第774話 皇帝からの秘匿要請

統一歴九十九年五月九日、夕 ‐ タウルス・アヴァロニクス邸/レーマ



 元老院議事堂クリア・クレメンティアから帰宅した執政官コンスルフースス・タウルス・アヴァロニクスを待っていたのは皇帝インペラートルマメルクス・インペラートル・カエサル・アウグストゥス・クレメンティウス・ミノールからの使いだった。

 皇帝からの急使だというので執務室タブリヌムへ通して用件を聞いてみれば、降臨のことは伏せるようにという要請だった。薄く水で割ったワインで喉を潤しながら聞いていたフーススは思わず驚きの声を上げる。


「なんだと、今更か!?」


「はい閣下。

 元老院議員セナートルの皆様におかれましては、降臨と降臨者様のことは世に知られることのなきよう、秘匿にご協力いただきたいと皇帝陛下は仰せにございます。」


 皇帝からの使者がうやうやしく頭を下げ、自らの主から託された言伝ことづてを伝えると、フーススは手に持っていた酒杯キュリクスを叩きつけるように目の前の円卓メンサへ降ろす。


「どういうことだ?

 皇帝インペラートル元老院われわれが降臨者様へ正式に使者を出すことを認めたばかりではないか!」


 日焼けと酒で赤くなった彼の顔は窓から差し込む夕日に照らされて真っ赤になっている。『怒れる猛牛イラトゥス・タウルス』の荒ぶる炎ような形相ぎょうそう気圧けおされながら、使者は礼を失することの無いよう努めて冷静に答えた。


「陛下におかれましては、この要請は元老院セナートスが使者を送ることを妨げるものではないと仰せにございます。」


「馬鹿を言え!」


 両手を広げたフーススは冗談を笑い飛ばすようにハッと天井を見上げると、再び使者へ向き直った。


「降臨の事実を伏せたままどうやって使者の人選を進めよというのだ!

 使者は元老院議員セナートルなのだぞ!?

 まさか上級貴族パトリキにコソコソと辺境へ行けなどと言うつもりなのか!?」


 レーマ市民は単純明快な性格だ。男らしさマッチョイズムを信奉し、貴族ノビリタスに特に自分たちの理想像を求めたがる傾向が強い。ゆえに貴族は過剰なまでに公明正大であることを求められる。どこへ出かけるにも取り巻きラウディケーヌスを引きつれ、名告げ人ノーメンクラートルを走らせて身分を明らかにせねばならなかったし、恋愛ですら大っぴらにせねばならなかった。恋文などもわざわざ家の前に掲示して衆目に晒すほどであり、不倫であっても堂々と世間に隠さずに大っぴらにやれば、不倫相手の配偶者とその関係者はともかく世間からは糾弾されずに済むことすらあるほどなのである。

 逆にコソコソと隠れて何かをしていれば、それだけで市民から軽蔑を集めてしまう。上級貴族のくせに何か隠れてやってやがる……という噂がたちでもすれば、それだけで次の選挙が危うくなることも珍しくないのだ。


 それなのに降臨の事実を隠したまま元老院議員から人を選び、往復で半年はかかるであろう辺境の地へ送り出すなど不可能に近い。事実上、やるなと言っているに等しかった。


「それは私では何とも……

 ともかく、降臨したのが《暗黒騎士ダーク・ナイト》様であることだけは伏せていただきませんと……」


 使者が額にかいた汗を正衣トガの裾でぬぐい、申し訳なさそうに答えるとフーススはその様子を横目で見ながら酒杯を手に取り、中に残っていたワインを一口飲んで気持ちを落ち着かせる。


 そうだ、コイツをドヤしつけても意味はない……


 見ればまとっている正衣トガもサフランのような薄い紫色のしま模様に染め上げられた下級神官用のトガ・トラベアだ。上級貴族にとって一つの頂点ともいえる執政官の職に就いた者が、ミスを犯したわけでもない下級神官相手に怒りをぶつけては恥になる。


 フゥゥ~~~~~っ


 フーススは大きく深呼吸して気持ちを落ち着かせるが、使者からはそれこそ猛牛タウルスが唸っているようにしか見えない。


「だが分からんな。

 何でそんな話になった?

