第717話 ブルグトアドルフからの出発
統一歴九十九年五月九日、昼 ‐ ブルグトアドルフ/アルビオンニウム
見上げれば小さな
「そっか……」
仲間たちが救出作戦を実施し、現にスワッグ・リーが駆け付けたにも拘らず脱出しなかったメークミーは、その作戦のせいで捕虜になったナイスから罵倒されるのを覚悟していたが、ナイスから返ってきたのは素っ気ないその一言だけだった。
ナイスの方もメークミーに言ってやりたいことが無かったわけではない。メークミーのために大急ぎで作戦を練り、準備を整え、危険を冒したのだ。そして盗賊どもが大勢死に、あるいは捕まり、自分も魔力欠乏に陥って捕虜になった。メークミーのために立てられ、実施された作戦は無駄に終わってしまったのだ。
だが、もし今後仲間たちが自分のために救出作戦を実施してくれたとしても、たぶん自分もメークミーのように脱出を諦めるかもしれない。アイジェク・ドージを永久に失ってしまうかもしれない可能性を考えると、ナイスもメークミーを責めることはできなかった。
二人の間にぎこちない空気が流れ、無言のまま時が過ぎる……それはほんの数秒のことでしかなかったが、後ろめたい気持ちを抱えたままのメークミーにとってはずいぶん長い時間が経ってしまったように感じられた。
「俺たちはどっちに乗るんだ?」
ふいにナイスが疑問を口にする。それはメークミーを
メークミーが慌ててナイスの視線を追うと、その先にはシックなブラウンを基調とした馬車と、白い馬車の二台があった。どちらもそれなりに豪華な造りになっており、それだけで貴族用の馬車と知れる……というか、ほかに貴族が乗るのに相応しい馬車が無い。あの二台以外は粗末な荷馬車だけであり、それらには荷物やら負傷兵やらが積み込まれようとしている。
「あ、ああ……きっと、茶色い方だ。」
「そうなのか?
白い方が上等そうだ。
てっきりあっちだと思ったのに……」
ナイスはメークミーの方に振り返ることなく、馬車の方へ視線を向けたまま残念そうに言った。たしかに茶色い馬車は気品を感じさせる上等な馬車ではあったが、貴族が乗るには少しばかり派手さが無い。落ち着きすぎているというか、地味な感じだ。それに比べ、白い方は細かい部分に金や銀の装飾が施され、それらが遠目にも輝いて見える。快晴の空の下、やけに強い日差しを受けて
彼らはカエソー・ウァレリウス・サウマンディウス伯爵公子の馬車に同乗することになっている。カエソーの実家サウマンディウス伯爵家はレーマ帝国南部で一番の権勢を誇る
そして、茶色い方の馬車はまだ馬が繋がってなかった。シュバルツゼーブルグからブルグトアドルフまで馬車を引いてきた馬はすでに消耗しているため、新しい馬に交換している最中だったのだ。
馬車に乗るために呼ばれたはずなのに、自分たちが乗る馬車の準備がまだできていない……そんな不始末はムセイオンで居たころの彼らは冗談でしか聞いたことが無かった。伯爵公子をこれから乗せようという馬車がそんな
「白いのは、スパルタカシウス家の馬車なんだ。
茶色いのは、この先のシュバルツゼーブルグって街の領主から借りた奴らしい。
伯爵公子の馬車はその‥‥‥一昨日、壊れちゃったからさ。」
メークミーは言いにくそうに言った。カエソーの馬車が壊れたのは
「ルクレティア・スパルタカシア……か」
メークミーの説明にナイスはルクレティアの名を何か感慨深げにつぶやく。
伯爵公子の馬車じゃなく、あっちの馬車に乗れば話ができるのか‥‥‥ナイスはぼんやりとそんなことを考えていた。
もちろん、ナイスはルクレティアに興味がある。あれだけ強力な
「う、うん?」
何かを諦めてしまったような無気力な、それでいてどこか拗ねたような様子だったナイスの口調がわずかに変わったことにメークミーは気づき、何かを問うでもなく、応えるでもなくなんとなく声を出したのだが、ナイスはメークミーが自分に何か話しかけたように感じた。
「会ったのか?」
「え!?あ、ああ‥‥まあね」
「どうだった?どんな奴だ?」
馬車の方へ視線を向けたままのナイスの質問にメークミーは何故かドギマギしながら答える。
「え!?
