第785話 茶会の後

統一歴九十九年五月十日、午後 ‐ 『黄金宮』ドムス・アウレア/レーマ



 でも最初に見た時はびっくりしたわ。ホブゴブリンだって聞いていたのに現れたのはどう見てもコボルトなんだもの。たまには驚かせてみたいと思いましてね。本当にホブゴブリンなの?母はコボルトですけど父はホブゴブリンなんです。ハーフコボルトなのね?コボルトをご覧になったことがおありなのですか大聖母グランディス・マグナ・マテル様?ええ、まだ冒険者をしていた時よ。その時は大災害は起こっていたけど、まだ大戦争は始まってなかったの。当時はコボルトなんてほとんど絶滅したんだと思われてたわ。今でも希少ですよ。レーマを訪れたハーフコボルトの上級貴族パトリキは彼女が二人目で、純潔のコボルトの貴族はまだいません。まあ、じゃあ他にもいらっしゃるのね?私の兄のことですわ大聖母グランディス・マグナ・マテル様。レーマに留学していたことがあったのです。初めてのコボルトの上級貴族パトリキということで随分と噂になったものですよ。陛下には兄を御記憶であらせられましたか?無論だとも、『白銀のアルトリウス』アルジェントゥム・アルトリウスの名を聞いたことの無いレーマ市民は居ないだろう。まあ、アルトリウスが聞いたらきっと喜びます。そんなに有名でしたの?ええ、小説や演劇にもなりましたよ。君は「ジェントル・ビーストミティス・ベスティア」を見たかね子爵令嬢ウィケコミティス・フィリア?はい、レーマに来てから拝見いたしました。何、アルビオンニアでは見なかったのか?ええ、アルトリウスはきっと恥ずかしくて知られたくなかったのでしょう、ちっとも教えてくださいませんでした。何ですかそれは?辺境の貴族と平民プレブスの娘が恋に落ちるという愚にもつかぬ物語でアルジェントゥスという貴族が主人公なのですが、それが彼女の兄にそっくりなのです。まあ!それをご覧になられたの子爵令嬢ウィケコミティス・フィリア?はい、レーマこちらに来てから会う人会う人みんなに見るように勧められるんですもの。でも見ていて本当にアルトリウスのことかと思いましたわ。


 レーマ皇帝インペラートル・レーマエマメルクス・インペラートル・カエサル・アウグストゥス・クレメンティウス・ミノールに招待されて訪れた宮廷ドムスで思いもかけずに同席することになった大聖母グランディス・マグナ・マテルフローリア・ロリコンベイト・ミルフ、その息子ルード・ミルフ二世、そしてフローリアの付き人でムセイオンの聖貴族コンセクラータロックス・ネックビアード……彼らと自己紹介をしあった後はそのような、それこそ愚にもつかない話で半時間ほども盛り上がり、それから話題はグナエウシア・アヴァロニア・アルトリウシア・マイヨルの兄アルトリウス・アヴァロニウス・アルトリウシウス子爵公子へ移り、そこから本来の目的であるアルトリウシアの様子へと移っていった。

 おそらく、愚にもつかぬ世間話で盛り上がったのは大グナエウシアグナエウシア・マイヨルの緊張を解きほぐすためにフローリアやマメルクスが会話を演出していった結果だろう。大グナエウシアでもその程度のことは察しがついた。社交界での経験が豊富な彼らにしてみればそれくらいの話術はお手の物であるに違いない。彼らは大グナエウシアからスムーズに話を聞きだすためにそのような手管を使ったわけだが、大グナエウシアとしても領地と家族を守らなければと意気込んでいたことを考えれば余計だったかもしれない。

 ともかく、大グナエウシアが記憶している限りのことは全て話した。それでも誰も予想していなかったほど話は長引き、場が御開きになったのは景色が黄色味がかり始めた時間になってのことだった。もしも大グナエウシアが一人前の大人の貴族だったらそのまま晩餐ケーナへ招待されていただろうが、大グナエウシアは未婚の女性な上に未成年の留学生だったこともあってこの日はそのまま『黄金宮』ドムス・アウレアを後にすることとなる。


「お嬢様!」


 表面上は泰然自若たいぜんじじゃくといった姿勢を保ちながら仕える主人を待ち続けていたタネは庭園ペリスティリウムから戻ってきた大グナエウシアの姿を見た途端、内心で募らせていた心配が一気にせきを切ったかのように泣きそうな顔になって駆け寄ってきた。大グナエウシアは大グナエウシアでタネの顔を目にした途端、緊張の糸が切れたかのようにハァァ~~~と盛大に息を吐いて全身を脱力させ、駆け寄ってきたタネに抱き着いてしまう。


「お嬢様!お嬢様大丈夫ですか?!」


「ああタネ、大丈夫よ。

 すごく緊張したけど、安心して……私、凄い人と話したのよ。

 凄い方にお逢いしたの!」


「あああお嬢様、そうでしょうとも!そうでしょうとも!

