反撃の糸口
第724話 事故現場
統一歴九十九年五月九日、午前 - グナエウス街道/アルトリウシア
昨日早朝、最大級の大型重量貨物馬車がダイアウルフの襲撃を受けて事故を起こした現場は既にある程度片づけられ、交通に支障のない程度に機能を復旧している。しかし、それは街道としてはという意味であって、交通そのものが事故以前の状態に復帰していたわけではなかった。
事故が発覚してから即座にグナエウス街道の交通が遮断され、最寄りの
しかも事故を起こした馬車の
乗っていた
事故を知らずに通りがかった他の荷馬車も次々と現場に差し掛かるとそのまま足止めを食らい、現場には間もなく渋滞が起き始め騒然となった。
それらの荷馬車を動員して
結局、ほかの
人海戦術によって瓦礫や馬の死骸が撤去され、何とか交通に差支えのない程度に街道が復旧したのは夕方になってからのことで、その日は事実上グナエウス街道を通じての物資輸送は完全に停止してしまったことになる。
いつ、ダイアウルフに襲われるかもしれない……そのような場所を走りたがる御者はいなかったし、現在のアルトリウシアにとって、そしてアルビオンニアにとって、一台一台が貴重な輸送手段となっている荷馬車に損害が出る可能性がある以上、荷主たちも領主も荷馬車に「走れ」と命じるわけにはいはいかなかったからだ。
実際、事故現場で一旦渋滞を起こし、やむなくグナエウス砦やアルトリウシア、あるいは最寄りの
しかし、だからといって荷馬車を全く走らせないわけにもいかない。アルトリウシアはグナエウス峠が雪で封鎖される前に運び込めるだけ救援物資を運び込む必要性に迫られており、それは物資を送り出す側のライムント地方の
もっとも、一昨年の火山噴火で演習中に火砕流の直撃を受けた
特にリュウイチの降臨と
現在、グナエウス峠の
「冗談ではないぞ、こんな時に‥‥‥」
馬車から降り立ったアルトリウシア軍団の
「連中がしたいのが我々に対する嫌がらせなのだとしたら、見事に成功していると言えますな。」
ラーウスの口元から再び白い息が盛大に広がる。
「そのような冗談を今は聞きたくないな。
ただでさえ問題が山積みなんだ!」
天を
「問題は解決されなきゃいけない。
私が今、欲しているのは解決策だ。
山積みになっている問題と、そしてこの寒さのだ。」
彼らの上官であるアルトリウス・アヴァロニウス・アルトリウシウス子爵公子はハーフコボルトで寒さに強く、泳ぎも得意だが彼らは違った。純然たるホブゴブリンである彼らの身体は皮下脂肪が少なく、寒さも泳ぎも苦手である。特に彼らの先祖はアルビオンニアよりずっと暖かいアヴァロニアの出身なのだ。それでもまだアルビオンニアで生まれ育ったゴティクスは寒さへの慣れが多少はあったが、帝都レーマで生まれ育ったラーウスの方は寒さへの耐性など全くない。ラーウスは今にも歯が鳴り始めるのではないかと思えるほど、顔を青ざめさせて寒さに耐えている。
「山の上は仕方ありません。
グナエウス峠は、麓のアルトリウシアより一か月は早く冬が来ますからな。」
「それは解決策と言えるのか?」
恨みがましい視線を向けるラーウスに対し、ゴティクスは呆れを噛み殺しながら言った。
「諦めるのも一つの解決策ですよ。」
ラーウスは普段、毅然とした態度でテキパキとした働きを見せる優秀な官僚ではあるが、その本質は帝都レーマの
何で自分がこんな目に合わなきゃいけないんだ……無意識から沸き起こるそうした感情を抑えきれず、まるで子供のように周囲に甘えてしまうのである。決して無能な男ではない、むしろ優秀な部類に入る方なのだが、まだ自分を完璧に律するにはさすがに若すぎるのであろう。
ゴティクスを始めアルトリウシア軍団の
「それが解決策にならない場合もあるぞ。
まさかグナエウス街道の輸送を諦めるわけにはいかないだろ!?」
どのみちあと半月もしないうちに雪が降りだし、諦めざるを得ないのですけどね……さすがのゴティクスもその一言を口にするほど愚かではなかった。
「その通りです。」
詰め寄るラーウスから視線を離すようにゴティクスは身体の向きを変えた。事故の起きたカーブから登りと降りの両方の道を交互に見比べる。
「御覧なさい、敵ながら上手い場所を選んだもんだ。」
ゴティクスは事故を起こした馬車が走ってきた登りの方を指さす。
「長くまっすぐな下り坂の後でこのカーブだ。
速度は出やすいが、重量を積んだ馬車は速度を十分に落とさなければ絶対に曲がれない。
この下り坂でダイアウルフが姿を見せれば、馬は怖がり、速度を落とすどころか加速して逃げようとするでしょう。リスクを冒して実際に襲い掛かるまでもなく、馬車は勝手に自滅することになる。」
「たまたまじゃないのか?」
ラーウスの呈した疑問をゴティクスは否定した。
「どうでしょう?
たまたまだとしたらこんな見通しの良い直線で襲撃するでしょうか?
襲うつもりならむしろ、見通しが悪く馬車の速度が落ちるような場所で襲うんじゃないですかね?」
どうでしょう?などという一見自信無さげな言葉を使いながらも口元に半笑いを浮かべるゴティクスに、ラーウスは自分の考えをゴティクスは全く取り上げる価値のないものとして否定していることに気づいていた。
ラーウスの視線を無視しながらゴティクスはそのまま続ける。
「たとえばあそこのカーブの向こう側は
すぐ近くに襲撃に適した場所があるのに、わざわざこんな場所で襲っている……たまたまではなく、むしろ意識して狙ったと見た方が無理がないのでは?」
ゴティクスからすればこの説明はまだ若い、それでいて自分より上位のラーウスに対する教育指導のようなものだった。ラーウスは寒さに対する不満から普段の明晰な思考を鈍らせている。そのことに対する𠮟責も、彼が口元に浮かべた嘲笑には含まれていたのかもしれない。
ラーウスは面白くなさそうな顔をしてゴティクスが指示した街道の様子を改めて見直した。この寒さとゴティクスの態度は面白くないが、ゴティクスの意図に気づくだけの聡明さがラーウスには備わっていたのである。
「ダイアウルフにそのような思考ができるものなのか?
ダイアウルフの頭がいいことは知っているが、幾度かこの場所での経験を積んだのならともかく、初回の襲撃でそれを成功させるほどの頭脳があるとは思えん。」
ゴティクスの意図に気づき、そして自分を恥じはしても、ゴティクスに対する反発まで抑えきれないのはラーウスの若さか、あるいは
「その通りです。
いくらダイアウルフが賢い動物だからといって、初めての狩りでこの地形を利用するほどではありません。ということはつまり……」
ラーウスの方に振り返ったゴティクスの顔に笑みが浮かぶ。それは先ほどまでのラーウスに対する呆れや嘲笑などとは明らかに性格の異なるものだった。
「この地形を利用する頭のある者が、ここでダイアウルフに荷馬車を襲わせたということです。」
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