第710話 ラセルピキウムの味

統一歴九十九年五月九日、朝 - ブルグトアドルフ礼拝堂/アルビオンニウム



 ラセルピキウム‥‥‥シルフィウムと呼ばれるセリに似た薬草を絞って採れる樹液や、樹液を生成した薬品や調味料の総称である。シルフィウムという草が持つ独特の刺激臭があり、全体として青臭い風味があり、わずかなエグミを伴うスッキリした苦みが特徴である。それらは苦手な人は食べると戻してしまうこともあるが、大多数の人々にとっては食べるのに支障があるほどのものではなく、好きな人にはむしろたまらない、癖になる特徴の一つとなっている。

 様々な薬効で知られ、食欲不振解消、偏頭痛の解消、眼精疲労の回復、筋肉の疾患の症状緩和、解毒効果、月経促進、避妊、脱毛症の症状緩和‥‥‥その他、他の生薬と混ぜることでいくつかの病気に効くと信じられている。シルフィウムのどの部位を加工したかによって薬効の強さに違いがあり、根から採取した樹液を「リジアス」と呼び、茎や葉から採取した樹液を「カウリアス」と呼ぶが、樹液に含まれる薬効成分は根の方が濃いためリジアスが薬品(特に避妊薬)として用いられ、カウリアスは調味料として用いられる。


 冶金学が未発達でガラス製造もままならないこの世界ヴァーチャリアは降臨者によって《レアル》から様々な知識を得ているにもかかわらず化学の発展がかなり遅れている。薬品に影響しない容器や実験器具を揃えることがまず出来ないからだ。このため薬学や肥料などの学術研究や技術も大きく立ち遅れている。

 この結果、一部の農作物は普通の一般農家では栽培すること自体は出来ても、高い値が付くような上等な商品は生産するのは難しい状況が続いている。シルフィウムはその代表のような農作物で、栽培自体は簡単で割とどこにでも自生していたりするほどなのだが、素人目にも明らかなほど薬効のある高品質なシルフィウムとなると《地の精霊アース・エレメンタル》の恩寵おんちょうを受けられる地属性の神官でもなければ生産できなかった。

 このため、シルフィウムをはじめとする一部の薬草の生産は地属性神官によって独占的に行われており、レーマ帝国において最大の大家がスパルタカシウス家であった。おそらくレーマ帝国内で生産されているラセルピキウムの約半数がスパルタカシウス氏族か、スパルタカシウス氏族に連なる神官らによって製造されていると言われている。

 もっとも、スパルタカシウス氏族の宗家であるルクレティウス・スパルタカシウスは祖父の代で政争に敗れた影響を今も引きずっており、スパルタカシウス氏族に属する多くの分家に対する彼の影響力はかなり弱い。今やスパルタカシウス氏族を取りまとめているのは帝都レーマに居座っている分家のスパルタカシウス・レムシウス家であり、ルクレティウスは一応宗家棟梁として一定の敬意を払って貰えていると言う程度にすぎず、巨大なラセルピキウム市場の独占的な利権はスパルタカシウス・レムシウス家に握られている。


 それでも、シルフィウム栽培やラセルピキウム製造の実力自体は失われてはおらず、アルビオンニア属州におけるラセルピキウム生産はルクレティウスの支配下にあると言って良かった。

 ナイス・ジェークに出された上質なラセルピキウムを使った薬膳料理も、スパルタカシウス氏族の中で数少ない宗家派であるスパルタカシウス・プルケル家ならではのものである。


 ‥‥‥意外と、旨いかもしれん‥‥‥


 ナイスは無言のまま麦粥を口に運び、咀嚼そしゃくし、嚥下えんかしながら漠然と思っていた。


 ナイスもラセルピキウムについて全く知らなかったわけではない。彼も一応、ヴァーチャリア世界で最高峰の学府ムセイオンで教育を受けた身である。ラセルピキウムのことぐらい知っていた。シルフィウムはムセイオンではシルフィオンとかシルフィと呼ばれていたり、ラセルピキウムも単にラーセルと呼ばれていたりと、若干の差異はあったが、レーマ帝国でそれだけ普及している物については「常識」という一般教養の一つとして教えられてはいたのである。

 ナイスの場合、特にレンジャーとしての自分を鍛えることに執心していたこともあり、薬草についてもある程度の知識は持っている。シルフィウムも野生の物を採って来て、自分で生薬に加工したり、野菜(山菜?)として料理に試したりした経験があった。