 タネは信じてましたよ。信じて待ってました!」


 信じていたのなら何故目に涙を浮かべているのか?などと野暮な疑問をもてあそぶほど大グナエウシアは意地悪でも無かったし余裕があったわけでもなかった。とにかく一仕事を終えて肩の荷が下りたような安堵感でいっぱいだったのだ。


「帰りましょう、タネ。

 今日はもう疲れちゃったわ。」


「はい、それがようございます。

 さあ参りましょう。参りましょう。」


 抱擁を交わし終えた二人はそう言うと連れ立って歩きだした。屋敷ドムスまでは来た時と同様、皇帝の御料車が護衛付きで用意されており、アルトリウシア子爵家のレーマ屋敷までそのまま無事に送り届けられることだろう。

 車回しから出ていく車列を見下ろせる二階の窓から大グナエウシアを乗せた御料車が走り出していく様子を眺め、マメルクスは傍らに控える部下に話しかけた。


「これからしばらくの間、子爵令嬢に人を付けろ。」


「警護にございますか?」


 御料車が正門ポルタ・プラエトーリアの向こうへ伸びる「聖なる道ウィア・サクラ」を降っていくのを見届けるとマメルクスは振り返り、侍従の差し出す盆に乗せられた酒杯キュリクスに手を伸ばす。


「いや、警護は必要あるまい。

 なにしおう、武門のほまれ高きアヴァロニウス家だ。」


「となると、監視……にございますか?」


 受け取った酒杯を満たすワインを口元へ運ぶと、貴腐ワインの甘ったるい香りが鼻孔をくすぐった。

 この世界ヴァーチャリアではワインを長期保存できる容器が普及していない。このため、純粋にブドウの果汁だけで作られたワインは秋から冬にかけてしか飲むことはできない。それ以外の季節で飲もうとしても劣化して色も味も香りも悪くなってしまうのだ。

 そこで、春や夏、あるいは初秋にワインを飲むためにはそれ相応の工夫が必要になる。一つは香辛料スパイス香草ハーブなど添加して味や香りを誤魔化す方法だ。香辛料も香草もそれなりに値が張るので、劣化したワインを曲がりなりにも飲めるようにしようと思うとそれなりに金がかかる。このため、香辛料や香草を大量に入れて味や香りを整えたワインは「ギリシャ風グラエクム」などと呼ばれ珍重されており、一大ジャンルを形成している。

 もう一つの方法は収穫したブドウをそのままワインにするのではなく、一旦干しブドウにして保存しておき、それを原料にして晩秋から初夏にかけて季節をずらしてワインを醸造する方法である。香辛料や香草に頼ることなくブドウ本来の味と香りが楽しめるため、こちらはこちらで人気があった。ただ、通常の方法で醸造するのに比べて数倍もの手間がかかるうえに、同じ量のブドウから作れるワインの量自体も少ないとあって高価にならざるを得ない。マメルクスが今、舌を湿らせているのはさらにカビを使って貴腐化きふかさせた干しブドウを原料としたもので、庶民プレブスでは一生かけてもお目にかかれない超高級極甘口ワインであった。


「そうだ。

 ただ、監視するのは子爵令嬢ではない……わかるな?」


 マメルクスの目は酒杯を満たした黄金色に輝くワインへ注がれていたが、彼の意識はワインのことなどまるで関心が無いかのように他へ向けられていた。口の中を満たす強烈な甘みも、鼻を抜けていく芳醇な香りも、帝国で味わうことのできるすべてのワインの中で最高水準のものであったにもかかわらず、まるで価値の無いもののようにマメルクスの意識をとらえることができない。


「子爵令嬢に接触して来る者たち……に、ございますな?」


「そうだ。」


 もう一口、ワインを口に含むとマメルクスはまだ半分以上残っている酒杯を侍従の捧げ持つ盆へ戻した。


「それから、降臨の噂を流した者が誰か確認したい。

 おそらく牛野郎タウルスか、他の守旧派の誰かだとは思うが……」


 昨日、降臨の情報を秘匿するようマメルクスは元老院セナートスへ要請を出した。昨日『黄金宮』を訪れた守旧派議員全員に使者を立て、了解の返事は受け取っている。にもかかわらず大グナエウシアは降臨のことを知っていた。しかも彼女はアルビオンニアからの手紙等独自の情報源を持っていたわけではなく、街の噂を聞いたと言っていた。

 これはもう、議員の誰かが意図的に情報を漏らしたとしか思えない。何のために?……もちろんマメルクスの失策を誘うためだ。


 百年ぶりの降臨と言う世界の危機さえ政争に利用する気か……あいつらめ!


 マメルクスは苦々し気に視線を窓の外へ戻す。その視線の先。御料車の消えた「聖なる道」の向こう側には、元老院議事堂クリア・クレメンティアの屋根がわずかに見えていた。


「心得ました。」


 部下はそう言うとマメルクスの前を辞し、足音もなく部屋から出ていく。おそらく、しっぽを掴むのは難しいだろう。帝都レーマは彼らの領域だ。

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