第783話 明かされた客人の正体

統一歴九十九年五月十日、昼 ‐ 『黄金宮』ドムス・アウレア庭園ペリスティリウム/レーマ



「プッフフフフ……

 オーッホホホホホホ」


 一瞬の沈黙の後、大聖母グランディス・マグナ・マテルフローリア・ロリコンベイト・ミルフが唐突に笑い出した。口元を抑える手から漏れた笑い声が、五月の空へ広がり溶けていく。

 彼の息子ルード・ミルフ二世も笑いたいのを堪えている様子を見せつつ、母を困ったような視線を向ける。そして彼らの付き人としてついて来ていたロックス・ネックビアード、そしてこの場のホストであるレーマ皇帝インペラートル・レーマエマメルクス・インペラートル・カエサル・アウグストゥス・クレメンティウス・ミノールはいさめるべきか迷っているような苦笑いを浮かべつつ、視線だけでフローリアを牽制しようと無駄な試みをしていた。


 わ、私そんなおかしいこと言ったかしら?


 壮麗な法衣をまとった貴婦人の笑いが十中八九じゅっちゅうはっく自分のせいであろうことに気づいていたグナエウシア・アヴァロニア・アルトリウシア・マイヨルの心情は複雑であった。公の場で笑われたことはやはり恥ずかしいものだし、だからといって笑っている相手は自分などきっと足元にも及ばないほど身分の高い人物だ。抗議など出来ようはずもない。

 羞恥と反発で顔が耳まで熱くなるのを感じながらも、不用意にも不器用な発言をしてしまったことを悔い、そして自分を責めずにはいられない。気づけば彼女は肩を怒らせながら俯き、身を縮こませながら太腿の上に置いた両手をギュッと握って唇をかみしめて居た。もし、彼女が全身を体毛に覆われたハーフコボルトでなければ、その顔は火のように真っ赤になっていたことだろう。


母上マテル、彼女に悪いですよ。」


 さすがに目に余ったのかルードがフローリアをたしなめると、フローリアもちょうどひとしきり笑い終えたこともあり、ようやく笑うのを抑え始める。


「ああ、そうね……ごめんなさい、せっかく私たちを気遣きづかってくれたのに……」


 まだ少し、笑いを残したままフローリアはそう言いながら目元を拭った。そして改めて大グナエウシアグナエウシア・マイヨルの方へ向き直り、改めて声をかける。


「失礼をしてしまいましたね。ごめんなさい。

 でも、ラテン語で大丈夫よ。

 私は本国ではないけど、レーマ帝国の出身なの。

 それにこの子たちもラテン語は話せるから、そのままでいいわ。

 貴女のラテン語は訛りも無くて、聞き取りやすくてよ?」


 見知らぬ聖貴族コンセクラータにそう慰められ、大グナエウシアは悲しそうな顔で目に涙を浮かべたままだったがコクンと頷く。

 英語はこの世界ヴァーチャリアでの国際共通語として用いられている。それはかつて降臨した多くのゲイマーガメルたちが英語を話していた影響だった。だが、ラテン語もレーマ帝国だけで話されいるわけではない。啓展宗教諸国連合の中でも一部のキリスト教国家ではラテン語で書かれた聖書がもっとも正式な物として位置付けられていたため、ラテン語は修めるべき教養の筆頭と考えられていたし、未だに公文書はラテン語で書かれなければならないと定められている国もある。それよりなにより、世界の半分を占めるレーマ帝国での公用語なのだから、ラテン語も英語に準じた共通語として考え、学ぶのはある意味当然のことではあった。

 ムセイオンでもそれは同じで、なんといってもムセイオンの最高権威たるフローリアがラテン語話者なのだから英語と共にラテン語を学ぶのは常識だったのである。しかし、そのようなことは大グナエウシアは知らない。彼女は英語を降臨者が話す神聖な言語でムセイオンでも話されている共通語と考えていたし、ムセイオンに留学の経験がある者たちもムセイオンの内部のことはあまり話さないのが普通だったからだ。


「いえ、私こそ申し訳ありません。

 何分なにぶん、田舎者なものですから、世間知らずで……」


 大グナエウシアの心がフローリアの謝罪で晴れたわけではなかったが、聖貴族に謝らせておいてそれを受け入れないなどというような無礼は上級貴族パトリキであっても許されることではない。心にわだかまりを残しつつも、大グナエウシアはフローリアに謝り返した。その姿にフローリアは小さくため息をつく。

 彼女はフローリアたちのために慣れない英語で話した方がいいだろうかと気を使ってくれた。思いやってくれたのだ。なのに、フローリアはそれを笑ってしまった。別に悪気があって笑ったわけではない。誰もが揚げ足を取られないように常に一歩引き、本心を隠してうわべだけを飾る貴族同士の会話が当たり前な世界でこうも純真な存在を目の当たりにし、いつの間にか貴族たちの虚飾に満ちた感覚に慣れ切り、こんないたいけな少女相手に身構えていた自分に気づき、それが可笑しくなって笑ったのだ。

