第693話 鉄壁のルクレティア

統一歴九十九年五月八日、午後 - ブルグトアドルフ礼拝堂/アルビオンニウム



「待ってくれルクレティア!」


 冷たく突き放すように自室へ引き取ろうとするルクレティア・スパルタカシア・リュウイチアをスカエウァ・スパルタカシウス・プルケルは慌てて引き留めようとする。するとすかさずその前にルクレティアの侍女クロエリアが立ちはだかった。そこから先はたとえ親戚とはいえ男性が立ち入ってよいエリアではない。

 使用人に阻まれてそのことに気付くと、スカエウァは思わず「うっ」と息を飲み、唇をへの字にまげてウ~っと小さく唸る。


「まだ何かあるの?」


 スカエウァから数歩離れたところで背中越しに何が起きたかを察したルクレティアが立ち止まり、わずかに振り向いて耳だけをスカエウァの方へ向けた。


「その、力を貸してくれないか?

 人助けだと思って…」


 クロエリア越しに従妹に頼み込むスカエウァにルクレティアは背中を向けたまま溜息をつくと、半歩振り返った。


「さっきも言ったけど無理よ。

 物事には順序があるの。私より先に伯爵公子閣下に話を通してちょうだい。」


「そんな!」


 ルクレティアのつれない態度にスカエウァは失望を隠さない。


「カエソー閣下なら許してくれるさ!

 君は閣下の御命を救った恩人なんだぜ!?

 君がジェーク様を助けて、サンドウィッチ様と合わせたところで文句なんか言いっこないさ。」


 なんでそんなことも分からないんだ!?……スカエウァは言葉以外にも全身でその気持ちを表現する。

 スカエウァが言うようにカエソー・ウァレリウス・サウマンディウス伯爵公子は昨夜瀕死の重傷を負い、ルクレティアの治癒魔法によって奇跡的と言って良いほどの回復を遂げた。カエソー自身、そのことをよく理解していて恩にも着ている。ルクレティアが多少のわがままを言ったところで受け入れてくれるだろう。

 だが勘違いしてはならないのは、相手にことと、我儘を押し付けてよいかどうかは全く別の話だということである。


 カエソーは確かにルクレティアに恩を感じており、ことを認めている。それは彼が自分の意思によっていつか必ず借りを返すという約束を表明したことになる。

 しかし、もしこちらが彼に貸しがあることをいいことに、こちらの都合を傍若無人に押し付けたらどうなるだろうか?相手はおそらく、それが借りを返すことになるのなら…と、多少の事なら不本意ではあってもそれを受け入れるだろう。だが同時にそれは、彼の「いつか必ず借りを返す」という意思と誇りとを踏みにじる行為にもなるのだ。「お前がを返してくれるのなんか待ってられるか」と言っているようなものなのである。

 相手に自分のわがままを押し付ける……それは相手を尊重しないからこそできる暴挙であり、相手の権利や自尊心を否定する行為でしかない。があろうが無かろうが、その点は如何なる状況下であろうとも同じことなのだ。


 だがスカエウァはそこが分かっていないらしい。ルクレティアはスカエウァの横暴に信じられないと言わんばかりに驚いた表情を作り、スカエウァを振り返る。


「冗談じゃないわ!

 何を言ってるのよ?!」


 ルクレティアはスカエウァにノンを突きつけたはずだったが、スカエウァはルクレティアがこちらを向いてくれたことにむしろチャンスを見出し顔をほころばせて頼み込む。


「なぁルクレティア、頼むよぉ!

 な!?出来るんだろ?」


「出来ないわよ!

 そんな横紙破りなこと出来るわけないでしょ!?」


「大丈夫だって!

 何をそんなに気にしてるんだ、君は聖女サクラ様なんだぞ?」


「馬鹿言わないで!!」


 ルクレティアは反射的に大きな声で否定し、直後に自分で自分が大きな声を出したことに驚き慌てて口を押える。スカエウァを含め周囲の者たちも驚き、辺りは一瞬で静まり返った。視線がルクレティアに集まっている。

 ルクレティアが周囲を見回すと、離れた場所からルクレティアの様子を見ていた者たちは目の合った者から順に視線を逸らせ、何事も無かったかのように立ち去り始める。ルクレティアは「ウッ、ウンッ」と小さく咳ばらいをすると、改めて声を低くしながらスカエウァに抗議し始めた。


