第732話 交換条件

統一歴九十九年五月九日、午後 ‐ エッケ島・エックハヴン/アルトリウシア



 ハン支援軍アウクシリア・ハンのモードゥは得意げに胸を張った姿勢のまま、ピタリと笑顔を凍り付かせた。

 ハン支援軍は先月十日に蜂起した際、海軍基地城下町カナバエ・カストルム・ナヴァリアから二百人もの女性と水兵たちをさらってきている。女性はハン族の子を産ませるために、水兵たちは船を動かす人夫としてだ。そのままアルトリウシアから脱し、南蛮の地に広がるという無人の新天地へ向かうはずだったが、残念ながら旗艦『バランベル』号が座礁し船体を傷つけてしまったために、アルトリウシア湾から出ることすら叶わなかった。おかげで今もこうしてエッケ島へこもっている始末であり、レーマ軍の手の届くエッケ島にとどまっている以上、攫った女たちや水兵たちの返還を迫られている。

 彼らはハン支援軍が保護した避難民であり、自発的にハン支援軍への協力を申し出た協力者であり、またメルクリウス団の容疑者である。よって、調べが終わるまでは返せない……冷静になって考えてみるまでもなく無茶苦茶な論法でハン支援軍は人質たちの返還を拒んでいた。が、いずれは返さねばならないという点ではどうしたところで同意せざるを得ない。やむなく、基本方針として人質たちを解放し、容疑者たちは引き渡すという約束をしまった。


 だがハン族としても簡単に返すわけにはいかない。

 ハン族には子孫を増やすための女性が必要だったし、何よりも彼ら彼女らをこのまま返せば、蜂起した日の出来事について、そしてエッケ島にいる間の出来事や待遇について、見たままそのままを証言してしまうだろう。それはハン支援軍叛乱の証拠を与えるようなものだ。せっかくイェルナクが叛乱の事実を揉み消すためにぶち上げたメルクリウス団陰謀説も根拠を失ってしまうに違いない。

 せめて攫ってきた女性たちが身籠るまでは返還を引き延ばさねばならない。もし身籠れば「彼女らはハン支援軍兵士と恋に落ち、既に夫婦となったのだから『返す』というわけにはいかない。彼女たちは既にハン族に嫁入りしたのだ。」と、返還要求を突っぱねることができるはずだ。そのための時間稼ぎの手段の一つ……それが名簿作成だったのである。


 実際にハン支援軍が捕えたのは誰なのか、誰が容疑者で、誰が協力者なのか……まずは名簿を作成し、それを引き渡して吟味する。返還するのはその後だ。

 そういう手順をまず作り上げ、その手順を踏むために必要となる名簿作成をわざと遅らせる。名簿作成を遅らせている理由は……イェルナク以外に文字が書ける者がいないのでイェルナク一人で名簿を作成しなければならずどうしても時間がかかっている……というものだった。名簿作成をしているイェルナクが軍使レガトゥス・ミリトゥムとしてあちこちに出張しているのも、名簿作成遅延の言い訳の一つとなっていた。

 だがここでモードゥは自分も文字を読めるし書けると言ってしまった。イェルナクが言っていた「字が書けるのは自分だけ」という言い訳を、モードゥが自ら否定してしまったのである。


「そうだよなぁ、こうしてリストを見ながら補給物資の確認をし、おまけに受け取りにサインだってしてるんだもんなあ?」


 そうだ、なんで気づかなかったんだ……セーヘイムの郷士ドゥーチェヘルマンニの側近ヨンネ・レーヴィソンは身体ごとモードゥに向き直り、モードゥの顔を覗き込もうとする。

 つまらないことで馬脚を現してしまったモードゥは必死に言い訳を考えるために頭を回し始めた。


「やっ……それは、その……」


「そうだろう?

 イェルナクはただでさえ普段からあっちこっち行ったり来たりしてんのに、今はサウマンディアへ渡っちまってんだ。名簿作成なんて止まっちまってんだろ?

 でもアンタが代わりに作ればすぐなんじゃないのかい?」


 モードゥは必死にヨンネから視線を逸らせるが、ヨンネの顔が、声がほころんでいるのは明白だ。


「ま、待てヨンネ殿。

 わたっ、私は確かに読み書きできるが、読み書きできるのはラテン文字だけなんだ。ランツクネヒトの文字や、其方そなたらブッカのルーン文字は私にはわからん。

 それらがわかるのはイェルナク様だけなのだ。

 だから、私には……無理なのだ。」


 しどろもどろになりながら答えるモードゥの言い訳はいくらなんでも苦しい。確かにセーヘイムのブッカたちは独自の言語を持ち、ルーン文字を使って読み書きするが、レーマ帝国に属する以上はラテン語だって話せるしラテン文字だって使える。


「ラテン文字で十分じゃねぇか! だいたいランツクネヒト族なんか含まれちゃいないんだろ!?

 それともヒト種の人間も居るのか!?」


「いやっ、それはっ……そのっ……」

 

「ブッカの名前だってルーン文字で書かなきゃいけねぇって法は無ぇぜ?

 ラテン文字で書きゃいいんだ。

 アンタの持ってるその書類だってラテン語だし、その書類の俺のサインだってラテン文字じゃねぇか!

