レーマ帝国

帝都レーマ

第742話 レーマの支配者

統一歴九十九年五月九日、午前 ‐ 黄金宮ドムス・アウレア/レーマ



 ヴァーチャリア世界において最も長い歴史を誇る千年の都、それはレーマ帝国インペリウム・レーマの帝都レーマである。

 帝都レーマは北レーマ大陸セプテントリオナリウム・コンチネーンス・レーマエ北東部に位置する、七つの丘陵きゅうりょうに囲まれたレーマ盆地に建設された。一度は降臨者シィチュー・ダ・バァワン率いるチューア軍の侵略を受けて徹底的に破壊されてその軍門に降りはするものの、バァワンの死後にレーマは反チューア連合軍の盟主として復活を遂げ、結果的にバァワンが獲得した版図を丸ごと掌中しょうちゅうに収める大帝国へと成長した。そして現在では流れ込むティベリス川とアウェンティヌス川という二本の大きな川を利用した水運によって、世界最大の帝国の中枢として他に類を見ない繁栄を見せている。

 世界の半分を征すると言われる大帝国、そのありとあらゆる場所から人と物が流れ込む世界最大の都市は今も際限のない膨張を続けており、その人口は把握されているだけで約三十七万人とされているが、公式な記録に乗っていない貧民などを含まれば八十万人は下らないであろうと思われている。これは何年か前に起きた、帝都の四割を焼いたと言われる大火災『レーマ大火』によって数十万人もの死者・行方不明者を出した後の現在の数字だ。


 誰も数え切れぬほどの人々が暮らす帝都レーマ。その帝都が築かれた盆地の、文字通りド真ん中にレモリスと呼ばれる山がある。ティベリス川とアウェンティヌス川に挟まれたそれは山とはいっても実態は標高百ピルム(約百八十五メートル)もないであろう小さな丘にすぎないが、レーマの外郭をなす七つの丘陵を除けばその周囲には山とか丘とか呼べるような地形が何もないため、帝都のどこからでも見ることができ、その存在感は非常に大きい。

 その頂上付近には帝都レーマで最も大きく、最も豪華な建物が建てられていた。この世界最大の帝国の頂点に立つ男、マメルクス・インペラートル・カエサル・アウグストゥス・クレメンティウス・ミノール……すなわち、レーマ帝国皇帝の住まう『黄金宮ドムス・アウレア』である。


 《レアル》ローマ皇帝ネロの建てたとされる同名の宮殿ドムスにちなんで命名された宮殿であるが、実際に黄金で輝いているというわけではもちろんない。建物自体は大理石を積んで建てられた白く輝く外壁が特徴的な建物だが、しかし晴れた日の早朝だけは朝日を反射して黄金色に輝きを放つため、『黄金宮』の名はそれにちなむと一部では信じられている。ちなみに、夕日は西の丘陵にさえぎられるため、早朝に朝日を浴びている時ほど派手に輝いては見えない。

 とまれ、大帝国に君臨する皇帝が住まう宮殿だけあって、その威容は他の追従を許さぬほど壮麗そうれい極まるものであり、ふもとに広がる都市に住まうレーマ市民たちは日々それを見上げるたびに畏敬いけいの念を新たにしていた。自分たちの生活の場に常にあり、それでいて他では決して目にすることのできない何かを象徴するに足る存在……それはいつだって人々の愛着の対象となり、自慢の種ともなるのである。


 そうしたレーマ市民たちの畏敬の念を一身に集める男は、多くのレーマ貴族がそうであるように、日課である『朝の伺候しこう』を受けていた。被保護民クリエンテス保護民パトロヌスに対して行う『表敬訪問サルタティオ』である。

 レーマ皇帝インペラートル・レーマエにではなく、マメルクス個人に対して個人的な忠誠を誓う被保護民の『表敬訪問』は、マメルクスにとって皇帝としての公務以上に重要な意味を持っていた。レーマ皇帝の権威はレーマ帝国中どこへでも通用するが、その支配権はレーマ本国には及ばない。レーマ本国の防衛はレーマ皇帝に忠誠を誓う野戦軍コミターテンセスではなく、レーマ元老院セナートス・レーマエによって編成された近衛軍プラエトリアニが担っており、野戦軍はレーマ本国に入ってくることすらできない。そしてレーマ皇帝はレーマ本国はおろか、帝都レーマから外へ出ることも許されていないのだ。

