第736話 ネストリ
統一歴九十九年五月九日、午後 ‐ セーヘイム・
エルネスティーネ・フォン・アルビオンニア侯爵夫人の許を辞したアルトリウス・アヴァロニウス・アルトリウシウス子爵公子はそのまま
できれば養父ルキウス・アヴァロニウス・アルトリウシウス子爵を見舞いを兼ねて訪問して現状についていろいろと相談したり、恩師ルクレティウス・スパルタカシウスを訪ね、ルクレティウスが《
やむなく馬車でセーヘイムにある迎賓館へ乗りつけたわけだが、だからといってすぐにマルクスらが到着するというわけでもない。
このような状況である以上、時間は日時計を基にして昼間は日の出から日没までを十二等分し、夜間は日没から日の出までを十二等分するという
そのような社会であるからマルクスの到着も厳密にいつになるかは分かったものではない。本日の午後に到着すると伝書鳩で事前連絡が来ているが、実際には夕刻ごろであろう。しかし、まかり間違って早く到着し、出迎える側がまだ来ていないなどということになれば大切な客人を港で待たせることになりかねない。そのようなことを
であるから、アルトリウスはまだ実際にマルクスが到着するのはあと数時間先であろうとは承知の上で、あえてこの時間にセーヘイムへと来ていたのだった。
サウマンディアからの使者の船がトゥーレスタッドへ入港し、朝からトゥーレスタッドへ迎えに出ていたヘルマンニの船に移乗してセーヘイムへ到着するのはだいたいいつも夕刻になってからである。日のあるうちにはセーヘイムに上陸するであろうが、それでもあと数時間は待つことになるだろう。
忙しいアルトリウスはもちろん、この待ち時間を無駄にするほど贅沢でも
迎賓館には既に何人かの
一通り挨拶が済み、貴族たちが再び談話を始めるとアルトリウスはその目当ての人物へ話しかける。
「ネストリ殿、少しお時間をいただけるだろうか?」
室内にいた要人たちの中では比較的最初の方にアルトリウスへの挨拶を済ませ、その後少し離れたところで他の貴族と香茶と談話を楽しんでいた恰幅の良い初老のブッカは、アルトリウスの声に振り返ると少し大げさに驚いたような顔を作る。
「おお、もちろんですとも子爵公子閣下。」
目に警戒の色をわずかに浮かべながらも、頬をほころばせてネストリが答えると、それまでネストリと談話していた貴族たちは静かに黙礼して引き下がった。
「私なんぞに閣下のお相手が務まるかわかりませんが、これほどの名誉はありません。」
ネストリの、セーヘイムのブッカにしては訛りの少ない綺麗なラテン語は若いころからサウマンディウムやアルビオンニウムへ自ら足を運んで交易に励んでいた結果、自然と身についたものである。
「なに、そう身構えることはない。
ただ、セーヘイムでも有数の船主であるネストリ殿と一度話をしておかねばと思いましてね。」
「はっはっは、ヘルマンニ卿には及びませんが、確かに私はいささか船は多く持っております。
閣下のお力になれればよいのですが、今は私の船もすべて出払っておる有様でしてな。」
ネストリはヘルマンニの息子サムエルに娘を嫁がせており、セーヘイムでもかなりな有力者である。だが、だからといってこれまでアルトリウスのような上級貴族と接する機会があったかというとそれほどでもなく、特に子爵家とはそれほど懇意というわけでは決してない。アルトリウスと挨拶で言葉を交わしたのですら、これまで指折り数えられる程度のはずだ。にもかかわらず今日はアルトリウスの方から名指しで話を持ち掛けてきた。せっかくの機会ではあるが、そのあまりに予想外のことにさすがのネストリも用心深くならざるを得ない。
「いやいや、存じておりますとも。
今、セーヘイムの船が総出でアルトリウシアのために尽くしてくれていることについて、私はよく存じておりますし感謝もしているのです。
アルトリウスはそう言うと、近くにあった
「礼などと!
子爵閣下には常日頃よりよき治世にご尽力
アルトリウスとネストリは一つの円卓を挟むように互いに椅子に腰かけた。
「ネストリ殿の商売がうまく行っているのは喜ばしいことです。
セーヘイムの発展は我がアルトリウシアの発展そのものですからな。」
「そう言っていただければ我らも働き甲斐があるというものです。
先の事変では多くの被害が出ました。
多くの人々が不幸に見舞われ、我らも彼らを
先の事変とはもちろん
だが、そうした彼らに反感を抱く者もアルトリウシアにはいた。戦禍にまみれた自分たちの不幸を糧に金を儲けている……そういう批判も少なからず囁かれていたのである。理由はネストリ他セーヘイムの人たちが被害を免れていたこと、そして復旧復興を通じて莫大な利益を上げていることからである。
実際にネストリたちが莫大な利益を上げているかというとそんなことはなかった。被災者たちの目には食料も建築資材も衣料品も、ありとあらゆるものが値上がりしていて、どうしても商人たちが暴利をむさぼっているかのように映ってしまう。しかし、実際は物資の需要の急激な増大に供給が追い付かず、仕入れ値が上がりすぎてしまっていて売価に反映せざるを得なくなっているのであり、実は取引総額が増大しつつあるにもかかわらず利益率は大幅に下落していた。
しかし、被災した
ネストリはそうした庶民の声に気づいていたし気にもしていた。風評というのは恐ろしいものである。時に事実とは異なる噂話を真実と化し、現実の方を捻じ曲げてしまうこともあるのだ。悪党を義賊に祭り上げ、善人を極悪人に堕とすことも容易にしてしまう。それで失脚する貴族も少なくないし、逆にそれを利用して地位と名声を手に入れる者だっているのだ。そして既に一定の成功をおさめ、ある程度の地位と財産を手に入れた者にとって、風評はより大きな成功よりも、むしろこれまでの成功を破壊する可能性の方が大きいモノなのである。既に成功者たるネストリが自身の悪評を気にするのは当然であろう。
ネストリはアルトリウスが話しかけてきたのも、ひょっとしてアルトリウスがそうした被災者たちの声に、自分たちにかけられている在らぬ批判に耳を傾け、その代弁者を務めるためではないかと警戒したのだった。
「いやいや、ネストリ殿に限らず今商人たちが損得抜きに働いてくれていることは存じておりますとも。そのような後ろめたい気持ちなど、無用に願います。」
アルトリウスはネストリの警戒を解くべく、
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