 貴様、何か知っておるのか?」


 フーススが尋ねると使者はビクッと一瞬身体を震わせ、それから自分より背の低い目の前の男の視線を逃れようとするように目を泳がせ、そして言葉を探しながら答えた。


「それは……おそれながら、大聖母グランディス・マグナ・マテル様からの要請によるものでございます。」


大聖母グランディス・マグナ・マテル様だと!?」


 驚いたフーススはタンッと音を立てて酒杯を卓上へ戻し、使者の方へ身体ごと向き直る。


「はいっ、こ、皇帝陛下におかれましては、『魔法の鏡』スペクルム・マギクスを、を、用いられまして、遠くケントルムはムセイオンの、大聖母グランディス・マグナ・マテル様に、降臨を御報告あそばされ、そして、その……」


大聖母グランディス・マグナ・マテル様から降臨のことを伏せるよう、言われたというのか!?」


 使者の言葉をフーススが先取りすると、使者は「はいっ」とひっくり返りそうな声で答え、ごくりと飲み下しにくそうに唾を飲んだ。


『魔法の鏡』スペクルム・マギクス……そんなもの、本当に使えたのか……」


 フーススは驚きの表情のまま顎に手を当て、さすりながらひとちる。

 『魔法の鏡』……その存在はフーススももちろん聞いたことがあった。だがさすがに実物は見たことが無い。聞けば遠く離れた相手と居ながらにして顔を合わせ言葉を交わすことのできる魔道具マジック・アイテムだという。その魔道具を使うために下級神官を『黄金宮』ドムス・アウレアにある聖堂サクラリウムに詰めさせているという話も聞いていた。


「はい、皇帝陛下インペラートルにおかれましては、大聖母グランディス・マグナ・マテル様と直接顔を合わせ、お話になられたそうでございます。」


 驚いたフーススが視線を離したために多少気の安らぐのを感じながら、使者は聞かれたわけでもないのに説明した。


 まずいぞ……そんな魔道具が本当に使えたなんて予想もしてなかった。

 ムセイオンへの報告は郵便タベラーリウスで最低でも半月はかかるだろうと思っていた。往復で一か月……ムセイオンからの返答が来るまで皇帝マメルクスは動かないだろう……そう踏んでいたのに、これでは元老院われわれが一方的に後れを取るではないか……


 フーススたち守旧派議員たちはマメルクスがムセイオンに手紙で報告すると思っていた。ムセイオンからの返事を待ってマメルクスが使者を出すことになれば、ムセイオンとの間で手紙が往復するのに最低でも一か月……その一か月の間に彼ら元老院側が準備を整え、使者を送り出せばその分だけでも皇帝に対して優位に立てる可能性が出てくる。そこにフーススたちは期待していたのだ。

 現地へ行って降臨者と接触したであろう元老院議員アントニウス・レムシウス・エブルヌスの報告を待ってから使者を出すように釘を刺されはしたが、それも途中のクィンティリアあたりで合流して話を聞くことを前提に使者を出してしまえば何とかなる。うまく行けば皇帝からの使者に先んずることも出来るかもしれない。

 そう思っていたが見通しが甘かった。半月どころか魔道具を使ってたった一日で報告を済ませ、それどころか対応の検討まで済ませて「降臨のことを伏せる」という方針を打ち出してきたのだ。


 下手すると元老院こちらが使者を立てる前に皇帝側マメルクスが先に使者を送り出してしまうかもしれんな……

 そうなっては最早太刀打ちできん。元々元老院われわれの方が不利だったが、確実に皇帝の使者の方が先に着いてしまう。


 皇帝を出し抜き、うまくすれば帝位そのものを廃止に追い込むきっかけになるかもしれないと期待していたフーススはほぞを噛むような気持になった。


 クソッ……なんてことだ。

 これでは皇帝位を廃止して再び元老院の権威を復活させるどころか、逆に皇帝の権威を高めることになってしまうではないか!!


 悔しさに顔をゆがめ、フーススは髪の毛の薄くなった頭をガリガリと掻きむしる。


 !……まてよ?


 フーススは頭を掻きむしるのをやめ、顔を挙げた。


「おい!」


「はっ!?」


 唐突に話しかけられ、それまで弛緩していた使者は再びビクリと身体を震わせて緊張を新たにする。


大聖母グランディス・マグナ・マテル様は何で降臨のことを隠そうとするんだ?

 貴様、何か聞いておるか?」

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