第794話 雄牛の正体

統一歴九十九年五月十日、午後 ‐ ネラーティウス邸・大浴場バルネウム/レーマ



けいは……賛成するものだと思っていたよ……」


 コルネイルス・コルウス・アルウィナが湯舟に身を沈め「ぶふぅ~~っ」と息をつくと、先に湯に浸かっていたピウス・ネラーティウス・アハーラが話しかけてきた。老人特有の落ち着いた声だったが、街の公衆浴場テルマエにも決して引けを取らない巨大な風呂場バルネウムのドーム状の天井に反響し、やけに大きく響いて聞こえる。


 ネラーティウス家は先祖代々、元老院議員セナートルを排出する名門上級貴族パトリキである。ピウス本人も元老院議員としての経歴は長く、現役議員の中では文句なしに最長だ。他の元老院議員たちの信用も厚く、元老院セナートスの議事進行をつかさど主席元老院議員プリンケプス・セナートスとしては歴代でも最長の経歴を誇っており、皇族以外の貴族が得られる爵位としては最高位の侯爵マルキオーを叙爵している。そんな彼であるから財産も権勢も当然それなりに持っており、領地を持たない法貴族の中ではトップクラスであることは疑いようがない。

 そんなピウスの一番の趣味は風呂だった。以前なら読書、特に若い頃は歴史研究に没頭していた時期もあったが、議員になってからは地位が上がるにつれて徐々にストレスからの癒しを求めるようになり、本格的に年老いてくると目が弱くなり字を読むのがつらくなってきたこともあって、今では風呂だけに没頭するようになっていた。屋敷ドムス別荘ウィラの風呂場を順番に定期的に増改築しては、そこで一人でくつろいで楽しんでいる。

 コルネイルスが招かれたこの宮殿のような風呂場も、一昨年大改装を終えたばかりのピウスの趣味の成果の一つだった。ちなみにこの屋敷にはもう一つ同じくらいの規模の風呂場があり、そっちは現在改築中である。


「迷いましたよ、もちろんね。」


 両手でお湯を掬い、それで顔を洗ったコルネイルスが答える。


「ですが、彼は執政官コンスルだ。

 今の守旧派われわれの取りまとめ役でもある。

 軽々しくレーマを離れるわけにはいかんでしょう。」


 言いながらコルネイルスは湯舟の縁に縋るように背中を預け、天井を見上げた。すると一瞬、身体が浮き上がりそうになって慌ててバランスをとる。そのせいでバシャッとお湯が波打ち、その音も天井に反響した。


「どれだけ短く見積もっても、半年は離れるんですよ!?」


「ふふふ……」


 なじるように溢すコルネイルスの不平不満にピウスは笑みで返した。


「しかし、反対もしきれなかった……」


 今度はピウスが両手でお湯を掬って顔に浴びる。コルネイルスは相変わらずバランスをとることに苦労しながら、チラリと視線だけをピウスに向ける。


「ええ、迷いましたからね。

 今でも迷っていますとも。」


 二人が話しているのは昼間、元老院議事堂クリア・クレメンティアで話し合っていた降臨者に派遣する代表者の人選の件だ。守旧派の重鎮であるコルネイルスは自分の影響下にある人物を選び、派遣するつもりでいた。が、思いもかけず現職執政官のフースス・タウルス・アヴァロニクスが立候補してしまったのだ。

 フーススはコルネイルスが言ったように、今現在の元老院守旧派の中心人物である。影響力で言えばコルネイルスの方が上だが、求心力の強さではフーススの方が確実に上だ。パワーがあり、市民の人気も高い。コルネイルスも自分が先頭に立つよりも、フーススを立てた方が全体がまとまることを知っているから、フーススをリーダーとして担ぎ上げている。それまで守旧派と皇帝派が拮抗、あるいは守旧派がやや不利だった元老院での勢力図を塗り替え、守旧派優勢の状況をもたらしたのは間違いなくフーススがいたからこそだろう。

 そのフーススが降臨者に直接会いに行くと言う……帝都レーマからアルビオンニア属州まで片道二月半から三か月はかかると言われている。行けば確実に半年は帰ってこれない。現在の守旧派優勢の原動力となっているフーススが半年も帝都レーマを、元老院を留守にするのである。フーススという神輿を担ぐことで守旧派全体を下支えしてきたという自負があるコルネイルスとしては神輿に逃げられるわけにはいかないのだ。