 だが、前述した通り素人目にも明らかなほど薬効のあるシルフィウムは地属性の神官によって栽培されなければ作れない。ナイスが野山で見つけたような野生のシルフィウムは味や風味が同じだが、薬効はあまり期待できるものではなかった。また、味や風味が同じとは言っても、栽培されたものに比べ野生のものはエグミが少し強く匂いがきつくなる傾向にあるため、調理しても下処理を少し念入りにしないと臭みやエグミが栽培したものよりきつくなってしまう。このため、ナイスの認識では「シルフィオンシルフィウムは食えないことは無いが美味くはない」食べ物であり、薬効についても「迷信に近い」というものであった。


 ‥‥‥薬としても、効くのか?‥‥‥


 一口飲み込むごとに身体に染み渡っていくような感覚、身体が欲しているのが分かるような、もっと食べなければと無意識に思わせるような感覚から、ナイスは薬としても思っていたより優れているのではないかと自身の認識を改めようとしていた。


 たしかに、昨日も魔力が回復して体調が良くなったのは麦粥コレを食べてからだった。

 魔力の回復を助ける、か‥‥‥本当にそうなのかもしれん。


 内から力が一気にみなぎって来るような、マジック・ポーションのような劇的な効果があるわけではないが、だがそれでも回復の促進にそれなりの効果は実感としてありそうな気はしている。


「ラセルピキウム、か‥‥‥」


 麦粥を食べ終わったナイスはスプーンを置いて一言呟いた。


「ジェーク様?」


「もっと不味い物だと思っていた。」


 脇から神官が問いかけて来るが、ナイスはあえてそちらを見ずに前を見たまま感想を口にする。


「ムセイオンに居た時、山から採って来て、教わった通りに料理してみたけど、もっと苦くて青臭かったぞ。」


「や、野生のシルフィウムはそうだと思います。

 ですが、こちらで料理したのはスパルタカシウス家で栽培された謹製の品。

 味も風味も、そして薬効も、野生の物とは比較になりません。」


 神官が説明するとナイスがピクリと反応し、表情が若干固くなる。


「スパルタカシウス‥‥‥」


 その名をナイスはもちろん知っている。レーマ帝国におけるもっとも古い降臨者の血筋を引く聖貴族の名であり、同時にここ数日彼ら『勇者団ブレーブス』の前に立ち塞がり、『勇者団』を阻み続ける《地の精霊アース・エレメンタル》を使役しているらしい神官ルクレティア・スパルタカシアの実家の名でもあった。


「ジェ、ジェーク様?」


 神官たちはスパルタカシウス家の名を口にしたナイスの表情が硬くなったことに気づいていた。そして神官たちは全員がスパルタカシウス・プルケル家に仕えている。ひょっとして、スパルタカシウス家に何か悪い感情でも持っているのではないか?‥‥‥神官たちはそのように想像し、怯え、警戒したのだった。


「スパルタカシウス家というと、ルクレティア・スパルタカシアの家だな?

 そうだろう?」


 神官たちは答えに迷い、互いに顔を見合わせた。

 彼らはルクレティアとは同じスパルタカシウス氏族であるスパルタカシウス・プルケル家に仕える身であり、ナイスに供した麦粥のラセルピキウムもプルケル家の荘園でつくられた物だった。なので、おそらくナイスの質問の意図に沿う形で答えるのであれば、否と答えるべきであろう。

 しかし、もしもナイスが暴れ出したら、それを取り押さえられるのはルクレティアとその《地の精霊アース・エレメンタル》だけである。今の彼らの安全を保障するのはルクレティアだけであった。このいつまた暴れ出すかもわからぬ男を大人しくさせる意味では、ここで肯定してルクレティアのすがるのがよさそうな気はしてくる。もしも神官たちが自分が手も足も出ない相手の身内だと知れば、安易に手を出してこないだろうからだ。

 そして同時に、ナイスがもし囚われの身となった境遇に今もなお不満を抱き、その原因をなった者に恨みを抱いているとすればルクレティアもその対象である可能性も考慮せねばならない。その場合、ルクレティアの身内だと言えば、逆にルクレティア相手には晴らせぬ鬱憤うっぷんを彼らに向ける危険性も考えらえるからだ。


「どうなんだ?」


 返ってこない答えを催促され、神官は慌てて答える。


「は、はいっ、ルクレティア様は、スパルタカシウス氏族宗家のご出身であらせられます!」

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