第666話 助命嘆願

統一歴九十九年五月八日、午前 - 『青山邸』ヴィラ・カエルレウス・モンテス/サウマンディウム



 レーマ帝国の貴族ノビリタスの務めとして『表敬訪問サルタティオ』を済ませたサウマンディア属州の領主プブリウス・ウァレリウス・サウマンディウス伯爵は気は進まなかったものの玄関ホールウェスティーブルムで順番待ちをしていたイェルナクと会談に挑んでいた。

 本当は被保護民クリエンテスの『表敬訪問』を優先するという名目で時間を潰し、あわよくば「今日はもう時間が無くなったからまた後日」と、イェルナクを追い返そうと思っていたが、残念ながらプブリウスのもとに『表敬訪問』に訪れた被保護民クリエンテスの数はそれほど多くなかった。


 爵位こそエルネスティーネ・フォン・アルビオンニアの侯爵マルキオー位に劣る伯爵コメスとはいえレーマ帝国最大の面積を誇る属州サウマンディアを治めるだけあってプブリウスの実力は帝国南部で最大である。その帝国有数の上級貴族パトリキ被保護民クリエンテスは数多く居そうだが、実際のところはそうでもない。

 レーマ帝国において貴族ノビリタスは一般に被保護民クリエンテスを数多く抱えることを自らの権勢のバロメーターと考え、実際できるだけ多くの被保護民クリエンテスを養いはべらせようとする傾向がある。だが、それは下級貴族ノビレスの話であり、爵位を持つ上級貴族パトリキの中でも特に領地を持つ領主貴族パトリキに限っては例外であった。


 被保護民クリエンテスを多く抱えると、彼らからの様々な奉仕を受けることができ、色々な面で恩恵がある。だがクリエンテラ(保護民パトロヌス被保護民クリエンテスの関係)とは相互援助の関係であるため、被保護民クリエンテスが増えるということはそれなりに負担が増えることも意味している。

 例えば職や商取引の口利き、婚姻等の縁組、争いごとの仲裁、傷病の際の援助、貧困支援、さらに裁判になった際の弁護その他の支援など保護民パトロヌスとして被保護民クリエンテスにしてやらねばならない援助は多岐にわたる。そして被保護民クリエンテスは義務として毎朝自分が仕える保護民パトロヌス『挨拶』サルタティオをする事になっているが、その際には『贈り物』スポルトゥラと呼ばれる手土産を渡してやらねばならない。これらが結構な負担になるのだ。


 では保護民パトロヌス被保護民クリエンテスから得られる恩恵は何かというと、基本的にはサクララウディケーヌスを動員できることが主となる。

 そもそも、誰かの被保護民クリエンテスになろうという人間はまず裕福ではないことが多い。日々の『表敬訪問サルタティオ』で得られるわずかばかりの『贈り物』スポルトゥラで食いつなぐような貧乏人が大部分なのである。もちろん、自分の食い扶持くらい自分でちゃんと稼げるという者も少なくは無いが、左うちわで遊んで暮らせるような裕福な人間はまずいない。

 そんな貧乏人が保護民パトロヌスのために出来る事と言えば、保護民パトロヌスが選挙に出た場合は応援し保護民パトロヌスに投票する事。保護民パトロヌスが出かける時は一緒にゾロゾロとついて歩いて保護民パトロヌスがどれだけ権勢が強いかをアピールする事。保護民パトロヌスの良い噂を流す事。保護民パトロヌスが裁判に出廷したり、公共の場で議論に及んだりしている時に、保護民パトロヌスに有利になるように野次を飛ばす事などだ。他にも保護民パトロヌスに頼まれて調べものをしたり、雑用をこなしたりと言った事をする場合もある。一応、保護民パトロヌスが金に困った時は全財産を投げうってでも支援することもあるが、下級貴族ノビレス平民プレブスならともかく、上級貴族パトリキ平民プレブスでは貧富の格差が開き過ぎていてそんな必要性が出てくることなど全くないと言って良い。


 被保護民クリエンテスを持つことで得られる恩恵……それらは領地を持つ領主貴族パトリキにとっては全くと言って良いほど魅力のないものだった。

 わざわざクリエンテラなど結んで被保護民クリエンテスなど持たなくても、領主貴族パトリキには家来が数多く居るのである。そして家来である下級貴族ノビレスたちはそれぞれ被保護民クリエンテスを数多く抱えており、必要とあればそれらを間接的に動員することもできる。

