アルトリウシアへの使者
第786話 フロンティーヌス・リガーリウス・レマヌス
統一歴九十九年五月十日、昼 ‐
彼は怠惰な男だった。代々、
次男や三男の場合はまだ長男の予備としての役割が切実に求められるため、それなりに教育にも力を入れてもらえる。そして、家を継がせるつもりもないくせに厳しい教育を受けさせられる彼らは、そうであるからこそ実家に反発し、自らの才覚で身を立ててやろうという意欲を育みやすい傾向にあった。だが彼は四男だった。
上の兄三人がいずれも出来が良かったために、四男の彼に何がしかのことを期待する者はおらず、教育も兄たちほど厳しくはなかった。よく言えばノビノビと育てられたといって良いのだろうが、悪く言えばかなり手を抜かれたとも言える。
小さいころから研鑽を強要されることもなく、趣味に没頭する自由が与えられていた。父は彼に対して無関心で、兄たちは自分たちが厳しくされた分だけ彼にはむしろ優しく接してくれた。欲しい物は大抵与えられたし、大事な何かを奪われるようなこともなかった。要は甘やかされ続けたのだ。
その結果、彼は父や兄たちと違い随分とおっとりした性格になった。柔和ではあるが意欲に乏しく、面倒ごとは人に任せ、自分はなるべく楽をする。仕事よりも趣味を優先し、人付き合いよりも芸術に興じることを好む趣味人に育った。
将来はどうするかって?……そんなことは考えもしない。家が金持ちなんだから自分一人の食い
仮に家を追い出されることになったとしても彼は教養のある趣味人だ。どこかの
そんな彼が何故、家を継いで元老院議員などになったのかと言えば、レーマ大火が原因だった。その日ちょうど友人たちと
当主はおろか彼以外の跡継ぎ全員も失った彼の実家は、もはや彼が継ぐしかなかった。
降って湧いたような幸福……はなはだ不謹慎ではあるが、他の貴族の次男や三男ならばそう考えるかもしれない。身一つで追い出されるはずの家に残りつづける権利を得られたのだから無理もないだろう。しかし、彼にとってはそうでもなかった。
彼は働く気など持ったことも無かったし、家から追い出されるという危機感も、己の才覚で身を立ててやろうという野心も持ったことが無かった。生涯、実家に甘え続けるつもりでいた彼にとって、その実家を自ら切り盛りせねばならなくなるなんてとんでもない悪夢だったのだ。
政治?そんなの知らないよ……
仕事?それって誰かやってくれるんじゃないの?
そんな彼を当主に据えねばならなくなった家人たちこそ悪夢だっただろう。
今は亡き先代当主はテキパキと指示を出し、家人たちは安心して働くことができた。ところが彼はすべて誰かが考えてやってくれるものだと思い込んでいる。何か問題があったとしても誰かが片づけてくれるのをただ待ち続けるだけだ。仮に誰かが彼に何か指示を求めたとしても……
自慢じゃないが僕は何も知らないんだぞ?
知らないのに判断なんかできるわけないじゃないか!
知ってる人は誰かいないのか?
僕に助言するのもお前たちの仕事のうちだろ!?