あ、ああ……うん、まあ、わ、悪くない……かな?
やっぱ、伝統あるスパルタカシウス家の姫だしな。
歳も、十五だそうだし……ち、小さいけど、か、か、可愛いていうか……
そう!
品があって……お
この時、ナイスはぐるりと体全体を捻るようにメークミーの方を振り返った。その顔にはメークミーがこれまで見たことのない表情が浮かんでいる。
「お前、何言ってんだ?」
ナイスはメークミーにそんな答えを期待していなかった。魔法使いとしての評価を、敵としての脅威度を訊いたつもりだったのだ。
「え!?
何って……スパルタカシア殿のことだろ???」
メークミーはまっすぐ向けられたナイスの視線と……何よりナイスの表情に驚き、うろたえながら訊き返す。
ナイスはメークミーの顔を無言のまま、そのままの表情でしばらく観察し、その後ヘラッと笑って姿勢を元に戻し、再びメークミーに背中を見せる。肩越しにメークミーの目に見えるナイスの頬は相変わらず微妙に笑っているように見えた。
「え、な、なんだよ!?
何か変なこと言ったか、俺???」
「いや、いいよ……」
何でもない風をナイスは装っていたが、メークミーの耳にはナイスの声が少しばかり踊っているように聞こえた。たぶん、笑っているのだ。
メークミーは何か馬鹿にされたような気持になる。そして思い出していた。
さっきのナイスの
ロックス・ネックビアード‥‥‥ムセイオンの聖貴族であり、メークミーの幼馴染であり、親が決めたメークミーの婚約者である。普段は普通なのだが、メークミーに対してはいつも高飛車な態度で偉そうに接し、よくメークミーのことを馬鹿にする。こまっしゃくれた彼女のことがメークミーは苦手だった。
ロックスがナイスが先ほど見せたのと同じような表情を見せるのは、ロックスがメークミーを馬鹿にしている時であり、そのあとは大抵
「いいって何だよ!?
気になるだろ!」
「何でもないから気にすんなって‥‥‥」
追いすがろうとするメークミーに応えるナイスの声は、今度は間違いなく笑っていた。
「賑やかですな、何か面白いことでもありましたかな?」
ナイスを追求しようとしていたメークミーだったが、背後から声をかけられて諦めざるを得なかった。
「閣下!」
声の正体に気づいた二人はそろって向き直る。カエソー・ウァレリウス・サウマンディウス伯爵公子その人だった。
「すでにお話が弾んでおられるようだ。
お二人の面会の場を、本来ならちゃんと設けるべきだったのにできなかったのでね、申し訳なく思っておったのですよ。」
背後から現れたカエソーは何故か松葉杖を突き、従兵に肩を支えられながら歩いていた。
「いえ、お気遣いなく。
サンドウィッチ殿とはもとより友人ですので、いつでも気兼ねなく話はできます。」
ナイスがにこやかに答えると、メークミーは無表情のままチラっと横目でナイスの方を見る。
「ならばよかった。
これからの道中、どうぞこのまま穏やかにいきたいものですな。」
「それはどうぞ安心してください。
それよりも閣下、何かお怪我でもなさいましたか?」
「ああ、これですか?」
ナイスの質問にカエソーは突いていた松葉杖を持ったまま、まるでお
「私は一昨日の夜、怪我をしたことになっておるのでね。」
苦笑いを浮かべて答えるカエソーにナイスは笑みを半分残したまま怪訝な表情を浮かべる。
「それは、治癒魔法で良くなったのでは?」
「事情がありまして、まだ治ってないことにせねばならんのですよ。
ですから、そのようにお願いします。」
ナイスの顔は笑ったままだったが、その目からは笑みが消える。
何かの偽装工作か‥‥‥
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