 自分で被保護民クリエンテスを持たなくても調べものや雑用なんかは家来がすべてやってくれるし、選挙に出ることもない以上サクララウディケーヌスも必要ない。そもそも領主にとっては家来のみならず領民全部が被保護民クリエンテスのようなものなのだ。にも拘らず、わざわざ特別な支援をしてやる必要のある被保護民クリエンテスを持ったところで増えるのは面倒だけでメリットは無いに等しいのである。


 よって、レーマ帝国の貴族の中でも領地を持つ領主貴族パトリキだけは、他の貴族ノビリタスと違って被保護民クリエンテスをあまり持たない傾向が一般化していた。プブリウスも抱えている被保護民クリエンテスは正式な御用商人指名はしていないもののそれなりに付き合いのある豪商や領内各地の有力者たちだけである。そして、彼らは彼らで忙しいため、被保護民クリエンテスの義務とされる『表敬訪問サルタティオ』もたまにしか訪れない。

 実際、今朝も『表敬訪問サルタティオ』に訪れてきていたのは三人ほどであり、プブリウスもそれぞれの『表敬訪問サルタティオ』の時間をなるべく引き延ばそうと試みたが、当人たちも暇な人間ではなかったためイェルナクのための時間を潰すには至らなかったのだ。

 これには実は昨日、イェルナクに小銭を握らされて脅迫まがいの取次ぎを依頼された家令がイェルナクの時間が出来るように調整した結果でもあった。


 ともかく、そうまでして避けようとしたイェルナクとの会談もようやく終わると思っていた矢先、イェルナクが「新たなお願いがございます」などと言いだしたことで、プブリウスは思わず顔をしかめてしまう。しかしイェルナクの方は「お願いがございます」と言いながら頭を下げていたため、プブリウスの表情が不快に曇るのを見ていなかった。


「新たなお願いだと?」


「ハッ、捕虜たちの処刑についてでございます。」


 ひざまずき、拱手きょうしゅし、頭を下げたままイェルナクは続けた。


「せっかく捕らえた捕虜たちの処刑命令、どうか御再考ください!!」


 そう言ってイェルナクは下げていた頭を更に深く下げる。プブリウスはそれを椅子に座ったまま見下ろし、フンッと小さく鼻を鳴らした。


「何かと思えば貴官が連れて来た盗賊どもか……

 ならんな、アレらは帝国に歯向かった叛逆者だ。

 我が軍にも死者が出ておる以上、許すわけにはいかん。」


「許せとまでは申しません!

 ですが、あ奴らはメルクリウス団を捕まえるための手がかりです。

 殺してしまっては元も子もありません。」


 冷然と言い放つプブリウスにイェルナクは追いすがった。

 ハン支援軍アウクシリア・ハンは降臨を引き起こそうとしているメルクリウス団の陰謀に巻き込まれ、そのせいで叛乱軍の汚名を着せられた……その“言い訳”を成立させ、レーマ帝国によるハン支援軍アウクシリア・ハン討伐を回避するためには、そのメルクリウス団の実在を証明しなければならない。イェルナクがアルビオンニウムで捕らえた盗賊たちはそのために絶対に必要な存在だった。むざむざと処刑させるわけにはいかない。


「そういえば貴官は昨日、盗賊どもが処刑場に引き立てられようとしているのを止めたそうだな?」


「ハッ!あ奴らを処刑してしまうことで、伯爵閣下が掴もうとしているメルクリウス団逮捕の快挙を逸してしまうのを防ぐためにございます!」


「しかし、既にこれだけ立派な証言記録がすでにあるではないか‥‥‥

 盗賊団は他にも居るのだ。今後も多く捕まえることが出来よう。

 代わりがいくらでもおるのに、あのような者らなど生かしておいたところで金と食料の無駄ではないか?」


 そう言いながらプブリウスは円卓メンサの上に積み重ねられた羊皮紙の山から一枚を摘まみ上げ、ヒラヒラと揺らして見せる。


「いえ!まだ他にも知っていることがあるやもしれません!

 それに怪しい奴を捕らえた時、どうやってソイツが此度やつら盗賊団を操ったメルクリウス団の一員であると確認をとらねばなりますまい。

 その時、あ奴らがきっと役に立つのです。

 どうかそれまで、処刑をお待ちください!」

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