第725話 青年将校

統一歴九十九年五月七日、夜 - グナエウス峠山中/アルトリウシア



 アルトリウシア軍団軍団長レガトゥス・レギオニス・アルトリウシイアルトリウス・アヴァロニウス・アルトリウシウス子爵公子から現地の視察を命じられた筆頭幕僚トリブヌス・ラティクラウィウスラーウス・ガローニウス・コルウスと軍団幕僚トリブヌス・ミリトゥムゴティクス・カエソーニウス・カトゥスは、荷馬車の襲撃現場を視察するとグナエウス峠における最初のダイアウルフ襲撃事件と思われる現場に来ていた。街道から半マイル(約○・九キロメートル)ほど離れた森の中だ。

 

 木々に覆われた山林にぽっかりと空いた平地には真ん中に大きな炭焼き塚が築かれ、その上を覆うように巨大な天幕が張られていた。天幕によって雨から守られていた塚からはまだモヤモヤと薄紫色の煙が染み出すように湧き出ており、それがすすで黒ずんだ天幕に一度ぶつかると行き場を探すようにそのまま横へ流れ、やがて天幕の端まで来ると改めて上昇を再開し、鉛色をした空へと溶け込んでいく。

 街道からここへ来る途中に急に発生したガスは今は晴れているが、代わりに音もなくシトシトと雨が降り続いている。森の中にいた時は頭上を覆う木々の葉に遮られた雨は大きく重たい雫となってポタッポタッと垂れ落ちていたが、ここではそのようなことはない。むき出しになった地面に直接降り注ぎ、残されていた惨状の痕跡を静かに洗い流していく。

 犠牲者の死骸は今日の午前中、ラーウスたちが来るのとほぼ入れ違いに運び出されていた。もはや惨殺の現場に漂っていた血と糞尿の臭いは雨に洗い清められていた。それでも地面にはおびただしい血痕が生々しく残されていたのだが、それも雨によって流され、急速ににじみ、薄れつつある。


「ここが、そのなのか?」


「犠牲者の仲間が荷馬車が襲われる前の夜、中継基地スタティオに助けを求めて駆け込んでいます。

 荷馬車を襲う前に、ここを襲ったのは間違いありません。」


 山中を歩く間に汚れてしまった足元を気にしながらラーウスが尋ねると、ゴティクスは憮然とした表情のまま答えた。荷馬車の事故現場の様子から、こちらへは来なくていいとゴティクスは言ったのだが、ラーウスはどこか意固地になっていたようでここまでついて来てしまったていた。


 ラーウスは帝都レーマで元老院議員セナートルも排出する上級貴族パトリキの家柄で、レーマの兵学校を優秀な成績で卒業した秀才だ。間違いなくデキは良いのだが、家は兄が継ぐため実家を出なければならなかった。そして、父の口利きによってアルトリウシア軍団レギオー・アルトリウシアに入隊し、筆頭軍団幕僚の地位に就いている。

 貴族ノビリタスの家に生まれながらも家督を継ぎ、何の苦労もなく貴族の身分とその特権を享受きょうじゅできるのは長男だけであり、次男三男は長男の予備にすぎない。そして長男が無事に家督を継ぐとなれば弟たちは必要なくなり、家を追い出されて己の才覚だけで生きていかねばならなくなる。これはほとんどの封建的貴族社会における共通の現象だった。ラーウスもそうした貴族の一人なのである。

 そして貴族社会の御多分に漏れず、レーマ帝国でも立身出世のためには何よりもまずコネが重要だ。個人の資質や実力よりも、コネが強い方が出世しやすい。どれだけ資質や実力に優れていようとも、まずそれを認めさせる機会を得るためにコネが必要になるからだ。

 ところが、ラーウスのような貴族の次男坊三男坊は実家のコネに頼りたがらない傾向があった。自分を不要として切り捨てる実家に対する反発のようなものを共通して持っており、己の才覚によって身を立てたいという願望が人一倍強い。特に、実際に何らかの分野で優れた才覚を持っている人物となると猶更なおさらで、ラーウスのように兵学校で優秀な成績を残すなど客観的に見ても十分な資質を持っているとなると余計に成功をおさめ、実家を見返してやろうという意識が強くなってしまう。

