虜囚のナイス・ジェーク

第709話 薬膳麦粥

統一歴九十九年五月九日、朝 - ブルグトアドルフ礼拝堂/アルビオンニウム



 二日連続で魔力欠乏による失神を味わったアーノルド・ナイス・ジェークが目を覚ましたのは日付が変わり、夜も開けてとっくに明るくなったころになってようやくだった。泥のような眠りから目覚めた後も身体全体がぐったりと重く、まるで鉛のようであった。頭痛とハッキリ言えるような痛みは無いが、頭が嫌になるくらい重たく、何か船にでも乗っているかのように世界がグラグラ揺れるような感じがする。それが溜まらなく気持ち悪い。おかげでナイスは身体を起こした途端に嘔吐してしまった。

 部屋中にビシャビシャと水音が響き、酸っぱいイヤなニオイが立ち込める。そして嘔吐する時に身体に力が入るせいか、頭中の血管が一気に膨張したような痛みに襲われ、目の前が暗くなる。たまらず再びベッドに横になったところで、昨日と同じ痘痕面あばたづらの神官たちが部屋に雪崩れ込んできた。


「ジェーク様!大丈夫ですか?!」


「ああ、すまんな……また汚してしまった。」


 目を閉じ、ベッドに横たわったままナイスがうわ言のように言うと、神官はサッと駆け寄って世話を焼き始める。


「そんなことはお気になさらず!

 それよりも御召し物を変えませんと、胸元が汚れています。

 さあ、これで口元をお拭きになって!」


 こうして甲斐甲斐しく神官たちに世話を焼いてもらい、ナイスは吐き出してしまったものを片付けてもらい、吐瀉物としゃぶつによって胸元が汚れてしまった貫頭衣トゥニカだけ着替えるとそのまま半時間ばかり仮眠をとる。そしてようやく体調が落ち着いたところで起き上がり、本格的に身だしなみを整えると、神官が持って来てくれた朝食を摂るのだった。


 メニューは決して豪華とは言えない。ゆで卵、小さく刻んだ干し肉と野菜と芋とチーズを入れて牛乳で仕立てた麦粥、そしてリンゴ。‥‥‥えらく簡素だ。

 もっとも、ナイスもムセイオンを脱走してからこっち、ずっと大したものは食べてはいなかったし、それらに比べればずっとマシな朝食ではある。一昨日まではむしろそうした粗末な食事も「冒険っぽい!」と喜んでいたくらいだったのだが、やはりこう身体的にも精神的にも弱っていると無性にムセイオンで食べていたような食事が恋しくなってくる。


 ああ‥‥‥クロックムッシュ食べたい。

 ナツメグを利かせて、外側をイイ感じにキツネ色にバターでカリっと焼いてて、中がフワッととろけるような‥‥‥


 ナイスはチーズと卵、そしてどこからか漂ってきているバターの匂いから連想を掻き立てられたクロックムッシュに想いをせるが、残念ながら彼の目の前にあるのは残念な見た目の麦粥だ。


「お口にはお合いにならないとは存じますが、せめて一口なりともお召し上がりになりませんと‥‥‥」


「ああ‥‥‥大丈夫だ。気にしなくていい。」


 申し訳なさそうに言う神官に見向きもせずに答えると、ナイスは粗末な木のスプーンをとって麦粥をすくい、口に運ぶ。


「‥‥‥」


 神官たちが心配そうに見守る中、ナイスは無言のまま麦粥を口へ運び続けた。何やらよくわからない物がゴチャゴチャ入っているせいか、味はかなり複雑である。率直に言って薬臭い気がしないでもない。何かわからないが、ハーブか何かを随分混ぜているようだ。

 言ってしまえば不味い部類に入ると言っていいだろう。だが、不思議と口に入れるたびにナイスの身体に染み渡っていくようで、口に運び入れるのが癖になる。


 出したのは昨日と同じものだったのだが、意外と昨日よりも食いつきの良いナイスの様子に神官たちの方は戸惑いを隠せないようだった。食べてくれることに内心、胸を撫でおろしつつも固唾かたずを飲んで見守っている。

 そうこうしているうちに麦粥が皿の半分ほどまで減ったところでナイスの手が止まり、神官たちは身体を固くした。急に勢いよく食べたからまた戻してしまうのではないかと警戒したのだ。が、彼らの心配は杞憂きゆうに終わる。ナイスは口の中に残っていた麦粥を飲み込むと、おもむろに口を開いた。


「コレ、薬草か何か入ってるのか?」


 神官たちは不安そうに互いに目を見合わせてから、代表者が一人、躊躇ためらいがちに答える。


「ハ、ハイ‥‥‥

 スパルタカシウス家に代々伝わる薬膳料理で、ラセルピキウムを中心にハーブを‥‥‥」


「ラセルピキウム?」


 ナイスが訊き返すと神官は先ほどのたどたどしい様子とは打って変わって、まるで水を得た魚のように、口調も明るく勢いよく説明しだした。


「ハイ!ラセルピキウムはシルフィウムというハーブを絞った樹液でつくるソースや薬のことです。身体を内からキレイにして、魔力の回復を助ける効果があります。」


「ふーん‥‥‥」


 ナイスが関心を示してくれたことに気を良くし、積極的にアピールしはじめた神官だったが、ナイスは素っ気なくそう言うと再び麦粥を口へ運び始める。神官はナイスの心を開く突破口を見つけたかと期待したのだったが、どうやら空振りに終わったようだ。無心に麦粥を口へ運び続けるナイスの周囲で、神官同士が無言のまま互いに顔を見合わせる。

 彼らは主君(正確には主君の三男坊)であるスカエウァ・スパルタカシウス・プルケルから発破はっぱをかけられていたのだ。


 ナイス・ジェーク様の敵愾心てきがいしん警戒心けいかいしんを解きほぐし、御心を開かせよ、と‥‥‥


 スカエウァとしてはもちろん独自にナイスやメークミーといったムセイオンの聖貴族コンセクラトゥムと懇意になりたいという願望があってのことであったが、しかしそれを抜きにしてもナイスに気持ちを落ち着かせてもらわなければならないことには変わりはない。昨日の様にカエソー・ウァレリウス・サウマンディウス伯爵公子やアロイス・キュッテルのような要人を相手に暴れるようなことをされてはたまったものではない。

 この世界ヴァーチャリアでも降臨者に次いで高貴とされる聖貴族にはそれ相応の接遇せつぐうの仕方というものがあるが、こうも周囲に刺々しくされ、あまつさえ魔法を使って周囲に危害を加えようとされれば、そうした遇し方もできなくなる。どれだけこちらが仲良くなりたいと思っても、向こうで牙を剥かれたのではおいそれと近寄ることも出来なくなってしまうではないか。このままではナイスをサウマンディアに移送し、ムセイオンへ送り返すことも難しくなるし、それより何より直接ナイスと接せねばならぬ彼ら神官たちが不必要な苦労をすることになる。

 なので彼らは、スカエウァに言われるまでもなく何とかナイスの心を解きほぐそうと心を砕いていたのだが、かといってつい先日まで敵対していた人の心がそう簡単に穏やかに打ち解けるわけもない。


 まあ、まだ出された物をこうして召し上がっていただけるだけマシか‥‥‥


 神官たちはナイスに気取られないよう、溜息を噛み殺すしかなかった。

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