダイアウルフ騎兵が強力だからといっても、その戦力は無限ではない。アーカヂ平原で生産可能な食料では、大喰らいのダイアウルフを養える数には限りがある。実際、ダイアウルフ騎兵の数は歴史上もっとも多い時でも一万に達したことは無いと言われていた。ならば、ハン族が機動力でレーマこちらを圧倒するならレーマこちらは数で圧倒すればよい……空前絶後の包囲殲滅戦はそんなバカげた発想を現実に移した結果、実現することとなった。

 アーカヂ平原がどれだけ広大でダイアウルフ騎兵がどれだけ機動力に優れようとも、遊牧生活を送るハン族のキャンプ自体は早く移動できるわけではない。それに放牧生活を送る以上は草をある程度消費したら別の地域に……草がまだ生い茂っている地域に移動するしかないのだ。レーマ軍はハン族のダイアウルフ騎兵に対しては防御に徹しつつ、ハン族のキャンプを一つずつ追跡し、文字通り兵士による人垣ひとがきを作って包囲していった。包囲されたハン族は恭順するか、それとも殲滅されるかのどちらかを選ぶしかなかった。

 最終的にハン族はレーマ帝国に従属する他なくなる……その、確かにやり方としては確実ではあるが実施された規模からすると馬鹿げていると呆れかえるしかないローラー作戦に投入されたのが、百万ものレーマ軍だったのである。その兵力数はアヴァロンニア攻略に投入された戦力の二倍を優に超えている。


 とまれ、レーマ軍が一つの作戦に百万もの兵力を投入したのはハン族が最初で最後である。それだけ大兵力を投入しなければならなかった相手が脆弱だというのは少し無理があるのでは?……フローリアはそう言っているのである。

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