第743話 南の果てからの第一報

統一歴九十九年五月九日、午前 ‐ 黄金宮ドムス・アウレア/レーマ



「余への忠誠よりも重要なことか……はてさて、心当たりがありすぎて困るな。

 さてはけいの牧場で仔牛でも産まれるのか?」


 レーマ皇帝インペラートル・レーマエマメルクス・インペラートル・カエサル・アウグストゥス・クレメンティウス・ミノールはクスッと笑いながら再び頬杖を突き、玉座ぎょくざの前に立ち並ぶ男たちを見下ろした。

 彼らほどの上級貴族パトリキともなれば複数の牧場を持っているくらい珍しくもなんともない。そしてそこには数百もの家畜が飼われているくらい何ということもないであろう。そんな牧場で飼われている牛の一頭が仔牛を出産するからといって、そのような些細なことなど彼らが気にするはずもないし、そもそもそんな報告がイチイチ彼らの元に上がってくるわけもなかった。つまり、牧場で仔牛が産まれるなど、どうでもいい些事さじでしかない。


 お前たちの忠誠など、その程度のものなんだろう?


 マメルクスは目の前に居並ぶ男たちを、そう言って揶揄からかっているのである。自分の忠誠について娼婦の貞操のごとき所在の不確かさを指摘され、フースス・タウルス・アヴァロニクスは初めて憮然ぶぜんとした表情を示した。


「そのような冗談を言っておる場合ではありませんぞ。」


 彼が皇帝に対する忠誠など微塵みじんも持ち合わせていないのは確かだが、だからといって遊んでいるわけでもない。


「レーマの運命を左右する重大な事件を前に、我らは共に力を合わせねばならないのですからな。」


 ヒトのくせにまるでホブゴブリンのような短躯たんく正衣トガで包んだ彼にはレーマという巨大な帝国を率いるという自負と責任があり、その社稷しゃしょくをおろそかにするつもりなど、彼の禿げ散らかした髪の毛ほどもなかったのだ。そして彼は、レーマにとって重大な危機が迫っていると思うからこそ、こうしてレーマ皇帝の前に姿を現したのである。


帝国レーマの運命を左右する重大な事件?」


 怪訝な表情を浮かべながら、マメルクスは侍従が差し出した黄金の酒杯キュリクスを受け取り口元へ運ぶ。


左様さよう

 陛下の元にも届いていましょう!?

 帝国の南の辺境からの急報が!」


 ワインで口を湿らせたマメルクスは酒杯を侍従の差し出す盆に戻すと、侍従がいる側とは反対側の肘掛けに肘を突いて寄りかかり、フーッと大きくため息をつく。


「さてな……卿らが余への手紙を勝手に開け、中身を書き写して再び蝋封を偽造するのが間に合っていれば届いておるのやも知れんが、何のことやらさっぱりわからん。」


「そのようなことなどしておりません!」


「では、まだ読んでなかった手紙の中にそれがあるのかな?」


 マメルクスがそう言いながら侍従に向けて手をかざすと、酒杯を載せた盆を捧げ持つ侍従は静かに一礼して引き下がる。そして代わりに書簡をいくつも載せた盆を両手で捧げ持った書記官が現れ、マメルクスに差し出した。


「陛下、陛下が間違いなくレーマの皇帝であらせられるならば、必ずやアルビオンニアからの急報が届いておりましょう。

 我らはその急報によって告げられている一大事に応じるため、こうしてせ参じておるのです。」


 フーススと共に現れた一団の中から一人の白髪の老人が進み出ると、まるで慈悲でも乞うように上目遣うわめづかいで言った。


「……アルビオンニアだと?

 南の果てではないか……」


 聞きなれない地名にマメルクスは眉を持ち上げ、笑みを消して盆に並べられた書簡を確認しはじめる。


 アルビオンニアは最も新しい属州の一つであり、拡大を続けるレーマ帝国版図の最も南に位置している。赤道を超えてはるか南の新属州は開拓地としてレーマ人が植民を始めてからまだ百年と経っていない。当初は無人島と思われていたが、大災害によって絶滅したと思われていた伝説上の南蛮部族と思いもかけずに接触してからは、版図拡大はほぼ停止状態になている。このためアルビオンニア属州はレーマ帝国の属州の中ではかなり狭い方で、その広さはレーマ本国とおそらく大差ないくらいだと見積もられていた。


 南蛮部族が一斉に蜂起でもしたか?

