第675話 カエソーの目覚め
統一歴九十九年五月八日、朝 - ブルグトアドルフ礼拝堂/アルビオンニウム
目が覚めた時、身体はまるで鉛の様に重く、ベッドに深く沈み込んでいるようであった。身体が動くだろうか?‥‥‥そう不安に思ったほどであったが、身体が動くかどうか試すために気合を入れる前に、無意識に力が入った腕は驚くほど呆気なく、ヒョイと持ち上がった。
「?」
自分が何に違和感を覚えているのかも思い出せず、数秒そのまま考えてみたが何の思念も浮かんでこない。ただ、無意識に勝手に動く自分の身体を無念無想のまま観察しているかのように頭の中に何の考えもないまま、身体がゆっくりと起き上がる。
やはり身体は驚くほど呆気なく動いた。目覚めのその瞬間まで感じていた身体の重さは一体何だったのか、まったく不可解なほど身体には何の違和感もない。
あれ‥‥‥ここは‥‥‥?
今まで見たことのない部屋だった。家具や調度品と言ったものが一切なく、ひどく殺風景で薄暗い。壁の下半分は何の装飾もない黒っぽく見える腰板で覆われ、その上は
窓を閉ざす扉の隙間から漏れ入っている光は強烈であり、既に陽が昇っているのは明らかだ。部屋の外からは何やらバタバタとひっきりなしに人が歩きまわっている気配がしている。
朝の準備か?
それにしても騒々しい‥‥‥
ここが誰の
「!……冷た!?……」
素足を降ろした床は床板がむき出しだった。
絨毯が無い。‥‥‥
や!?‥‥‥何だこのベッドは?
変にゴワゴワすると思ったら、シーツの下は草じゃないか!
一体何なんだこの家は!?
立ち上がり、部屋を見回すが着替えも履物も何もない。ベッドの枕もとの
バケツも無いじゃないか‥‥‥
これでどうやって用を足せというのだ?
とてもではないが貴人を泊まらせるに足る部屋ではない。身分に不相応な扱いを受けて憤りを覚えるのは貴族ならば当然、思わずベッドから立ち上がって人を呼ぼうと息を吸い込み、そこでハタと思い止まった。
待てよ‥‥‥
人を呼び叱りつけるのは簡単だ。だが、ここは自分の屋敷ではない。ここで働いている使用人も当然、他人の使用人であろう。他人の使用人を自分が勝手に叱り飛ばして良い道理などあるわけがない。
そうだ、ひとまず様子を見た方がいいか‥‥‥
そもそも、ここは何処なんだ?
隙間だらけで開かなくても外から光を採り入れてくれる木戸の
「!?」
予想より強い光に一瞬、目に痛みを感じて顔を
‥‥‥どこだ、ここは?
窓は東に面しているらしく、冷たい空気の中でも暖かさを感じさせる陽光が直接飛び込んで来る。遠くに見える
よく見れば農地はあまり手入れが行き届いていないうえに、ところどころ踏み荒らされた様子だ。もう陽が昇っているというのに、牧草地には家畜の一頭も姿が見えず、農地を区切る柵など何か所も壊れたまま放置されているようである。あれでは牧草地に家畜を放っても逃げられてしまうだろうし、家畜泥棒だって防げないだろう。
「‥‥‥ハクショイッ!!」
目覚めたばかりの身体を冷たい外気に晒したせいか、どうやら冷えてしまったようだ。くしゃみが出、思わず身体を震わせる。仕方なく窓を閉め、再び薄暗くなった部屋のベッドへ戻る。
どこだここは?見たことない景色だったぞ‥‥‥
いや、待てよ。あの山はたしか見覚えがある。
確か、
そこからまるで溢れ出るように急に記憶が
そうだ!
ムセイオンのジョージ・メークミー・サンドウィッチをサウマンディウムへ連行するために、スパルタカシアと一緒にアルトリウシアへ行く途中だったのだ!!
馬車でアルビオンニウムを発って‥‥‥
カエソー・ウァレリウス・サウマンディウス伯爵公子はようやく自分がサウマンディウムではなく、アルビオンニアに来ていることを思い出した。カエソーはパッと手で顔全体を覆い、そのまま手を顔を
やっ……するとここは何処だ?
何が起きたのか、どうしてこんなところで寝ているのか、昨日起きたことが思い出せない。ベッドに腰掛けたまま目だけを動かして部屋を観察しても、家具も何もない殺風景なこの部屋には、当然だが手がかりになるようなものは何もない。いつしか目は焦点を失い、視線は
思い出せん‥‥‥昨日は確か、何とかいう女学士を船に乗せ、それから馬車でアルビオンニウムを発ったはずだ‥‥‥それからどうした?
そこから先が思い出せない。ルクレティア・スパルタカシア・リュウイチアの家庭教師ヴァナディーズを参考人としてサウマンディウムへ船で送り出し、その後馬車に乗って出発したところまでは思い出せたが、その後のことがあやふやでさっぱり思い出せない。記憶がスッポリと抜け落ちてしまっている。
予定ではブルグトアドルフからの避難民と合流し、シュバルツゼーブルグを目指すことになっていた筈だった。
‥‥‥ということは、ここはシュバルツゼーブルグか?
改めて部屋を見回す‥‥‥そしてすぐにその予想を打ち消した。
たしかにカエソーは酒を飲み過ぎて記憶が飛んでしまった経験が幾度かある。地方の郷士のような
そしてカエソーに限らず、父プブリウス・ウァレリウス・サウマンディウス伯爵も叔父のアグリッパ・ウァレリウス・サウマンディウスも時折そういう失敗をやらかす。だが、その割には今のカエソーに二日酔いの症状は全くない。むしろ、体調だけを見るならかつてないほどスッキリとした気分であり、二日酔いの時のあの頭痛もなければ胃の不快もない。
ここがシュバルツゼーブルグなわけはない。
シュバルツゼーブルグ卿はアルビオンニアでは最も古い
第一、さっき見た風景はシュバルツゼーブルグではなかったではないか。
カエソーも過去にシュバルツゼーブルグに宿泊した経験があった。その時はフォン・シュバルツゼーブルグの屋敷
それに『黒湖城塞館』はかつて
シュバルツゼーブルグではないとすると、ここはどこだ!?
‥‥‥いや待て、昨日だと思っているこの記憶は、本当に昨日のものなのか?
ひょっとして、何日も経っている?
急にカエソーは酒に酔ってるわけでもないのに頭がグルグル回るような感覚に囚われる。
重傷を負ったり、頭に強い衝撃を受けると記憶が飛んでしまう事は
ひょっとして…いやまさか?
慌てて自分の身体を手で
いったい‥‥‥私はどうしてしまったんだ?
カエソーの混乱は、カエソーの部屋から物音が聞こえたことで彼が起きたらしいことに気付いた部下たちが部屋に訪れるまで続いた。
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