第778話 謁見

統一歴九十九年五月十日、昼 ‐ 『黄金宮』ドムス・アウレア/レーマ



 グナエウシア・アヴァロニア・アルトリウシア・マイヨルがレーマ皇帝インペラートル・レーマエマメルクス・インペラートル・カエサル・アウグストゥス・クレメンティウス・ミノールの御前へ案内された時、彼女は一人だった。いつも影のように付き従っていた彼女専属の侍女タネの姿はそこにはない。宮殿ドムスには多くの上級貴族パトリキたちの屋敷ドムスと同様、客人が伴ってきていた従者用の待機室や宿泊施設のようなものが完備されており、タネはそこで待つほかなかったのだ。

 そのことについて大グナエウシアグナエウシア・マイヨルは心細さを感じないではいられない。タネは大グナエウシアが物心ついてからずっとそばに居続けてくれた、ある意味家族以上に親密な存在だった。今思えば、母以上の庇護者ひごしゃだったと言っても良かったかもしれない。

 常に後ろに控え、決して出しゃばらず、しかし事あるごとに有益な助言を欠かさなかった。それでいて大グナエウシアが自分で考えたいことはきちんと尊重し、答を出すまで待ってくれていた。大グナエウシアが失敗する時は大概タネの助言を無視した時だった。それでもタネは大グナエウシアを叱責することは無く、常にフォローに徹してくれていた。人前でオナラをしてしまった時など、後ろに控えていたはずのタネがサッと前に出て「申し訳ございません、今のは私です。」などと言い、大グナエウシアが恥をかかぬようにかばってくれたこともあった。


 もちろん、帝都レーマで社交界デビューを果たしている彼女である。当然、従者であるタネから離れて一人の貴婦人ドミナとして振る舞わねばならない場面は少なくない。大グナエウシアが帝都レーマで社交活動を行うようになって約半年、タネが居ない状況にもだいぶ慣れてきてはいる。が、所詮は十四歳の小娘に過ぎない大グナエウシアにとって、レーマ帝国インペリウム・レーマの頂点に君臨する皇帝インペラートルの前に一人で立つのはハッキリ言ってかなりな重責であることは疑いようが無い。背後のタネの存在を感じられないことが、ここまで心細いものだとは大グナエウシアは今の今まで思ってもみなかった。


「アルビオンニア属州アルトリウシア、グナエウシア・アヴァロニア・アルトリウシア・マイヨル子爵令嬢、ごにゅう~い。」


 名告げ人ノーメンクラートルが大グナエウシアの入室を告げる。それは大グナエウシアがこの半年で身に着けた、気持ちを社交界モードに切り替える合図として機能した。やけに飲みこみにくい唾を飲みこみ、背筋をグッと伸ばす……そののど越しの固さに、大グナエウシアは自分が自覚している以上に緊張していることに気づいた。


 さあグナエウシア、気持ちを切り替えるのよ。


 一歩踏み込んだそこは、しかし皇帝らしい人物の姿は無かった。床は黄色味が強いトラバーチンが敷き詰められ、壁から上は純白に近い大理石で作られている。それが向かって右側の大きな窓から入ってくる陽光によって屋内とは思えないほど明るく照らされていてまぶしいほどで、人が隠れて見えなくなるような影はない。ひょっとしてこの明るさが『黄金宮』の名の由来ではないかと思いたくなるほどだがしかし、その部屋は客を招き入れるには調度品らしき調度品もなく、壁に絵画の一つもありはしない。そんなひどく殺風景な部屋は壁際に数人の侍従や衛兵の姿が見える程度で、その人数も少なくまばらである。


「…………?」


「そのまま、庭園ペリスティリウムへお進みください。」


 大グナエウシアが戸惑っていると、先ほど彼女の来訪を告げた初老の名告げ人が低い声で促す。その手が指し示す右側を見ると、そこには列柱の並ぶの向こうに緑輝く庭園が広がっているのが見えた。


「!!」


 先ほどまで部屋だと思っていたそこは実は庭園を囲む列柱回廊ペりスタイルであり、大グナエウシアがこれより謁見すべき皇帝は周囲を複数の貴人や侍従とおぼしき者たちに囲まれて庭園の中ほどに立っていた。大グナエウシアはマメルクスの姿を直接見たことは無かったが、庭園の中にいる人物の中で唯一月桂冠を頭に頂き、皇帝専用の衣装である金糸で刺繍ししゅうを施した紫色の正衣トガ……トガ・ピクタをまとっているから初見でも見間違いようがない。