……という具合だ。
確かに彼の言うことも一理ある。彼は政治のことも実家のことも何一つ教わらずに育ったのだから何かを決めることなど出来るわけはない。だがそれは家人たちも同じだった。先代当主を支えて政治や実家の切り盛りをしていた家人たちは、先代当主と共にレーマ大火の炎に焼かれて残っていなかったのだ。
今、彼の下で働いている家人たちは全員が新しく雇い入れた者か、あるいはレーマの外に所有している別荘や荘園から掻き集められた者たちだった。家のことどころかレーマの事情すらよく分かっていない者たちさえいた。
当主も家人たちもそろって無能に入れ替わり、混乱を極めたリガーリウス・レマヌス家が曲がりなりにも復興を遂げたのは、ひとえに先代当主の人脈のおかげだった。元老院議員としてそれなりの地位を築いていた彼の父は様々な人たちに恩を売っており、頼りになる
そのことについて先代様はこうしておられました。
先代様はその方とお付き合いがありましたから、その件に関してはその方に相談されるといいでしょう。
先代様はあの者のことを信用しておられませんでした。悪いことは言いませんから、あの者とは距離を置かれたほうがいいでしょう。
あの荘園を任されている彼は先代様が解放された
自分の身の回りの世話をする者を除いて家の使用人ことをほとんど知らなかった彼は、そうであるがゆえに自分よりも詳しく知っている被保護民たちの助言を素直に聞き入れた。彼の父は人を見る目があったのだろう、助言者たちは何も知らぬ彼の無防備・不用心につけ込んで悪さを働くようなこともなく、彼は家内の運営と、父や兄たちの事業を無事に引き継ぎ、運営していく体制を短期間のうちに何とか再構築することができていた。
家の中のことはそれで何とかなった。父や兄の被保護民たちもほとんどが離散することなく、そのまま彼を新たな
だが問題は父の本業だった政治活動である。
選挙に勝つだけなら、被保護民たちの協力で何とかなるだろう。それくらい彼が受け継いだ被保護民たちは数も質も高かった。だが政治家としてやっていくには選挙に勝ちさえすればいいというわけではない。
どの国であっても
そして人間は一度手に入れた物は手放したがらない生き物である。
職権を利用し、利権を手にし、そしてそれを手放さないで確保し続けるために、帝国きっての有力者たちが
彼が元老院議員になったところで、他の
当然である。何故なら親戚たちも被保護民たちも、彼が父の跡を継いで政治家としてやっていくであろうと信じているからこそ、彼を援けていたのだ。彼にとって非常に迷惑なことだが、彼らの期待と信用と恩と義理とが彼を絶望が待っている魔窟へ飛び込まざるを得なくしてしまう。
が、そこでも彼は父の人脈に助けられることになる。元老院でそれなりの地位を築いていた彼の父は、それなりに多くの議員たちに貸しを作っていた。そして少なからぬ議員たちが、彼を陰に日向に援けてくれたのである。そしてその筆頭と言えるのが当時の
フーススにしても決して故人への義理立てのみから彼を援けたわけではない。当時造営長官として大火に見舞われた帝都レーマの復旧と復興を行わねばならなかったフーススはあーだこーだと好き勝手言ってくる外野を黙らせるために、特に焼け野原になった被災地区の再開発事業に何とか割り込もうとたくらむ元老院議員たちを黙らせるために、フーススは自分が如何にうまく仕事をこなしているかをアピールする必要性に迫られていた。そのフーススが目に着けたのが彼だったのである。
彼はレーマ大火によって住む家も家族も喪っていた。しかも大火によって死んだ彼の父は元老院議員だった。復旧復興に介入しようとしてくる元老院議員たちにとってよく見知った同僚の家の再興……それは元老院議員たちに冷静さを取り戻させ、強引な介入を思いとどまらせるには格好の旗印だったのだ。
彼自身はそのことは後に知ることになるのだが、フーススにとってのメリットを見込んでいたからこその打算的な支援だったとはいえ、彼がフーススに援けられたのは事実である。フーススの援助がなければ、彼は元老院議員としてやっていくことなど出来なかっただろう。最初の選挙には勝てても、次の選挙には出ることすら難しかったかもしれない。フーススは彼にとって彼の一族の政治生命の恩人であり、消して頭のあがらない人物になってしまった。
そして今日、彼はその逆らうことのできないフーススから呼び出しを受けていた。もちろん断ることなど出来はしない。何の用事かは教えられていなかったが、予想は付いている。たぶん間違いないだろう。
昨日から急に広まり始めた、アルビオンニア属州で降臨が起きたという噂……それに関することに違いない。彼には他に心当たりなど一つとしてありはしない。アルビオンニアで起きた降臨で何故彼が呼び出されるのか……それは彼の秘書が教えてくれた。
フロンティーヌス・リガーリウス・レマヌス……彼は秘書に言われるまですっかり忘れていたのだが、彼はアルビオンニア属州の
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