 しかし、それで思いもかけず少女を傷つけてしまった。大聖母などと大袈裟な称号を貰い、人々から崇められている間にどこかで人として当たり前な思いやりを忘れてしまったのかもしれない。フローリアは大グナエウシアに対して素直に済まないと思ったし、同時に反省もしていた。


「そうね、このまま自分の身分に甘えて失礼を重ねていては良くないわ。

 これから貴女にはお話を聞かせていただかなくてはならないんだもの。

 私の名はフローリア・ロリコンベイト・ミルフといいます。」


「「!?」」

母上マテル!?」

「ママ!!」


 フローリアが名乗ったことで一同は一斉に驚いた。


「この名を御存じだと嬉しいのだけれど?」


 優しく微笑むフローリアを皿のように丸くした目で凝視しながら大グナエウシアはフルフルと震えた。


「ぞ、存じております、大聖母グランディス・マグナ・マテル様!」


 まさかその名を知らないわけがない。「幻影の剣イリュージョン・ソード」の異名で知られる伝説の魔法剣士ロリコンベイトを父に持ち、あらゆる魔法を使いこなしたという伝説の大魔術師ルード・ミルフの妻、その冒険譚の数々は読み物や演劇にもなっており、女の子なら憧れたことの無い者などいないと言われるほどの有名人である。

 ムセイオンの聖貴族だとは気づいていたが、よもやその頂点に立つほどの大人物とは思わなかった。口をパクパクさせながらガタッと椅子を鳴らし、大グナエウシアは慌てて横に飛びのくとサッとひざまずく。


「ま、まさか大聖母グランディス・マグナ・マテル様ご本人とは!

 ご無礼の段、平にご容赦を!!」


 礼をするために俯き、地面に向けられた大グナエウシアの目は大きく見開かれ、震えていた。

 貴族社会では身分は絶対だ。自分より高貴な人物、上位の人物には間違っても阻喪があってはならない。だからこそ、貴族たちは皇帝や王、皇族・王族といった頂点に君臨する人々の肖像画や彫像を買い求め、我が家に飾るのである。たとえこれまで縁が無く会ったことが無かったとしても、これから会うかもしれない。その時にその人だと気づけず、礼を失するようなことがあっては身の破滅、いや一族郎党の破滅に繋がりかねないからだ。帝国の公的な施設や各軍団の司令部プリンキピアに皇帝の実物大の胸像が必ず飾られるのは、決して皇帝自身の自己顕示欲を満たすためのものでは無いのである。

 当然、アルトリウシア子爵家でも皇帝や皇族などの有力者の肖像画や胸像は飾られている。代替わりをするたびに、新しい物を買いそろえるのだ。そして、それは皇帝や皇族のみならず、ムセイオンの有力者たちの肖像画や胸像も同様である。その中にムセイオンの長、聖貴族の頂点に立つ大聖母フローリア・ロリコンベイト・ミルフの肖像が入っていないわけはない。

 大グナエウシアだって家に家族でも先祖でもない“偉い人達”の肖像や胸像が飾られている理由を知らなかったわけでは当然なかった。むしろレーマに滞在中、まかり間違って無礼を働いてはならぬと毎日欠かさずにそれらを眺め、有名人の顔や特徴などしっかりと頭に叩き込んでいたくらいなのである。


 そんな、何で、なんで今まで大聖母様って気づかなかったの!?

 兄さまアルトリウスがレーマから送ってくれた大聖母様の肖像画でも、レーマ屋敷ドムス・レーマエに飾られた絵でも、何度も見てたのに!

 そういえば、隣のハーフエルフ様も大聖母様の絵で見てたわ!

 ということは、同席していらっしゃるのはルード・ミルフ二世様!?

 ああ、なんてこと!

 そんな有名人に、世界で最も高貴な方を目の当たりにして気づけないなんて!!


 大グナエウシアにとっては大失態と言っていいだろう。あまりのことに思わず自分を信じられなくなりそうな大グナエウシアだったが、しかしフローリアたちの正体に気づけなかったのは大グナエウシアの責任というわけでもなかった。

 あくまでも“お忍び”でここへ来ていたフローリアたちは大グナエウシアに正体を知られて大騒ぎにならないようにするため、一種の隠蔽魔法によって正体を隠していたのである。それは幻術の一種で被術者に対し意図的にゲシュタルト崩壊を起こさせ、それによって自分に向けられた注意力や関心を逸らせて「自分が存在することは認識できるのに自分の正体は見抜くことができない」という状態に陥らせるものだった。大グナエウシアがフローリアを目の当たりにしても大聖母本人だと気づけないのは当たり前だったのである。


「そんなにかしこまらなくてもいいのよ?」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る