新たな問題、残された問題

第733話 忙しい人

統一歴九十九年五月九日、昼 ‐ ティトゥス要塞司令部プリンキピア・カストリ・ティティ/アルトリウシア



 腰痛を悪化させたために療養に入ったルキウス・アヴァロニウス・アルトリウシウス子爵に代わって領主代行を務める甥で養子のアルトリウス・アヴァロニウス・アルトリウシウス子爵公子は、エルネスティーネ・フォン・アルビオンニア侯爵夫人の前に姿を現した時、レーマ帝国の正装トガではなく軍装に身を包んでいた。


 元々、アルトリウスは昨夜は家族の待つ『花嫁の家ドムス・ノヴス・スポンサ』に帰るか、それが無理ならせめてティトゥス要塞内にある養父ルキウスの邸宅プラエトーリウムに泊まるつもりでいた。

 ティトゥス要塞の内外にはアルビオンニア侯爵家とアルトリウシア子爵家以外にもスパルタカシウス家を始め貴族ノビリタス宿舎プラエトーリウムがいくつかあり、これを機にアルトリウスの方から顔を出しに行かねばならない用事も細々とあったし、ここのところ家族の許へも帰れていない。それらを一挙に片づけたかったのだ。

 しかし昨日はグナエウス街道でダイアウルフが荷馬車を襲撃したという報告が飛び込んできたために、それらの予定は全てキャンセルせざるを得なくなってしまう。アルトリウスはそのままマニウス要塞カストルム・マニへ舞い戻らざるを得なくなってしまった。


 そして今日、アルトリウスはグナエウス街道へ視察へ行くつもりでいた。

 アルトリウシア平野からセヴェリ川越しにアイゼンファウストをうかがっていたダイアウルフたち……アイゼンファウストの防備を固め、その上川越しとはいえ銃撃を浴びせた以上、しばらくは大人しくなるのではないかと期待していたのだが、残念ながらダイアウルフたちはアイゼンファウストから離れ、遠くグナエウス峠の方へ回り込んでしまった。

 せっかくアイゼンファウストの防備を固めたばかりだというのに、全くといって良いほど無防備な後方を遮断された格好になる。しかも、その遮断されたグナエウス街道はアルトリウシアにとって生命線といって良い重要な街道だったのだ。


 割ける戦力はほとんど残っていないが、かといって何もしないわけにはいかない。アルトリウシアの住民たちがこの冬を無事に越すために必要な物資が、特に建築資材の多くがグナエウス街道を通って届けられている。冬が訪れ、積雪によって街道が通行できなくなるまであと半月あるかどうかというタイミングで街道の安全が脅かされたのではたまったものではない。アルトリウスはアルトリウシアの防衛の最高責任者として現状を確認し、一日でも早くグナエウス街道の物流を再開させるべく、対策を講じなければならなかったし、そのつもりでいた。が、その予定は再び変更を余儀なくされる。エルネスティーネからの緊急の呼び出しがあったためである。

 元々の今日の予定がティトゥス要塞内での政務であったことを考えると、今日アルトリウスがティトゥス要塞に来ているのは、予定が二転三転した挙句元に戻ったと言えなくもない。


「アルビオンニア子爵公子、アルトリウシア軍団長レガトゥス・レギオニス・アルトリウシイ、アルトリウス・アヴァロニウス・アルトリウシウス閣下、御入~ぁ~いっ」


 名告げ人ノーメンクラートルが上げた口上に続いて入室してきたアルトリウスにエルネスティーネは微笑みながら挨拶をする。


「ようこそ来てくださいました子爵公子閣下。」


御召おめしより参上いたしました侯爵夫人マルキオニッサ。」


 具足ぐそくを鳴らしながら登場したアルトリウスが挨拶を返すと、エルネスティーネは改めてアルトリウスの姿に目を細める。


「今日は勇ましい御姿ですこと。

 子爵閣下はまだお戻りになられないようだけど、子爵公子閣下はもう軍団長レガトゥス・レギオニスにお戻りかしら?