 ここ帝都レーマではレーマ皇帝はレーマ市民の崇敬を集めてはいるが、その権威は元老院セナートスに及ばず、皇帝に忠誠を示すのは被保護民とわずかばかりの護衛兵……すなわち先導警吏リクトルのみなのである。帝国の最高権威でありながら、実質的には虜囚りょしゅうにも等しい自由しか持たない彼にとって、被保護民は自身の自由と安全とを保障してくれる貴重な存在なのである。ゆえに、レーマ皇帝にとって『表敬訪問』を受けることは他の上級貴族パトリキたちのそれ以上に重要にして神聖不可侵の務めとなっていた。

 しかし、今日はマメルクスのその神聖不可侵のはずの表敬訪問に無粋にも割り込んでくる者たちがあった。


「タウルス・アヴァロニクス……

 余は被保護民クリエンテス表敬訪問サルタティオを受けているところだったのだが、知らなかったよ。けいが余の被保護民クリエンテスに加わっていたとは……」


 波打つことを知らぬ神秘の湖のごとく磨き抜かれた大理石の床を傍若無人ぼうじゃくぶじんに踏み荒らし、ドカドカと無遠慮な足音を立てて目の前に現れた男たちを諦観ていかんにじんだ冷笑と嫌味で迎えると、招かざる客人は豪奢ごうしゃ玉座ぎょくざ気怠けだるそうに玉体ぎょくたいを沈めるマメルクスを見返しながら天井に響き渡るほどの大きな声で応戦する。


ごきげんようサルウェー皇帝陛下インペラートル

 もちろん陛下がレーマと共に在られる限り、私も陛下に忠誠を示すことはまったくもってやぶさかではありません。それを主従関係クリエンテラと呼んでよいのであれば、喜んで被保護民クリエンテスとなりましょう!」


 フースス・タウルス・アヴァロニクスはマメルクスの嫌味など気にする風でもなくそのまま返す。マメルクスはフーススの空虚なおべんちゃらにフンッと小さく鼻を鳴らし、背もたれに身体を預けたまま頬杖をついた。フーススにマメルクスに対する忠誠心など全くありはしない。そのことをマメルクスはよく知っていたからだ。

 レーマ皇帝は帝国の守護者であり最高権力者ではある。その権力者に対して忠誠を示すことは吝かではないというフーススの言葉自体には嘘はない。が、それはレーマ皇帝がという但し書きが付いている。ではその『レーマ』とは何なのか?

 皇帝であるマメルクスはと認識しているがフーススの認識は異なっていた。フーススの言う『レーマ』とはレーマ本国のことであり、帝国に所属する属州や藩王国などは必ずしも含まない。そしてレーマ本国の最高権威とは元老院であり、その元老院議員セナートルから選出され、国の運営を任された執政官コンスルである自分自身こそが、彼にとっては『レーマ』そのものであった。


 皇帝が私と一体の存在でいてくれるなら、皇帝忠誠を示しますよ……フーススはそう言っているのである。フーススの言う『忠誠』とは決して被支配者が支配者に対して示す服従ではなく、言ってみれば夫婦が伴侶に示す類のものだった。そしてそれは、レーマ皇帝マメルクス・クレメンティウス・ミノールの求めるものではなかった。


今代こんだい執政官コンスルであるけいが忠誠を示してくれるのはありがたいことだ。

 しかし今、余は余の被保護民クリエンテス表敬訪問サルタティオを受けるので忙しい。

 余に忠誠心があるのなら順番くらいは守ってほしいものだな。」


 ヤレヤレ……そう言わんばかりに両手を広げ、マメルクスは呆れを示しながら脇に控える侍従に視線で飲み物を要求する。 

 視線を逸らしてフーススをあしらおうとするマメルクスに対し、フーススは玉座の前に立ちはだかりながら身じろぎもしない。


「ご無礼は御赦おゆるしを……

 私も陛下への忠誠を思うならば順番を守るべきとは存じますが、陛下に示す忠誠以上に重要な案件が持ち上がったとなれば、悠長なことを言ってはおれません。」

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