第784話 仕切り直し
統一歴九十九年五月十日、昼 ‐
「いえっ!そんな、
あああ、申し訳ありません。
私、今の今まで
どうか、どうかご容赦を!!」
レーマ帝国の貴族には大きく二つに分けられる。
下級貴族は特に固定された身分というわけではない。公的な役職についている官僚や役人の他、何かの商売で成功した金持ちや、戦で活躍して有名になった人物などが該当し、貴族としての特権や称号などは必ずしも持っているとは限らず、金や権力を持っている間は貴族のように
そうした上級貴族に対して「気づけなかった」は本来なら侮辱に近い。真に高貴な人物は内から高貴さが
しかしわずか十四歳の娘にここまで必死に謝らさせたとなると、さすがのフローリアも気が引けてくる。次第に笑みをこわばらせながら大グナエウシアを慰めた。
「いえ、ほんとに気にしないで。
貴女が気づけなかったのは魔法の効果よ。
だから気づけなくて当然なの。」
「え……魔法?」
ようやく顔を上げた大グナエウシアの目は涙で潤み切っており、フローリアも内心で気まずさを感じ始める。
「そうよ、魔法でね。私たちの正体に気づけないようにしてたの。
じゃないとホラ、大騒ぎになっちゃうじゃない?
私たち、本当はレーマに来てないことになってるの、わかるでしょ?」
大グナエウシアを安心させるべく、フローリアは笑みを浮かべて両手を胸の前で合掌するように合わせながら言うと、大グナエウシアはコクンと大きくうなずいた。
それを見て一区切りついたと判断したルードが隣のロックスに目配せすると、ロックスは椅子から立ち上がって大グナエウシアに寄り添い声をかける。
「さあ、どうか椅子にお戻りください
「はい、ありがとうございます
この人も大聖母様やルード・ミルフ様と同席するくらいなんだから凄い人なんだろうな……肩に優しく手を添えてくれたロックスに対し、そんな
ロックスが席に戻ったところでフローリアが苦笑いを浮かべながら話を戻す。
「さて、では改めて紹介しましょうか。」
大グナエウシアは目に浮かんだ涙を指で拭いながら「お願いします」と答えた。
「では、もう察しているでしょうけど、こちらは私の息子のルード・ミルフよ。」
紹介されたルードは表情を消し、いつもの
「続いてそちらは、今回の付き人をしてもらっているの……ロックス・ネックビアード嬢よ。」
続けてフローリアは大グナエウシアの左隣の少女を紹介する。先ほど、大グナエウシアが席へ戻るのを助けてくれた彼女がやはり小さく会釈する。
ムセイオンでは元々、聖貴族が交代でフローリアの付き人をやっていて昨日はたまたまロックスだった。付き人として細々とした雑用をしていたところでレーマから
降臨が起きたというだけでも十分問題なのだが、本人ではないとはいえ《暗黒騎士》に近しい人物が降臨したとなると只の降臨とは次元の違う大問題になってしまう。何せムセイオンに収容されている聖貴族の多くは《暗黒騎士》に親や祖父母を殺された者たちばかりだからだ。《暗黒騎士》が降臨したと知れば、親の仇を討とうとムセイオンを飛び出してしまう者も少なからず出てしまうだろう。そのような事態を防ぐために降臨者の素性については秘密にしなければならない。
幸い、ロックスの父祖は《暗黒騎士》に殺されたわけではなかった。《暗黒騎士》にゲイマーとしての力を奪われはしたが、大戦争後も長く生き延びて
ムセイオンの聖貴族たちに《暗黒騎士》降臨を内密にすること。しかし、フローリア自身が活動する上では誰がしかの付き人の補助を必要とすること。そしてたまたま降臨のことを知ってしまったロックスは《暗黒騎士》に特別な感情を持っていなかったことなどの理由から、ロックスは本件の問題が続く間、フローリアの付き人として専従することなり、今日もフローリアに付き従ってレーマまでついて来ていたのだった。
大グナエウシアはフローリアとルードの母子のことは知っていたがロックスの名前には聞き覚えが無かった。だが、きっと
同席者全員の身元を明らかにしたところでフローリアは満足気にほほ笑んで言った。
「さあ、では改めてお名前を聞かせてちょうだい。
それで、仕切り直しとしましょう?」
名前を名乗ること……それは何でもないような当たり前のことであるかのように思えるが実はそうではない。それは相手に自分と言う存在を認めさせるということである。相手が名前を尋ねるということは、自分と言う存在を認めてくれるということでもある。特に貴族社会・身分社会においてそれは特別な価値のあること、意義のあることだった。
世界で最も高貴な人に自分の名を名乗れる……それは特別名誉なことなのだ。
「は、はいっ!」
思わず裏返りそうな声で返事をし、大グナエウシアはその場に立ち上がった。思わず周囲の者たちは驚いてしまう。
「ア、アルトリア子爵家、グナエウシア・アヴァロニア・アルトリウシア・マイヨルでございます。
お、お見知り置きを!」
ガチガチに緊張しながらも大グナエウシアは名乗りを上げ、腰を落としながら頭を下げた。そしてスッと姿勢を戻し、改めて席に着く。気合いの入りすぎた挨拶だったが、今度は誰も笑わなかった。手を叩くなどして
「アヴァロニアというと、アヴァロニウス氏族の方ね。
名前に
ある程度は事前に聞いて知っていることではあったが、フローリアが場を繋ぐためだろう、大グナエウシアに尋ねた。
「は、はい
六歳になる、妹がいます。」
「そう、古風なのね。」
フローリアはそう言いながら淹れなおされた新しい香り茶を受け取り、妹の名は尋ねなかった。尋ねなくても分かっている。
既にレーマ帝国でもほとんど廃れている風習だが、古来女性は独自の名を付けないのが普通だった。女性は父親の名前を女性形にしたものを名乗るのである。大グナエウシアの場合は父親がグナエウス・アヴァロニウス・アルトリウシウスなので、
大グナエウシア自身も実は内心ではどうかと思っていることもあり、フローリアの「古風ね」という感想には苦笑いを返すほかなかった。
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