「だが、得るものは大きい。そうだろう?」


 ピウスは湯舟の縁を枕にするように天井を見上げた。陽が傾いてきたため、ドーム状の天井が酷く薄暗くなってきていた。が、そのドーム状の天井は暗くなるにつれて、あちらこちらからキラキラと小さく光を放ち始める。天井には貝殻や真珠が埋め込まれており、それが下からの光を反射するのだ。

 ピウスの視線を追って天井の装飾に気づいたコルネイルスも湯舟の縁を枕にし、身体はもう浮かぶに任せることにした。


「ええ、大きいです。

 元老院セナートスの代表者としては執政官コンスル主席元老院議員プリンケプス・セナートスが最高だ。それ以上の肩書はないのですからね。

 皇帝インペラートルはレーマから出れないんだ。

 ここで執政官コンスルが行ったとなれば、降臨者に与える影響は大きい。」


 浮かび上がる身体を湯舟の縁に乗せた後頭部だけで支えながら見上げる天井は満点の星空のようだった。実際、天井に埋め込まれた貝殻や真珠は星座を描くようにデザインされており、まるで自分が空に浮かんでいるかのような不思議な感覚に襲われる。


「おまけに行くのはタウルス卿だ。

 誰が相手でも交渉は確実にまとめてくるだろう。

 守旧派われわれの伸張は間違いないと思わんかね?」


 ピウスの声はドーム状の天井で反響することで、あらゆる方向から同時に話されているような不思議な響きを持ってコルネイルスの耳朶をくすぐる。それはまるで宇宙そのものの声であるかのように、コルネイルスの心の中にまで直接届くかのようだ。


「果たしてそうでしょうか?」


 コルネイルスは誰に問うでもなく疑問を口にした。ピウスはコルネイルスには答えず、顔をわずかに傾けて視線でコルネイルスを捉える。コルネイルスは天井を凝視したままジッと考え込んでいるようだった。


「失敗すると……言うのかね?」


「いや……」


 短く答えながら、コルネイルスは両手で顔を拭う。

 ピウスの言いたいことはコルネイルスも分かっている。フーススの政治家としての実力を疑う要素はない。交渉が失敗するということは無いだろう。失敗するとしたらそれはフーススのせいではない。フーススが失敗するということは、他の誰がやっても失敗するということだ。フーススが行けば交渉は成功する……問題はその後だ。


 その功績で伸張するのは、本当に守旧派われわれなのか?


 コルネイルス自身、自分がそんな疑問を持つとは思っていなかった。フーススは執政官選挙に出る際、コルネイルスに支援を求めて来た。それ以来……いや、それよりも少し前あたりからフーススはコルネイルスに対して一目置いているような態度を取り、常にコルネイルスを立てるようになっていた。そしてフーススは常にコルネイルスの意に添うように動いている。その状況は今でもずっと続いていた。それゆえか、フーススを神輿として担いではいても守旧派の実質的な中心人物は自分自身だ……コルネイルスはそう信じ込んでいた。


 だが、果たして本当にそうなのだろうか?


 疑念が生まれたのはついさっき……フーススが降臨者への使者として立候補した時からだ。それはコルネイルスの予想外の行動だった。

 フーススはコルネイルスが自身の領袖の中から人選しようとしていたことぐらい、確実に察していたはずだ。もちろん、フースス自身をコルネイルスの領袖と考えれば必ずしもコルネイルスの意に反する行動だったとは言い切れないわけだが、だがフーススはコルネイルスの驚き様からフーススは候補の対象外だったことに気づけたはずだった。なのに、強硬に自分が行くと説き続けた。

 最終的にはピウスが介入して後日、日を改めて決めようということになったのだが、それが無ければフーススとコルネイルスは決定的に対立してしまったかもしれない。


 タウルスはワシの傘下に入ったものだと思っていた。

 あの「レーマの猛牛タウルス・レーマエ」がワシの手駒になった……そう思っていた。

 だが、今日改めて気づいたがそうじゃない。

 タウルスやつは多分、ワシを利用しているのだ。

 それ自体はお互いさまではあるが、奴はワシにそのことを


 コルネイルスは頭上に広がる人工の星空を見上げながら低く呻いた。


 降臨者と交渉したという功績はタウルスのものだ。

 守旧派のものではないし、ワシのものにもならん。

 だとしたら、これで権勢を伸ばすのは……


 コルネイルスの視線は偶然にも、天井に再現された牡牛座に留まった。それは美しいエウローペーに近づくために大神ゼウスが化けた白い雄牛……コルネイルスはタウルスに化かされていたのかもしれないという気づきを確信へと高めた。

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