第784話 仕切り直し

統一歴九十九年五月十日、昼 ‐ 『黄金宮』ドムス・アウレア庭園ペリスティリウム/レーマ



 たのしそうに微笑ほほえ大聖母グランディス・マグナ・マテルフローリア・ロリコンベイト・ミルフ本人に悪気はないのだが、事情を知っていた周囲の者の目にはたちの悪い悪戯いたずらを楽しんでいるようにしか見えない。最初は笑っていたルード・ミルフ二世をはじめ、マメルクス・インペラートル・カエサル・アウグストゥス・クレメンティウス・ミノールもロックス・ネックビアードも今は必死に謝る子爵令嬢グナエウシア・アヴァロニア・アルトリウシア・マイヨルの姿が気の毒に思えて仕方が無いくらいだった。


「いえっ!そんな、大聖母グランディス・マグナ・マテル様に……

 あああ、申し訳ありません。

 私、今の今まで大聖母グランディス・マグナ・マテル様だって気づけませんでした!!

 どうか、どうかご容赦を!!」


 レーマ帝国の貴族には大きく二つに分けられる。上級貴族パトリキ下級貴族ノビレスだ。

 下級貴族は特に固定された身分というわけではない。公的な役職についている官僚や役人の他、何かの商売で成功した金持ちや、戦で活躍して有名になった人物などが該当し、貴族としての特権や称号などは必ずしも持っているとは限らず、金や権力を持っている間は貴族のように見做みなされるが、没落すれば自動的にただの平民プレブスに戻ってしまう。対して上級貴族は制度的に固定された身分だ。財力などは関係なく、爵位等何らかの称号を持っており、それゆえに没落しても一定の権威であり続けることができる。

 そうした上級貴族に対して「気づけなかった」は本来なら侮辱に近い。真に高貴な人物は内から高貴さがにじみ出るものだ……それが、特に実力の有無にかかわりなく身分制度の上位に居座ることが出来ている上級貴族が権威であり続けるための方便となっている。にもかかわらず、当の領主貴族パトリキが自分よりさらに高貴な聖貴族コンセクラトゥムというのは、自らを上級貴族たらしめている身分制度を自ら否定しているに等しい愚行と言えるだろう。あってはならないミス……大グナエウシアが必死に詫びるのも当然だった。

 しかしわずか十四歳の娘にここまで必死に謝らさせたとなると、さすがのフローリアも気が引けてくる。次第に笑みをこわばらせながら大グナエウシアを慰めた。


「いえ、ほんとに気にしないで。

 貴女が気づけなかったのは魔法の効果よ。

 だから気づけなくて当然なの。」


「え……魔法?」


 ようやく顔を上げた大グナエウシアの目は涙で潤み切っており、フローリアも内心で気まずさを感じ始める。


「そうよ、魔法でね。私たちの正体に気づけないようにしてたの。

 じゃないとホラ、大騒ぎになっちゃうじゃない?

 私たち、本当はの、?」


 大グナエウシアを安心させるべく、フローリアは笑みを浮かべて両手を胸の前で合掌するように合わせながら言うと、大グナエウシアはコクンと大きくうなずいた。

 それを見て一区切りついたと判断したルードが隣のロックスに目配せすると、ロックスは椅子から立ち上がって大グナエウシアに寄り添い声をかける。


「さあ、どうか椅子にお戻りください子爵令嬢ウィケコミティス・フィリア。」


「はい、ありがとうございます聖貴族コンセクラータ様。」


 この人も大聖母様やルード・ミルフ様と同席するくらいなんだから凄い人なんだろうな……肩に優しく手を添えてくれたロックスに対し、そんなおそれに近い物を感じながら大グナエウシアは立ち上がり、勧められるままに椅子に腰をおろした。しかし、未だに生きた心地がしないというのが正直なところである。

 ロックスが席に戻ったところでフローリアが苦笑いを浮かべながら話を戻す。


「さて、では改めて紹介しましょうか。」


 大グナエウシアは目に浮かんだ涙を指で拭いながら「お願いします」と答えた。


「では、もう察しているでしょうけど、こちらは私の息子のルード・ミルフよ。」


 紹介されたルードは表情を消し、いつもの余所行きの顔ポーカーフェイスに戻って小さく会釈する。大グナエウシアは対照的に姿勢を正して大きく頭を下げた。


「続いてそちらは、今回の付き人をしてもらっているの……ロックス・ネックビアード嬢よ。」


 続けてフローリアは大グナエウシアの左隣の少女を紹介する。先ほど、大グナエウシアが席へ戻るのを助けてくれた彼女がやはり小さく会釈する。


 ムセイオンでは元々、聖貴族が交代でフローリアの付き人をやっていて昨日はたまたまロックスだった。付き人として細々とした雑用をしていたところでレーマから『魔法の鏡』スペクルム・マギクスで緊急の報せが来たことを知り、てっきり行方不明になっている脱走者たちが見つかったのかと思って『鏡の間』の外で待っていたら、フローリアが転移魔法『ゲート』を使ってどこかへ行ったので慌てて自分も飛び込んでしまった……その結果、《暗黒騎士ダーク・ナイト》が降臨したという話を知るに至ってしまう。

