大グナエウシア

第775話 朝風呂

統一歴九十九年五月十日、午前 ‐ アルトリウシア子爵邸/レーマ



 普通、レーマの貴族ノビリタスは朝起きるとまず身だしなみを整える。一家のあるじならその前に神棚ララーウィウムにお供えをして朝の御祈りをするのだが、それ以外の家族たち……特に女性なら使用人を使って化粧や髪形を整え、衣服を身に着ける。朝食イェンタークルムを摂るのはその後だ。

 朝食は大概は前日の夕食ケーナの余り物を温めなおしたもので、それらとは別に主菜として麦粥プルス、そして添え物として新鮮なミルクや果物ジュースなどがついたりする。こういうと質素なようだが、前の晩の残りと言っても平民プレブスなら宴会の時にしか食べられないような料理が次々と出てくるメニューの残り物なのだから、必然的に朝食のメニューも平民からすれば目を剥くような豪華な内容になりがちだった。一家そろっての朝食を済ませたら改めて歯の手入れを行い、口元や服装など身だしなみを再び整えた後に被保護民クリエンテスの『表敬訪問サルタティオ』を受けて午前が終わる。

 もちろん、それは一般的な例であってすべての貴族がそうというわけではないし、また普段はそういう日常を送っていている貴族でも毎日必ずそうと決まっているわけでもなかった。例外というのは案外珍しくない。

 貴族は保護民パトロヌスとして多くの被保護民を抱えるものだが、その貴族自身が誰かの被保護民である場合も決して無いわけではないのだから、貴族だけど自分の保護民に対し、被保護民として『表敬訪問』をしに行くということもあったし、当然他にも何か用事があれば日々のスケジュールが変更されるくらいは当たり前にあるのだ。


 今朝のグナエウシア・アヴァロニア・アルトリウシア・マイヨルもその例のごとく常ならぬ例外的な朝を過ごしていた。朝起きたら身だしなみを整える前にいきなり朝食を摂り、その後身だしなみをより徹底するために朝から風呂に入ったりしている。

 普通のレーマ人は貴族ノビリタスだろうが平民プレブスだろうが風呂といえば昼から夕方にかけて公衆浴場テルマエに入るものだ。風呂を用意するとなると大量の水を汲み、それを火にかけて湯を沸かし……と、専属の奴隷を使っても風呂一つ用意するだけで一~二時間は平気でかかるし、その後の片づけや掃除も考えればそれだけで一日仕事になってしまう。当然、平民の一般家庭で自前の風呂を用意して毎日入るなんてまず無理で、必然的に公衆浴場を利用することにならざるを得ない。そしてその公衆浴場にしても大勢の入浴客を受け入れるための広い風呂は掃除をするのも簡単ではなく、もちろん水を汲みお湯を沸かす手間となれば一般家庭規模の風呂などとは比べ物にならない。大量のお湯も大きな窯で一気に沸かせるならまだ多少は楽になるかもしれないが、この世界ヴァーチャリアでは大きい火を焚くと炎に精霊エレメンタルが宿り、《火の精霊ファイア・エレメンタル》と化して暴れ始めてしまう危険性があるため、大量のお湯を必要とする公衆浴場では小さな窯を多数設置し、それらを同時に稼働させることで火力を稼がねばならなかった。おかげで人工にんくが余計に必要になり、営業時間も一日二十四時間というわけにはいかなくなる。だいたい、暗い時間に営業しようとしたら照明まで用意しなければならなくなるではないか。

 そういうレーマ帝国の風呂事情をかんがみれば、わざわざ朝から風呂を用意して入るなどそれがどれだけ異様か分かろうというものだ。


 もっとも、彼女が入っているのはお湯の風呂ではなく水風呂なので手間はさほどではなかったりする。五月も上旬の終わりとだいぶ暖かくなってきたとはいえ朝晩はまだまだ寒い時期なのに、水風呂を浴びて平気なのは彼女の体に流れる血の半分がコボルトのものだからだろう。

 ゴブリン系種族でありながらひときわ大柄な身体には豊かな皮下脂肪が蓄えられ、さらに短く細かい体毛が全身をビッシリと覆っている。体毛が覆っていないのは目の周りと鼻先、唇、そして手のひらと足の裏と局部だけだが、表に露出した肌はまるで木炭のように真っ黒だ。シロクマのゴブリン版……そんなコボルトの特徴を色濃く母から受け継いだ彼女は、兄アルトリウスがそうであるように寒さには滅法強いが暑さがからっきし苦手である。その彼女にとって、故郷アルトリウシアよりも暑いレーマは冬でも水風呂でちょうどいいくらいであり、生まれて初めて体験した去年のレーマの夏は暑さに堪えるために暇さえあれば水浴びをしつづけていたくらいだった。 


 だが今彼女が風呂に入っているのは暑さをしのぐためではない。先述した通り、身だしなみを徹底するためだった。何せ今日の彼女はレーマに来て初めて、皇帝インペラートルから『黄金宮』ドムス・アウレアへ招待されてしまったのだから気合いも入って当然と言えよう。


「お嬢様、いつまで入っていらっしゃるのですか!?

 そろそろおあがりなさいませ!