 皇帝とその周辺の人々は大グナエウシアの名を告げる声で気づいていたのだろう、全員が大グナエウシアの方に注目していた。


「まあ、あれが?」


 誰か女性の驚く声がわずかに聞こえる。皇帝を取り巻く誰かだろう。おそらく、初めて見たコボルトの姿に驚いたに違いない。

 帝都レーマでコボルトの姿を目にすることは少ない。ハーフとはいえコボルトと同じ見た目をした貴族は大グナエウシアが二人目であり、現在他にレーマにいるコボルトあるいはハーフコボルトといえばアルトリウシア子爵家に仕える者たちに限られている。

 『白銀のアルトリウスアルジェントゥム・アルトリウス』こと兄アルトリウスのおかげでコボルトに対するレーマ市民のイメージは決して悪くはないが、それでも物珍しさから好機の視線を向けられるのは大グナエウシアにとって、アルビオンニアを出て以来の日常茶飯事となっていた。


 はぁ……またか……


 それでも皇帝の前ならば傍仕そばづかえも貴族たちもそれなりに気品ある人達に違いない。そう勝手に期待していた大グナエウシアはわずかな失望に胸が痛むのを禁じ得なかった。

 それでも気を取り直し、背筋を伸ばしたままスルスルと前へ足を運ぶ。タネからみっちり仕込まれた「り足」によって、大グナエウシアは身体を揺らすことなく、足音も立てることなく皇帝の前へ進み出た。その姿に、一団の中から「ほぅ」と感心するような低い声がわずかに聞こえる。


 好機の視線を屈辱に感じないではいられない大グナエウシアではあったが、しかし彼女の姿は彼女自身が自覚している以上に見る者に好印象を与えるものだった。

 もちろん、かつてコボルトが亜人ではなく獣人に分類されそうになった原因の一つである全身を覆う体毛、そしてホブゴブリンやコボルトに特徴的なガッシリとした筋肉がもたらす体形の太さは否定できない。それは大グナエウシアにとってコンプレックスの対象にもなっている。

 しかし非常に細く短く密集した体毛は、同じく全身を体毛に覆われた獣人たちに比べるとずっと繊細でキメが細かいため、獣人のような荒々しさは全く感じさせない。まとった長衣ストラは肌が透けて見えるほどの薄絹に緻密なレース編みを施したもので、ヒトの女が着たら淫靡いんび卑猥ひわいさすら感じさせるような、一歩間違えば娼婦と見紛みまがうであろうものだったが、全身を体毛で覆われた彼女の場合は透けて見えるのが肌ではなく体毛なのでイヤラシサのようなものはなく、むしろレース編みの複雑精緻な模様を浮かび上がらせてみる者に気品すら感じさせる。

 それを流行に合わせるように明るい黄色い布地に金糸で刺繍を施した飾り帯タエニアを胸の下から腰に掛けて巻き付けることで、胸の豊かさと尻の大きさを強調し、ヒトにしては太いがホブゴブリンからすればほっそりした彼女の体形を際立たせている。

 屋内であるためにパルラを脱いで露わにされていた髪は高貴な身分にふさわしく前髪を高く結い上げてはいたが、後ろ髪は未婚であることを示すために長く垂らし、その髪型を抑えるように細い金細工の宝冠ステファヌスを被っていた。首から胸へ下げたペンダント、両腕のブレスレットと共にそれら金のアクセサリーは貴族ノビリタスの持ち物としてはやや控えめではあったが、大グナエウシアの白く輝く体毛と対比して程よいアクセントとなっており互いに引き立てあっている。

 まさにレーマ人が理想とするアエネイスの輝き、花の女神フローラの色鮮やかさ、神々の女王ユノーの美しい肉体を強調する衣を具現化した衣装と言えるだろう。しかし、同じ服を大グナエウシア以外の者が纏ったとしてもこうはなるまい。レーマに百万の人がいようとも、この着こなしができるのは大グナエウシア只一人……皇帝マメルクスをして後にそう言わしめるほどのものだった。


 大グナエウシアはマメルクスの前まで進み出ると両手を交差させながら胸に当て、ひざまずいてこうべを垂れる。


世界に冠たる偉大なる皇帝陛下マクシミ・インペラートリス・ムンディ、グナエウシア・アヴァロニア・アルトリウシア・マイヨル、御召おめしにより参上いたしました。」

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