第660話 迎撃計画
統一歴九十九年五月八日、午前 -
人間は自分が一番、割を食っていると思いたがる生き物だ。一種の被害妄想である。これは特に周囲の、自分と関りのある人たちがどれだけ苦労をしているかを知らない、あるいは想像できない人間ほどその傾向は強くなる。実際のところは色々な人がそれぞれの立場でそれぞれに苦労を重ねており、誰かが特別に楽をしているというようなことはあまりない。社会を構成するほぼ全員が、それぞれに事情があって仕方なくそうせざるを得なくなってそうしている……というようなことが複雑に絡み合うことで、世間は営まれていく。
しかし、そうしたことにイチイチ理解を示すことのできる人間はそれほど多くは無い。大概は自分が、または自分たちが特別に苦労を強いられていて、それは誰かがズルをしているシワ寄せが自分たちのところへ来ているからだと考えたがる。新聞かなにかの受け売りの政治批判、上司・先輩への愚痴、部下・後輩への不満を酒に酔いながら繰り返すサラリーマン、インターネットの匿名掲示板にいい加減な知識を基に国士気取りでヘイトを吐き散らすニートなどはその典型と言っていいだろう。
だが、そういう「自分が苦労させられている」「誰かがズルしたシワ寄せが来ている」と思いたがるのは、一般庶民だけの話ではない。政治家、貴族、官僚、富豪、著名人‥‥‥いわゆる
それでも普段は腹の中に納めているそうした他者に対する不満が露わになってしまう瞬間が無いわけではない。特に自分が携わることのない分野、他人に任せるしかない分野において、それを担当している人たちが自分の期待を裏切った時などは、さすがに抑制が効きづらくなるのは致し方ない。特に相手が間違っていると思える時、自分が正しいと思える時などに、普段抑え込んでいた
ムセイオンから来たハーフエルフたちが盗賊団を率いてブルグトアドルフで再び凶行に及んだ。だがそれに対応すべき
先月の
「静まりなさい!」
家臣たちの動揺を鎮めようと繰り返し張り上げるエルネスティーネ・フォン・アルビオンニア侯爵夫人の声も、感情の高ぶりを隠しきれては居ない。平静ならぬその様子に、興奮を隠しきれていない家臣たちも己の行き過ぎた言動に気付かざるを得なかった。次第にではあったが、家臣たちも落ち着きを取り戻していく。
会議室内がようやく落ち着きをとりもどしたところで、エルネスティーネは二度三度、深呼吸をして自身の興奮を鎮めると、改めてゴティクス・カエソーニウス・カトゥスとアグリッパ・アルビニウス・キンナの両名に対して口を開く。
「ルクレティア様を利用し、間接的にであれリュウイチ様の御力を頼ることはできません。
それを前提に、言うべきことがおありなら、
ゴティクスもアグリッパも、どちらも立場上は子爵家の家臣であって侯爵家の家臣ではない。しいて言うなら
ゴティクスはアグリッパと一度無言のまま目を見合わせた後、オホンと咳ばらいをする。
「まず、ルクレティア様にハーフエルフを討ち取っていただこうと言うようなつもりは我々にはありません。
ですが、ハーフエルフがルクレティア様の御一行を執拗に狙い続けていること、そして
「それがルクレティア様を利用するということではないのか!?」
ゴティクスの説明に誰かが野次を飛ばすが、エルネスティーネは「続けなさい」と短く言ってゴティクスに説明の続きを促した。
「
ハーフエルフがアルトリウシアまで来てルクレティア様に対し害意を露わにすることは絶対に避けねばなりません。ゆえに、ルクレティア様にはアルトリウシアへの御帰還をしばらく御見合わせ戴き、
「それが、ブルグトアドルフということですか?」
アグリッパの言った案ではいくら何でもあからさま過ぎて受け入れるわけにはいかなかった。アグリッパの言った通りにすれば、さすがに降臨者の力を自らのために利用した……すなわち「《レアル》の
しかし、今ゴティクスが説明した通りであるならばそうした問題はなくなる。実際、ハーフエルフたちをそのままアルトリウシアへ招き入れてしまうようなことは絶対に避けねばならないのは事実であったし、ルクレティアを介してリュウイチの力を利用するという要素も排除されている。ルクレティアを護り、そしてハーフエルフたちと対峙するのはあくまでも
「早馬が間に合うようならブルグトアドルフで……ですが、おそらく間に合わないでしょう。
しかし、シュバルツゼーブルグでは秘匿保持の観点からも不味いですし、純軍事的にも一般領民が多く巻き込まれる危険性が高く都合が悪うございます。
よって、ブルグトアドルフが無理な場合は、
「グナエウス砦……」
エルネスティーネが感心したように言うと、同席している家臣たちからも「おお」と小さく感嘆の声が漏れ聞こえた。それに手ごたえを感じたゴティクスは自信を強めつつ続ける。
「ブルグトアドルフでは補給の問題が生じますが、グナエウス砦であればブルグトアドルフより兵站の確保がしやすく、緊急時にはアルトリウシアから増援を送れる範囲です。
何より、一般領民の数が限られ、
ゴティクスは地図に描かれたグナエウス峠をトンと力強く指し示す。
「小官は、ルクレティア様にグナエウス砦にお入り頂くことを進言いたします。」
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