 それともチューアが横槍でも入れて来たか?


 マメルクスがそれまで浮かべていた笑みを消したのはそれなりの理由があってのことだ。南蛮人はレーマ人はもちろん、ランツクネヒト族などよりもずっと体格に優れ、おまけにレーマや啓展宗教諸国連合が未だに青銅製の武器を主体に配備しているのに比べ、南蛮人は鉄器を多数そろえていた。体格でも武器の性能でも圧倒されている対南蛮戦線で、それでも押し返されることなく膠着状態に陥らせて踏みとどまっているのは、ひとえにアルビオンニア軍団レギオー・アルビオンニアアルトリウシア軍団レギオー・アルトリウシアの作戦技量があったからに他ならない。

 だが、その二つの軍団レギオーも一昨年前の火山噴火によって戦力を大幅に減じており、戦線の維持はここ帝都レーマでも危ぶまれていた。もしも南蛮諸部族が総力を挙げて反撃に出てくれば、あるいはチューアが介入してくれば、帝国はアルビオンニア属州を失陥する危険性が出てくる。

 もしもそのようなことになれば、マメルクスはレーマ皇帝として権威を失墜することになるだろうし、ひいては帝国の結束そのものが瓦解しかねない危険性をはらんでいた。


「アルビオンニア属州……たしか、アルビオンニア侯爵夫人だったか?

 アルビオンニア侯爵家の紋章は……」


「これでございます、陛下。」


 アルビオンニア侯爵家の紋章など憶えてもいなかったマメルクスがわざと声を出しながら探していると、すかさず書記官が見慣れない紋章で蝋封のなされた書簡を手に取り差し出した。蝋封は二つ、マメルクスの見慣れぬアルビオンニア侯爵家の紋章と、そしてアルトリウシア子爵家の紋章……後者はかつてレーマ帝国に弓引いたアヴァロンニアの最有力貴族アヴァロニウス氏族の紋章とほとんど同じであり、こちらの方はマメルクスもよく記憶している。

 マメルクスはフムと言いながらそれを受け取ると、書簡と共に盆に乗せられていた細身のペーパーナイフを手に取り蝋封を切る。開かれた手紙に目を通したマメルクスは背もたれから身体を起こした。そこには、アルビオンニウムで降臨が起きたことが記されていた。


「いかがですかな?」


 自分たちは真面目に話をしようとしているのにさんざん茶化そうとしていたマメルクスをなじるようにフーススは低い声で尋ねる。読み終えたマメルクスはしかし、表情は変えずに再び注意深く書面に目を通しなおす。内容はもちろん変わらないが、見落としなどがないかは確認せねばならない。


「ふむ……南の果てで起きた出来事をわずかひと月後に知ることができるとは、帝国の郵便システムタベラーリウスもなかなかのものだな。」


 フーススを始めレーマの重鎮たちが固唾かたずを飲んで見守る中、口を開いたマメルクスの最初の一言はそれだった。


「お人払いを!」


 フーススは不満げに、まるで毒づくかのように顔を背けながら言った。別にマメルクスの態度に呆れたわけではない。人の上に立つものはつまらないことで動揺してはならない。また、動揺する姿を人に見られてはならない。帝国の頂点に立つ皇帝ともなれば猶更なおさらだ。フーススたちもそれを理解しているからこそ、マメルクスの一見不真面目にも見える冗談を責めるようなことはしない。

 マメルクスは手をかざし、侍従たちに出ていくよう指示した。侍従たちはマメルクスの手ぶりを見ると無言のまま一礼し、レーマ皇帝の執務室タブリヌムから退室していく。

 マメルクスは肘掛けに頬杖をついて寄りかかり、反対側の手でアルビオンニアからの手紙を持ってヒラヒラと振りかざした。


「卿らにもコレが届いたのか?」

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