 それとも軍団司令ドゥクス・レギオニスとお呼びした方がよろしかったかしら?」


 レーマ帝国の軍隊において最も規模の大きい部隊単位は軍団レギオーである。そして、その司令官には二種類の肩書があった。一つは『軍団長』レガトゥス・レギオニス、もう一つが『軍団司令』ドゥクス・レギオニスである。

 『軍団司令』ドゥクス・レギオニスのドゥクス【Dux】は「司令官」あるいは「王様」という意味であり「軍団の」を意味するレギオニス【Legionis】と組み合わせることで、「軍団の最高司令官」という意味になる。そして一般にレーマ帝国の軍団の最高司令官は名目上はレーマ皇帝が務めることになっている(ただし、地方領主が編成した辺境軍リミタネイの軍団は、その軍団を編成した領主が最高司令官になる)。

 だが、皇帝が自ら一人で多数の軍団を直接指揮することなど出来るはずもない。また、為政者でもある皇帝が国政をほったらかして自ら前線へ出るなど、まず現実的ではない。そこで用意されたポストが『軍団長』だ。

 『軍団司令』に代わって軍団の指揮を執る役職である。ラテン語でレガトゥス・レギオニス【Legatus Legionis】という役職名のレガトゥス【Legatus】の部分は元々「派遣される者」という意味であり、本来は「大使」とか「使節」などのことである。つまりレガトゥス・レギオニスとは「『軍団司令』の意思を軍団に伝える者」という意味の役職名であり、より厳密に日本語で表すなら「軍団長」ではなく「副司令官」あたりが原義に近い訳語になるだろう。

 アルトリウスは現領主であるルキウスに代わってアルトリウシア軍団レギオー・アルトリウシアの指揮を執る立場であるため『軍団長』レガトゥス・レギオニスという肩書を持っているが、アルトリウスの父である故・グナエウス・アヴァロニウス・アルトリウシウス初代子爵は領主でありながら自ら軍団の指揮を執っていたため、軍団では『レガトゥス』とは呼ばれず、『ドゥクス』と呼ばれていた。


 アルトリウスは普段は子爵公子として『軍団長』に就き、もっぱら軍人としての職務に専念しているが、今は養父ルキウスの代理も務めている。その間は領主業を務める都合上、軍装を解いて正装トガに身を包んでいるのだが、今日は軍装に戻っている。つまり軍人としての仕事をしているということだ。

 アルトリウスは軍団の司令官であるのと同時に、今は一時的にではあるが領主でもある。つまり、同じ軍装に身を包んではいても、普段の『軍団長』ではなく領主兼軍人として『軍団司令』と呼んでも差支えはないように思えなくもない。が、領主なのはあくまでも一時的に兼務しているだけであって、彼はあくまでも子爵であり、彼の肩書は公式には『軍団長』のままである。

 にもかかわらずここであえて『軍団司令』と呼ぶということは、彼が正式に家督を継いで領主になったことを意味してしまう。つまりエルネスティーネが「軍団司令ととお呼びした方がよろしかったかしら?」と尋ねたのは「もう跡を継いで領主になっちゃった?」と揶揄からかっているのだ。


「それはどうかご勘弁ください侯爵夫人。」


 アルトリウスはエルネスティーネの冗談に苦笑いを浮かべて首を振った。

 跡取り息子に「もう跡を継いだのか?」と尋ねるのは、特に不穏な冗談というわけではない。特にそれがアルトリウスのように、いつ跡を継いでもおかしくない年齢に達しているのであれば、それが微笑ましい揶揄からかい以上のものになることはないだろう。

 しかし、普段ならともかく今は非常の時だ。軍団長の仕事も領主の仕事も、どちらも忙しさは普段とは比較にならない。だというのに今のアルトリウスは軍団長としての役割も領主としての役割も果たさねばならず、多忙を極めている。アルトリウスが忙しすぎてかなり参っているようだという話は、エルネスティーネじゃなくてもアルトリウシアの貴族ノビリタスなら皆が皆よく知っていることだった。


「あら残念ね。

 今日は子爵閣下ルキウスのところへは行かれたのかしら?」


 エルネスティーネのその残念そうな態度は冗談めかしてはいたが半ば本心だった。エルネスティーネとしては老練ではあるがどこか不真面目で変にふざけたがるルキウスよりも、真面目で働き者のアルトリウスの方が付き合いやすいのかもしれない。


「いいえ、まだ」


「あらそう。

 私は昨日、あのあと閣下にお会いしたのだけど、閣下は早く隠居したくてたまらないようでしたよ?」


「それは困りましたな。

 養父上には片づけていただかねばならない仕事が溜まっています。

 隠居するなら、せめてもう少し綺麗に片づけてからにしていただかないと……」


「そうねぇ……

 腰を痛めたというから心配してせっかくお見舞いしてみたのに、奥様に甘えて…

 私たちに仕事を押し付けて一人だけ一足早く隠居生活を楽しんでるなんて、思いもよらなかったわ。」


「養父は明日を信じませんからね。その日を摘む機会を逃したくないのでしょう。」


 明日を信じず、その日を摘めカルペ・ディエム・クゥアム・ミニムム・クレドゥラ・ポステロ……


 ルキウスが常々口にしているホラティウスの詩の一節になぞらえてアルトリウスがそういうと、エルネスティーネはコロコロと笑った。

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