 身体を拭く時間が無くなってしまいますよ?!」


 水風呂に浸かってくつろぐ大グナエウシアグナエウシア・マイヨルに侍女のタネが声をかける。その声はいつにもまして何か追い詰められたような切羽詰まったような舞い上がりようで、大グナエウシアを否応もなく現実へと引き戻す。

 昨夕、皇帝からの明日『黄金宮』へ参内さんだいするようにと使者が伝えてきてからというもの、家中の者たちがこのような有様だった。なにせ辺境の一領主の家の令嬢に皇帝から直々に名指しで招待されたのだ。このようなことは彼女の実父グナエウスが子爵を叙爵し、一家が領主貴族パトリキの仲間入りをして以来初めてのことなのである。もう上を下への御騒ぎだった。

 その騒ぎの中心で疲れ果ててしまった大グナエウシアはせめて気分を落ち着かせようと、湯船を満たした冷水にとっくに洗い終わった身体を沈めていたのだが、どうやら気分を落ち着かせすぎていつの間にか転寝うたたねをしてしまっていたようだ。


「分かってるわ、今あがるから!」


 大グナエウシアは湯舟から出ると小さいころからの癖で全身をブルブルっと振るわせて水を飛ばし、タネの待つ脱衣所の方へペタペタと足音を鳴らしながら小走りに駆けていく。


「まあ、お嬢様!

 そのようなハシタナイ真似を!!」


 大グナエウシアが身体を洗うために一緒に入っていたタネは、大グナエウシアが水に浸かっている間に先に出て、服を着こんで彼女を待ち構えていた。


「ごめんなさい!

 でもいいでしょ、周りに誰も居なかったんだし!

 それにこの方が早いわ。」


「いけません、お嬢様。

 子爵家の御息女ともあろう方がそのような……

 後から入った者が浴室の壁や床を見ればきっと驚きますよ。

 嵐でも来たんじゃないかと……

 間違っても公衆浴場テルマエや他所様のお風呂でやられてはいけません。」


 タネは小言を居ながらまるで毛布かシーツのような巨大な布巾スダリオを広げ、大グナエウシアの身体を包み込む。その身体は彼女が言った通り、既に水気の大部分が振り落とされて半乾き状態になっていた。最高級のシルクに例えられる彼女の全身を覆う体毛は、濡れている時はペタンと肌に張り付いて女らしさが目出し始めていた彼女の身体をなまめかしく見せていたが、今は既に空気を含んで膨らみ、フワフワの綿毛のような柔らかさを取り戻している。


「わかってるわ。他じゃ絶対やらない。

 今日はタネが急げってかすからしょうがないでしょ!?」


「いけませんお嬢様。

 そのような言い訳は子供のすることです。」


 両腕を広げて立つ大グナエウシアの身体を巨大な布巾で覆い、その上から手のひらで撫でまわして彼女の体毛に残ったわずかな水気を布巾に吸い取らせていく。


「ならいいじゃない、私まだ子供だもん。」


「何をおっしゃるんですか!

 人は誰だって今より大人の自分を目指して振る舞わなければ、心の成長が身体の成長に追いつけなくなるんですよ?

 お嬢様はもう十四に御成りではありませんか!

 嫁入りまであと二年しか無いというのに、自分のことを子供だなどと言っていては……」


 南蛮生まれ南蛮育ちのタネは大グナエウシアにとても優しいがやたらと小言が多い。老婆心ろうばしんが強すぎるのだ。その傾向は大グナエウシアが母を失ってから余計に強くなったような気がする。


「もう分かったってば!

 その話、何回も聞いたわ!」


「大事なことなのですから何度でもお聞きください!

 頭では一回で分かっても心では何回言っても分からないものです。

 心で分かるようになるまでは分ったとは言えません。」


「ああんもうっ!

 もういいわタネ、くすぐったい!

 自分で拭く!!」


 ムズがるように身体を捻ると大グナエウシアはタネの手から布巾を奪い取り、自分で拭き始める。布巾を奪い取られたタネは一瞬、呆れたような顔をして大グナエウシアの顔から足まで何度か見回した。

 そして一度フンッと小さく鼻を鳴らすと、振り返って着る物を用意し始める。


「そういえばお嬢様、皇帝陛下からお呼びがかかったことですが……」


「なあに?」


「どうやら理由が分かったかもしれません。」


「理由?」


 身体を拭き終わった大グナエウシアが身体を拭くのに使った布巾をその場に投げ出し、タネの方へ向き直る。その大グナエウシアにひざまずき、腰巻スブリガークルムを履かせながらタネは答えた。


「ええ、昨日陛下のお使いが帰ってから人を方々ほうぼうって色々話を聞いたんですが、なんだか変な噂が流れていたそうなんですよ。」


 皇帝の住まう『黄金宮』への皇帝からの直々の招待……その初めての出来事に対処するため、子爵家はレーマ中の懇意にしている上級貴族パトリキたちへ人を走らせ、『黄金宮』へ参内する時にわきまえておくべき作法や整えておくべき準備などについて情報を集めさせていた。その時、派遣した家人らのうち何人かが奇妙な話を聞いてきたのである。


「変な噂?」


「ええ、それがちょっと信じられないんですが‥‥ねっ!んっっと!!」


 大グナエウシアの腰巻の紐をギュッギュッと締め上げると、立ち上がったタネは今度は胸帯ストローピウムを手に取り、大グナエウシアの顔を見た。その顔にはわずかながら不安の色が浮かんでいた。


「なんでも、アルビオンニアで降臨があったんだとか……」

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