第737話 二人の困惑
統一歴九十九年五月九日、午後 ‐ セーヘイム・
それからしばらく、アルトリウス・アヴァロニウス・アルトリウシウス子爵公子はセーヘイムのブッカ、ネストリを相手に他愛もない話を続けた。
ネストリ殿は交易のみならず漁業の方も網元でいらっしゃいましたな?ええ、おかげさまを持ちまして鯨から貝まで、手広くやらせていただいております。アルトリウシアの食を支えてくださるセーヘイムの漁師たちはアルトリウシアの至宝です。ありがたいお言葉です、閣下のお言葉を聞けば漁師たちは皆喜ぶことでありましょう。漁師だけではありません……そう魚売りたちも、あの者たちがいなければ我が領民たちの多くはその日食べるものを買い求めることもできません。おお、閣下が魚売りたちにまで気にかけてくださったとは!当然です、あの者たちも大切な我が領民、そしてアルトリウシアになくてはならぬ存在です。これは素晴らしい、魚売りたちも閣下のお言葉を聞けば誇りに思うことでありましょう。アルトリウシアの復旧復興のため、魚売りたちにも一層励んでもらわねばなりません。もちろんですとも、必ずや今日の閣下のお言葉を皆に知らしめましょう!さすれば魚売りたちも閣下の御心を知り、これまで以上に励むに違いありません。
はて、子爵公子閣下は何をしたいのだろうか?
ネストリの頭の中では疑問が頭をもたげていた。
迎賓館に集まった地元有力者たちは他にもいる。全員と挨拶を済ませたあとで、アルトリウスはネストリをわざわざ選び、椅子に座らせてまでして話をしようとしている。きっと何か用があってのことに違いない……だが、アルトリウスの口から出てくるのはごくありきたりな社交辞令以上のものではない。当たり
そしてアルトリウスはアルトリウスで困っていた。
アルトリウスの目的はリュキスカのことである。《
セーヘイムのネストリが魚売り女たちを使ってリュキスカを調べている‥‥‥
アルトリウスとしてはその事実を確認し、真意をただし、リュキスカについて嗅ぎまわるのをやめさせたかったのだ。
しかし、本当にネストリなのかどうか確証があるわけではない。リュキスカを調べているのがネストリ配下の魚売り女たちであるから、ネストリが黒幕なのではないかとリクハルドが
だが、どうやって確認する?
《陶片》の娼婦リュキスカを嗅ぎまわっているのはお前か?と、問いただすのはダメだ。もしそれでネストリがリュキスカを調べさせている張本人で無かった場合、非常にまずいことになる。
リクハルドとその一党の尽力によって事件はだいぶ忘れられてきているのだ。それなのにアルトリウスがリュキスカの名前を出したりしたら、再びアルトリウシア中の関心がリュキスカに集まってしまいかねない。子爵公子の言葉とはそれだけの影響力があるのだ。
「子爵公子様がリュキスカのことに関心をお持ちらしい。」
「リュキスカ!?あれはヒトの娼婦だったろ?」
「ハーフコボルトの貴公子様が何でヒトの娼婦なんかに御執心なんだ?」
「何かあるんじゃないのか?」
そんな噂話が
自慢じゃないが人が一人行方不明になるくらい、珍しい話ではないのだ。それなのに子爵公子という
それだけは、それだけは絶対に防がねばならん……
ではどうする?どうやってネストリがリュキスカのことを調べているかどうか確かめる?
どれだけ頭を回転させようとも、アルトリウスにその答えを見つけることはできなかった。とにかく話題を魚売り女たちへもって行こうとするのだが、持って行ったら持って行ったでどうやってリュキスカのことを調べているかを確認したらいいかがわからない。
事件に触れず、リュキスカの名前も出さずにどうやって……
「ネストリ殿のところの魚売りたちは、たしかリクハルドヘイムに多く行ってらっしゃるのでしたかな?」
「ええ?
ええ他にも色々行かせていただいておりますが……
まあそうですな、《
ひょっとして懇意の商人を
いや、それならそれでわざわざこうして話などするまでもないし、仮に話を通すにしてもこんな回りくどいやり方……
アルトリウスの真意がわからないままネストリは慎重に言葉を選ぶ。ネストリは確かに《陶片》の主だった店とは付き合いがあるが、別に《陶片》の店だけが商売相手というわけではない。
「あのあたりの様子はどうですか?」
「様子!?……でございますか?」
真意がつかめず困惑しているところへ来てあまりにも漠然とした質問にネストリは驚き、言葉に
「いやぁ……様子と申しましても……!!
ああ、そういえば!」
「何か!?」
それでも何かを思いついた様子のネストリにアルトリウスは思わず期待を膨らませた。だが自信たっぷりに答えたネストリの言葉はアルトリウスの期待とは全く異なるものだった。
「いえ!
そういえばこれまでセーヘイムから《
魚売りたちに成り代わり、謹んで御礼申し上げます。」
人は褒められるのが好きだ。感謝されるのが大好きだ。特に貴族たちは自分たちの功績を称えられることを非常に喜ぶ。だからネストリはてっきりウオレヴィ橋のことを感謝されたいのかと思った。ウオレヴィ橋の再建には子爵家がその費用全額をポンと出し、最優先で工事を進めるように命じたと
それでウオレヴィ橋再開通の恩恵を最も受けているであろうネストリに話しかけてきたのか……ネストリはそう確信した。だが、アルトリウスの反応から察するに違ったようである。
「あ、ああ……」
アルトリウスは何かすごく残念そうというか、肩透かしを食らったような呆けた返事を返してしまった。これにはネストリの愛想笑いも引きつらざるを得ない。
なに、これではなかったか!?
では一体、閣下は何をお求めなのだ???
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます