反撃の糸口

第724話 事故現場

統一歴九十九年五月九日、午前 - グナエウス街道/アルトリウシア



 昨日早朝、最大級の大型重量貨物馬車がダイアウルフの襲撃を受けて事故を起こした現場は既にある程度片づけられ、交通に支障のない程度に機能を復旧している。しかし、それは街道としてはという意味であって、交通そのものが事故以前の状態に復帰していたわけではなかった。

 事故が発覚してから即座にグナエウス街道の交通が遮断され、最寄りの中継基地スタティオに駐留する警察消防隊ウィギレスによって応急で事故処理が始まったわけだが、何せ事故ったのは重量馬八頭でく大型馬車である。カーブを曲がり切れずに横転した馬車から投げ出された木材はそれこそ山のように積み重なって、大破した馬車の残骸とともに街道を塞ぎ、とてもではないが駆け付けた警察消防隊数人程度の力で撤去できるようなものではなかった。


 しかも事故を起こした馬車の引馬ひきうまのうち二頭が殺され、内一頭は食われていた。残りの馬も転倒し、一部は馬車や積み荷が当たり、あるいは下敷きになったためにほぼすべての馬が大なり小なり怪我を負っている。まだ生きていた馬六頭のうち、半数はその後安楽死させざるを得ないありさまであった。

 乗っていた御者ぎょしゃも死亡していた。同乗していた御者の助手は生き残っていたが馬車が横転した拍子に投げ出されたために重症を負っており、一夜明けた今でもなお意識不明のまま生死の境を彷徨さまよっている。


 事故を知らずに通りがかった他の荷馬車も次々と現場に差し掛かるとそのまま足止めを食らい、現場には間もなく渋滞が起き始め騒然となった。

 それらの荷馬車を動員して瓦礫がれきや馬の死骸の撤去をとも考えられたが、あいにくとそれらの荷馬車はいずれも積み荷を満載しており、瓦礫を片づけてどこかへ運び出すことなど出来ない。そもそも馬車馬も御者たちも凄惨な事故現場に、特にダイアウルフに食い散らかされた重量馬の死骸に怯えきっており、いつダイアウルフが再び襲い掛かってくるかもしれないという不安もあって、警察消防隊の協力要請に応じようとはしてくれなかった。


 結局、ほかの中継基地スタティオからも警察消防隊が応援に駆け付け、彼らの交通整理によってその場に集まってしまった荷馬車が現場から退去し、周囲が静かになったのはもう昼も近くになってからであり、アルトリウシアから軍団兵レギオナリウスが駆け付けて復旧作業が本格化したのは昼を過ぎてからのことだった。

 人海戦術によって瓦礫や馬の死骸が撤去され、何とか交通に差支えのない程度に街道が復旧したのは夕方になってからのことで、その日は事実上グナエウス街道を通じての物資輸送は完全に停止してしまったことになる。


 いつ、ダイアウルフに襲われるかもしれない……そのような場所を走りたがる御者はいなかったし、現在のアルトリウシアにとって、そしてアルビオンニアにとって、一台一台が貴重な輸送手段となっている荷馬車に損害が出る可能性がある以上、荷主たちも領主も荷馬車に「走れ」と命じるわけにはいはいかなかったからだ。

 実際、事故現場で一旦渋滞を起こし、やむなくグナエウス砦やアルトリウシア、あるいは最寄りの中継基地スタティオへ戻る途中の荷馬車の御者たちが幾度か街道からダイアウルフを見たと報告してきており、荷馬車の御者たちの間に急速に不安と恐怖とが伝染病のように広がってしまっていた。


 しかし、だからといって荷馬車を全く走らせないわけにもいかない。アルトリウシアはグナエウス峠が雪で封鎖される前に運び込めるだけ救援物資を運び込む必要性に迫られており、それは物資を送り出す側のライムント地方の貴族ノビリタスや商人たちにとっても同じだった。やむなく、特に重要な建築資材を運搬する貴重な大型馬車には騎兵隊エクィテスの護衛を付けての輸送が再開されている。


 もっとも、一昨年の火山噴火で演習中に火砕流の直撃を受けたアルトリウシア軍団レギオー・アルトリウシアアルビオンニア軍団レギオー・アルビオンニアとともに騎兵戦力の大半を喪失しており、その損害から未だに立ち直れていない。騎兵の補充は歩兵よりもずっと金も時間も必要だからだ。

 特にリュウイチの降臨とハン支援軍アウクシリア・ハンの叛乱が同時に起きた先月以降、アルトリウシア軍団の騎兵隊は早馬タベラーリウスとしての任務が激増しており、ルクレティア・スパルタカシア・リュウイチアのアルビオンニウム行きに二個騎馬小隊デクリアもの戦力が護衛に加わったこともあって、割ける戦力は限られている。

 現在、グナエウス峠の哨戒しょうかい強化と荷馬車の護衛のために三個騎兵小隊二十四騎が動員されていたが、それはアルトリウシア軍団が緊急で投入できる騎兵戦力のすべてであった。


「冗談ではないぞ、こんな時に‥‥‥」


 馬車から降り立ったアルトリウシア軍団の筆頭幕僚トリブヌス・ラティクラウィウスラーウス・ガローニウス・コルウスは、事故現場の路面に残る事故の際にできた傷跡を見下ろしながら毒づいた。同行してきていた軍団幕僚トリブヌス・ミリトゥムのゴティクス・カエソーニウス・カトゥスはラーウスの吐き出した愚痴がその口元を白く曇らせるのを見ながら、自分に対して言われたわけでもないのに律儀に答える。


「連中がしたいのが我々に対する嫌がらせなのだとしたら、見事に成功していると言えますな。」


 ラーウスの口元から再び白い息が盛大に広がる。


「そのような冗談を今は聞きたくないな。

 ただでさえ問題が山積みなんだ!」


 天をあおいで嘆くように言うと、ラーウスはくるりと身体ごとゴティクスの方に振り返る。


「問題は解決されなきゃいけない。

 私が今、欲しているのは解決策だ。

 山積みになっている問題と、そしてこの寒さのだ。」


 彼らの上官であるアルトリウス・アヴァロニウス・アルトリウシウス子爵公子はハーフコボルトで寒さに強く、泳ぎも得意だが彼らは違った。純然たるホブゴブリンである彼らの身体は皮下脂肪が少なく、寒さも泳ぎも苦手である。特に彼らの先祖はアルビオンニアよりずっと暖かいアヴァロニアの出身なのだ。それでもまだアルビオンニアで生まれ育ったゴティクスは寒さへの慣れが多少はあったが、帝都レーマで生まれ育ったラーウスの方は寒さへの耐性など全くない。ラーウスは今にも歯が鳴り始めるのではないかと思えるほど、顔を青ざめさせて寒さに耐えている。


「山の上は仕方ありません。

 グナエウス峠は、麓のアルトリウシアより一か月は早く冬が来ますからな。」


「それは解決策と言えるのか?」


 恨みがましい視線を向けるラーウスに対し、ゴティクスは呆れを噛み殺しながら言った。


「諦めるのも一つの解決策ですよ。」


 ラーウスは普段、毅然とした態度でテキパキとした働きを見せる優秀な官僚ではあるが、その本質は帝都レーマの上級貴族パトリキ出身のだ。デキる男でいられるのは基本的に要塞や陣幕の中での話であり、屋外の……特に過酷な環境では貴族ノビリタスの悪い面が出てしまう。

 何で自分がこんな目に合わなきゃいけないんだ……無意識から沸き起こるそうした感情を抑えきれず、まるで子供のように周囲に甘えてしまうのである。決して無能な男ではない、むしろ優秀な部類に入る方なのだが、まだ自分を完璧に律するにはさすがに若すぎるのであろう。

 ゴティクスを始めアルトリウシア軍団の幕僚トリブヌスたちはそのことに気づいていたが、あえて見て見ぬふりをすることにしていた。人間のつまらない部分に着目し、細々こまごまと指摘しすぎるのはその人物を育てるどころか、逆に伸ばすべき部分ごと潰してしまうことにしかならない。


「それが解決策にならない場合もあるぞ。

 まさかグナエウス街道の輸送を諦めるわけにはいかないだろ!?」


 どのみちあと半月もしないうちに雪が降りだし、諦めざるを得ないのですけどね……さすがのゴティクスもその一言を口にするほど愚かではなかった。


「その通りです。」


 詰め寄るラーウスから視線を離すようにゴティクスは身体の向きを変えた。事故の起きたカーブから登りと降りの両方の道を交互に見比べる。


「御覧なさい、敵ながら上手い場所を選んだもんだ。」


 ゴティクスは事故を起こした馬車が走ってきた登りの方を指さす。


「長くまっすぐな下り坂の後でこのカーブだ。

 速度は出やすいが、重量を積んだ馬車は速度を十分に落とさなければ絶対に曲がれない。

 この下り坂でダイアウルフが姿を見せれば、馬は怖がり、速度を落とすどころか加速して逃げようとするでしょう。リスクを冒して実際に襲い掛かるまでもなく、馬車は勝手に自滅することになる。」


「たまたまじゃないのか?」


 ラーウスの呈した疑問をゴティクスは否定した。


「どうでしょう?

 たまたまだとしたらこんな見通しの良い直線で襲撃するでしょうか?

 ならむしろ、見通しが悪く馬車の速度が落ちるような場所で襲うんじゃないですかね?」


 どうでしょう?などという一見自信無さげな言葉を使いながらも口元に半笑いを浮かべるゴティクスに、ラーウスは自分の考えをゴティクスは全く取り上げる価値のないものとして否定していることに気づいていた。

 ラーウスの視線を無視しながらゴティクスはそのまま続ける。


「たとえばあそこのカーブの向こう側は九十九折つづらおりで見通しが悪く、速度も出せない。馬車馬を襲うつもりならそっちで狙った方がいいでしょう。

 すぐ近くに襲撃に適した場所があるのに、わざわざこんな場所で襲っている……たまたまではなく、むしろ意識して狙ったと見た方が無理がないのでは?」


 ゴティクスからすればこの説明はまだ若い、それでいて自分より上位のラーウスに対する教育指導のようなものだった。ラーウスは寒さに対する不満から普段の明晰な思考を鈍らせている。そのことに対する𠮟責も、彼が口元に浮かべた嘲笑には含まれていたのかもしれない。

 ラーウスは面白くなさそうな顔をしてゴティクスが指示した街道の様子を改めて見直した。この寒さとゴティクスの態度は面白くないが、ゴティクスの意図に気づくだけの聡明さがラーウスには備わっていたのである。


「ダイアウルフにそのような思考ができるものなのか?

 ダイアウルフの頭がいいことは知っているが、幾度かこの場所での経験を積んだのならともかく、初回の襲撃でそれを成功させるほどの頭脳があるとは思えん。」


 ゴティクスの意図に気づき、そして自分を恥じはしても、ゴティクスに対する反発まで抑えきれないのはラーウスの若さか、あるいは上級貴族パトリキ出身者のエリート意識の現れであろう。だがゴティクスはラーウスの見せるそうした生意気さをとがめるほど狭量ではない。だいたい、ラーウスの態度は反抗的ではあっても決して無礼ではないのだ。無礼なら咎めねばならないだろうが、反抗的なだけならそれを否定することはない。反抗とはその人の創造的精神の現れなのだから、反抗的だからというだけでそれを咎めるのはその人の創造性を潰すことにしかならないのである。ゴティクスはむしろ、こちらから出した課題に対して曲がりなりにも一つの答えを出してみせたことを評価した。


「その通りです。

 いくらダイアウルフが賢い動物だからといって、初めての狩りでこの地形を利用するほどではありません。ということはつまり……」


 ラーウスの方に振り返ったゴティクスの顔に笑みが浮かぶ。それは先ほどまでのラーウスに対する呆れや嘲笑などとは明らかに性格の異なるものだった。


ということです。」

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