 ラテン文字で名簿作ってくれりゃいいんだよ。」


 名簿を作っているのがイェルナクだけで、そのイェルナクは対外折衝で忙しく名簿を作る時間が無いため名簿の作成が遅れている。何故イェルナクだけで名簿を作っているかと言えばイェルナク以外は文字の読み書きが出来ないからだ……その言い訳が崩れてしまった。元々、そんな言い訳自体に無理があったのだからこうなるのも当然で時間の問題だったといえるだろう。

 しかし、モードゥにとってそれはいきなり過ぎたし、しかも自分がその原因になってしまったとあってはイェルナクにはもちろん、他のハン族王族たちに顔向けできなくなってしまう。


「だっ、だっ、ダメだ!」


 モードゥは何かを振り切るように言い切ると話を無理やり打ち切る。


「名簿の件はイェルナク様が所管なさっておられることだ。

 私が勝手なことをするわけにはいかん。

 ほらっ、次だヨンネ殿。干し肉は終わったぞ?」


「お、おう……次はワインだ。」


 ヨンネはモードゥの態度の急変に戸惑いながらも、荷下ろしの作業が次の弾かにへ進んでいたのも事実であったため、モードゥに促されるままに作業を再開する。

 モードゥの方はまた話題が名簿に戻らないよう、そのまま畳みかけるように話題を別の方へ移そうとした。


「ワインか……ヨンネ殿、また安ワインロラばかりなのか?」


 モードゥは先刻までの会話など全く忘れてしまったかのように顔をしかめた。


「ああ?

 ああ当然だろ、兵士レギオナリウスに配給されるのは安ワインロラと決まってるんだから。」


 『ロラ』とはワインのなかでも最下級のワインであり、ブドウから果汁をしぼった後の搾りカスを水に浸し、味が染み出た液体を原料に作るワインである。産廃をリサイクルして作ったと言って良いワインで、とにかく安いことだけが取り柄であり、レーマでは貴族ノビリタスなら絶対に口にしないと言われている安酒『麦酒アリカ』のさらに半部ほどの値段しかしない。ほぼ、奴隷や貧民用のワインとされている。もちろん、味や風味など褒められたものではない。

 レーマ軍では兵士への配給物資にワインが含まれているのだが、それは基本的にこの安ワインロラであった。不味い酒を配給されて兵士から不満が出るのではないかと心配になってくるが、そもそも配給されるのは飲んで酔っ払うためのワインではなく、生水に少量混ぜることで安全に飲めるようにするための消毒用であるため、アルコールさえ入っていれば味や風味などが優れている必要など無いのである。


「ヨンネ殿、ゴブリン兵どもには安ワインロラでも十分だが、我がハン支援軍アウクシリア・ハンには我々のような王族ホブゴブリンもいるのだ。

 王族には王族にふさわしいワインが配給されて然るべきではないか?」


 不平不満を言って相手を申し訳ない気持ちにさせ、優位に立とうとするのはハン族の悪い癖であった。だが、実際には何の落ち度もないのにそのような不平不満をぶつけられたところで相手には迷惑でしかない。第三者の目のある場所であれば、体面を気にする商人は自分に落ち度は無いと確信していたとしても、外聞を気にしてあえて相手の無理難題を飲むこともあるが、ここはハン族とセーヘイムの船乗りしかいないエックハブンである。モードゥになじられたところでヨンネには痛くもかゆくもなかった。

 モードゥの期待とは裏腹にヨンネはモードゥの不満を鼻で笑い飛ばした。


「そいつぁ補給物資にゃ含まれてねぇな。

 隊長さんトリブヌスたちは自分たちが飲む分は自分で買うもんだ。

 コイツぁ兵士レギオナリウス用なんだから安ワインロラなのは当然だろ。

 欲しけりゃ、自分で金出して買うんだな。」


「どこで買えというのだ?

 ここではそんなもの売っておらん。」


「それこそトゥーレスタッドへでも行って、交易船から直接買えばいいだろ?

 セーヘイムまで来るならいくらでも売ってやるぜ。」


 ヨンネのカウンターパンチで話題は全て振り出しに戻ってしまった。ディンキジクにトゥーレスタッド偵察を命じられたモードゥはトゥーレスタッドへ行きたくないがためにヨンネに話を持ち掛けたのに、補給物資への要らぬ不満を口にしてしまったがために結局トゥーレスタッドへ渡るようヨンネからも言われてしまった。


「そんなこと出来るわけないではないか!」


 思わずモードゥは声を荒げる。


「私は忙しいのだ。

 トゥーレスタッドへなど渡ってる暇はない。

 ましてセーヘイムなど……イェルナク様のような軍使レガトゥス・ミリトゥムならともかく、たかが買い物みたいな私事で勝手に島を離れられるわけないだろ?!

 脱走兵だって取り締まれなくなってしまうじゃないか!」


 ヨンネに揶揄からかわれ、もてあそばれているような気分になったモードゥは気を悪くしてしまった。声を低くし、さも面白くなさそうにブチブチと尖らせた口で文句を言う。

 プイッとそっぽを向いてしまったモードゥを見ながらヨンネは呆れ、そして少しばかり考えた。そして何かを思いつき、ニヤリと笑う。


「ワインか……特別用意してやってもいいぜ?」


「!……本当か、ヨンネ殿?」


 モードゥは我が耳を疑いつつヨンネの方を振り返る。


「ああ、何なら飛び切り上等の奴を用意してやってもいい。

 ただし、交換条件がある……」

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