「と、とにかく、リュウイチ様の御降臨も、私が聖女サクラになったことも、まだ秘密なのよ!?」


「ここには知ってる人間しかいないだろ?」


 何を今更そんなつまらない事を言ってるんだ!?……スカエウァの顔はそんな何か訳の分からないしがらみに縛られているかのような不快感で歪む。


「今、下にツヴァイク様が来てるじゃないの!!」


「誰だよそれ!?」


 スカエウァはシュテファン・ツヴァイクと面識が無いわけではない。昨日挨拶を交わし、ブルグトアドルフで戦闘が行われてから後に何度か言葉を交わしている。だが、シュテファンのことはスカエウァの印象には全く残っていなかった。スカエウァにとっては捕虜になったムセイオンの聖貴族コンセクラトゥスジョージ・メークミー・サンドウィッチや今後会うであろう降臨者リュウイチのこと、そしてもうすぐ養父となる叔父のルクレティウス・スパルタカシウスのことで頭が一杯であり、一地方の警察消防隊ウィギレスの老兵なんかに構っていられなかったのだ。


「ブルグトアドルフの中継基地司令プラエフェクトゥス・スタティオニスよ!」


 しっかりしなさい!‥‥‥ルクレティアの叱責によってようやく昨日会ったツヴァイクのことを思い出す。そういえばそんな人いたな……まさにそんな感じだ。


「でもツヴァイク殿が来てるのは一階だろ!?

 一階まで聞こえるわけ無いじゃないか。」


「サンドウィッチ様もジェーク様も知らないでしょ?!」


礼拝堂プラエトリウムを挟んで向こうの棟にいるんだ、聞こえっこないよ!」


 本当に不用心な人間は己の不用心さを指摘されたとしても自覚することができない。どこに気を付けるべきかを知らないだけなら、まだ他人から指摘されることで自身の不用心さを改めることもできるのだが、どこに気を付けるべきか知ったうえで「今は大丈夫だ」とか「ここなら安心だ」と自分で判断している人間は不用心さを指摘されても改めたりしない。むしろ緊張する必要のない場面で緊張することを無駄だと決めつけており、そうした無駄を強要することになりかねない指摘に対してはむしろ反発してしまう。今のスカエウァはまさにそうだった。

 いい加減にしてくれ!……まさにそんな表情を浮かべ、ルクレティアに反発する。相手が二つ年下の従妹で婚約者だった少女となればなおさらだろう。自分の頭で考える力も無いから真面目に言いつけを守ってるだけ……そんな人形みたいな存在に偉そうにあれやこれや言われ、十代後半の少年に素直に聞き入れろと言う方が難しいのかもしれない。

 ルクレティアは自分を見下ろすスカエウァの視線にそういう侮蔑に近い色を感じ取り、理解させることは無理だと察した。む~~っと小さく唸ると、小さく短い溜息を吐き、口調を改める。


「とにかく!

 私はこれまでどおりルクレティア・スパルタカシアとして振舞わなきゃいけないのよ。ルクレティア・スパルタカシア・リュウイチアではなく。

 だいたい、リュウイチ様はとても慎み深い御方よ。決して我儘わがままなんかおっしゃられないわ。

 それなのに、聖女サクラの私が大きな態度で振舞ったりしたら、リュウイチ様の御心に背いちゃうじゃないの!

 リュウイチ様のためにも、そんな風には振舞えないわ。たとえ秘密にしなくてもよくなったとしても、私はアナタが言うようには振舞わない。」


「わかった!わかったよルクレティア。」


 スカエウァはスカエウァでルクレティアの頑なな態度から無理矢理言う事を聞かせるのは諦めた。両手を広げて参ったとジェスチャーしながら、呆れたような表情を見せる。そして次の瞬間には俯かせた顔の口元にだけ苦笑いを浮かべ、上目遣いでルクレティアを見下ろした。


「伯爵公子閣下に話は通す。間違いなくちゃんとだ。約束だ。今から行って来る。

 だからルクレティア、先にジェーク様の部屋に行って回復させてくれないか?」


 ルクレティアは表情を変えることなくスカエウァの顔をジーっと見つめ、「駄目ノン」と短く言った。

 スカエウァが本当にカエソーのところへ行くか怪しいものだ。今朝だってカエソーが目覚めていたはずなのにカエソーの判断を仰がずにルクレティアにメークミーとナイスの面会の話を持ってきたくらいなのだ。スカエウァは多分、分かったうえでわざとそれをやっている。何を考えているかはわからないが、それを受け入れたら面倒なことにしかなりそうにない。そんな話を持ってくる者を、たとえそれが従兄で元・婚約者で、おそらく近い将来は父と養子縁組して実家を継ぐことになるであろう男だったとしても信用するわけにはいかなかった。

 ルクレティアの返事に唖然とするスカエウァに対し、ルクレティアは間違うことなく伝わるようハッキリ目を見てゆっくりと言った。


「先に伯爵公子閣下のおゆるしをいただいて来て。

 じゃないと私、絶対に行かない。」

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