 降臨が起きたというだけでも十分問題なのだが、本人ではないとはいえ《暗黒騎士》に近しい人物が降臨したとなると只の降臨とは次元の違う大問題になってしまう。何せムセイオンに収容されている聖貴族の多くは《暗黒騎士》に親や祖父母を殺された者たちばかりだからだ。《暗黒騎士》が降臨したと知れば、親の仇を討とうとムセイオンを飛び出してしまう者も少なからず出てしまうだろう。そのような事態を防ぐために降臨者の素性については秘密にしなければならない。

 幸い、ロックスの父祖は《暗黒騎士》に殺されたわけではなかった。《暗黒騎士》にゲイマーとしての力を奪われはしたが、大戦争後も長く生き延びてこの世界ヴァーチャリアで天寿を全うしている。そのためロックス本人には《暗黒騎士》に対するわだかまりのようなものは無かった。

 ムセイオンの聖貴族たちに《暗黒騎士》降臨を内密にすること。しかし、フローリア自身が活動する上では誰がしかの付き人の補助を必要とすること。そしてたまたま降臨のことを知ってしまったロックスは《暗黒騎士》に特別な感情を持っていなかったことなどの理由から、ロックスは本件の問題が続く間、フローリアの付き人として専従することなり、今日もフローリアに付き従ってレーマまでついて来ていたのだった。


 大グナエウシアはフローリアとルードの母子のことは知っていたがロックスの名前には聞き覚えが無かった。だが、きっとゲイマーガメルの血を引く聖貴族に違いないと思い、先ほどと同様大きく頭を下げる。

 同席者全員の身元を明らかにしたところでフローリアは満足気にほほ笑んで言った。


「さあ、では改めてお名前を聞かせてちょうだい。

 それで、仕切り直しとしましょう?」


 名前を名乗ること……それは何でもないような当たり前のことであるかのように思えるが実はそうではない。それは相手に自分と言う存在を認めさせるということである。相手が名前を尋ねるということは、自分と言う存在を認めてくれるということでもある。特に貴族社会・身分社会においてそれは特別な価値のあること、意義のあることだった。


 世界で最も高貴な人に自分の名を名乗れる……それは特別名誉なことなのだ。


「は、はいっ!」


 思わず裏返りそうな声で返事をし、大グナエウシアはその場に立ち上がった。思わず周囲の者たちは驚いてしまう。


「ア、アルトリア子爵家、グナエウシア・アヴァロニア・アルトリウシア・マイヨルでございます。

 お、お見知り置きを!」


 ガチガチに緊張しながらも大グナエウシアは名乗りを上げ、腰を落としながら頭を下げた。そしてスッと姿勢を戻し、改めて席に着く。気合いの入りすぎた挨拶だったが、今度は誰も笑わなかった。手を叩くなどしてはやすこともしなかったが……マメルクスは背後に控える従者らに向かって指で合図し、それぞれの香茶を淹れなおさせる。


「アヴァロニアというと、アヴァロニウス氏族の方ね。

 名前にマイヨルが付いてるということは妹さんがいらっしゃるのかしら?」


 ある程度は事前に聞いて知っていることではあったが、フローリアが場を繋ぐためだろう、大グナエウシアに尋ねた。


「は、はい大聖母グランディス・マグナ・マテル様。

 六歳になる、妹がいます。」


「そう、古風なのね。」


 フローリアはそう言いながら淹れなおされた新しい香り茶を受け取り、妹の名は尋ねなかった。尋ねなくても分かっている。

 既にレーマ帝国でもほとんど廃れている風習だが、古来女性は独自の名を付けないのが普通だった。女性は父親の名前を女性形にしたものを名乗るのである。大グナエウシアの場合は父親がグナエウス・アヴァロニウス・アルトリウシウスなので、個人名プラエノーメンは「グナエウス」を女性形にして「グナエウシア」、氏族名ノーメンは「アヴァロニウス」を女性形にして「アヴァロニア」、家族名コグノーメンは「アルトリウシウス」を女性形にして「アルトリウシア」と自動的に決まる。それだと妹が生まれたら同じ名前が一家に二人になってしまうので、姉の方は名前の最後に「大」マイヨルを、妹の方は名前の最後に「小」ミノールを付けて区別するようになる。さらに妹が増えた場合は、長女は名前の末尾を「大」マイヨルから「一番目プリマ」に変え、次女は「小」ミノールを「二番目セクンダ」に変え、三女以降は名前の末尾に「三番目テルティア」「四番目クアルタ」「五番目クィンタ」と番号を付けていく……ただ、こうした命名方法はゲイマーたちがもたらした「人権」という価値観にはどうにもそぐわないため、さすがにレーマ帝国でも一般的ではなくなっており、今でもそうした命名方法を守っているのは血統の古さを誇る一部の上級貴族パトリキか一部の酔狂な民族主義者や貴族趣味の数奇者すきものに限られていた。アヴァロニウス氏族はその血統の古さを誇る貴族の代表のような存在である。


 大グナエウシア自身も実は内心ではどうかと思っていることもあり、フローリアの「古風ね」という感想には苦笑いを返すほかなかった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る