 そんなラーウスであるから今の筆頭幕僚という地位に対し、どこか複雑な想いを抱いていた。


 ラーウスは本当はもっと良い軍団レギオー……たとえばアルトリウシア軍団のような辺境軍リミタネイではなく、皇帝インペラートル直轄の野戦軍コミターテンセスに入隊することも出来たはずだった。事実、彼の父も東部方面軍コミターテンセス・オリエンタレムへの就職口を用意してくれていた。

 東部方面軍は帝国版図拡大の主戦線に位置付けられ、帝国野戦軍でも最も活力に満ちた方面軍だ。東方の蛮族は決して脆弱ではないが、レーマ側の兵力が充実しているため優位に戦えていると評判である。そして版図拡大に成功すればラーウスのような貴族の次男坊三男坊であっても、新領土の領主という地位を獲得する可能性があるのだ。

 このため、東部方面軍はラーウスのような青雲の志を抱いた青年たちがこぞって入隊したがる花形部隊であったが、ラーウスは実家への反発から父が用意してくれた就職口を蹴っていた。そして、同じ帝国版図拡大の最前線ではあるが、決して主戦線ではなく、乏しい戦力で強力な南蛮軍と対峙し、損害も大きく過酷だとして貴族たちからは倦厭けんえんされがちな南部方面の、それも野戦軍ではなく辺境軍のアルトリウシア軍団への入隊を果たしたのだった。


 ここで俺の才覚で南蛮軍を蹴散らし、華々しい戦功を上げてやる。

 俺の名を帝国中にとどろかせてやる!


 だがそんな彼の野望はいきなり水を差されてしまう。普通、兵学校を出た貴族の子弟が軍団に入隊すると百人隊長ケントゥリオに就くものなのだが、入隊したばかりのラーウスに用意されたポストは幕僚トリブヌスであった。しかも筆頭幕僚……軍団長レガトゥス・レギオニスに次ぐ軍団の最高位である。これにより最前線の一兵卒から己の才覚でし上がり、実家を見返してやるという彼の夢はいきなり頓挫とんざしてしまった。実家の父の余計な口利きのせいであった。


 結局、実家の力で出世している……


 それは結果的に彼に歪んだコンプレックスを与えることになってしまった。それは己の才覚を周囲に認めさせてやるという願望まで捻じ曲げてしまうほどの影響は無かったが、むしろそうであるがゆえにラーウスは自身を現場に、前線に身を投じたがる妙な傾向を持つようになってしまっていた。最前線から伸し上がるという諦めざるを得なかった夢に少しでも近づくために、そして実際に前線で戦う者たちに、自身が果たせなかった夢の中に身を投じている者たちに対する、彼の勝手な劣等感のために……。

 必要もないのにゴティクスの視察についてきてしまったのは、彼のそうした心情を故のことであったが、ゴティクスにはもちろん、周囲の者たちにとっては関係のないことであった。


 人にはそれぞれ領分というものがある。

 後方で事務処理をするのも立派な仕事であり、その任務そのものに優劣も貴賤きせんもない。ラーウスは前線で泥まみれになって戦うより、後方で事務処理をしたり、作戦を練ったり、他の部署や御用商人と折衝したり、上級貴族らに応対したりといった仕事が得意だ。事実、若いくせに年長のゴティクスやほかの幕僚たちよりよっぽど上手にやってのけるくらいなのだ。


 焦る気持ちは分らんでもないが、素直に得意分野そっちで頑張ればいいのに……


 寒さを凌ぐには薄すぎる外套パエヌラに固く身を包んだまま雨にたたずむラーウスの後ろ姿に、ゴティクスは静かにため息をついた。


「ロホスと言ったか?」


 無駄なことを考えていてもしょうがない。ゴティクスはここまで彼らを案内してくれた炭焼き職人に声をかける。呼ばれた炭焼き職人は現場に来たことで一昨夜の惨劇を思い出したのか、それとも単に寒いからなのか、青い顔をしてわずかに震えているようだったが、ゴティクスの声にビクっと身を震わせて反応する。


「ヘイっ」


「ご苦労だが、説明してもらおうか?」

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