第656話 打つ手なし?
統一歴九十九年五月八日、午前 -
「
「その通りです、
エルネスティーネ・フォン・アルビオンニア侯爵夫人はゴティクス・カエソーニウス・カトゥスの指摘にやや疑問を抱いたようであった。
「
ズィルパーミナブルクは南蛮と接する最前線であり、毎年小規模な武力衝突が繰り返されている。近年は敵対している南蛮氏族の勢力が大幅に衰えたため、数十人~数百人規模の軍勢がゲリラ的にちょっかいを出してくる程度ではあるが、南蛮が再び力を蓄えて攻めて来る可能性を考慮し、そして来るべき攻勢の時に備え、ズィルパーミナブルクには
「問題は食料が足りるかどうかではなく、現地に運ぶ手段です。」
「運ぶ手段……ですか?」
「はい‥‥‥」
ゴティクスは会議室の中央に陣取っている巨大なテーブルの上に、戦況説明のために広げられたままになっていた地図を指し示して説明を始めた。
「敵……例の盗賊団はここ、ブルグトアドルフを中心にシュバルツゼーブルグからアルビオンニウムにかけてのライムント地方北部で活動しているようです。
対して
「ズィルパーミナブルクからブルグトアドルフまで、
「御明察の通りにございます、
ズィルパーミナブルクからシュバルツゼーブルグまでがだいたい六十五マイル(約百二十キロ)ほどである。レーマ帝国軍の標準的な行軍ペースは一日で約十~十二マイル(約十九~二十二キロ)といったところだ。しかし、
ライムント街道はそのために整備され、維持されており、アルビオンニウムからズィルパーミナブルクまで最短五日で行軍できるようになっていた。先代のアルビオンニア侯爵でありエルネスティーネの亡夫であるマクシミリアンはライムント街道の整備状況を非常に重視しており、アルビオンニウムとズィルパーミナブルク間を行軍させるような演習を頻繁に繰り返していた。エルネスティーネもそのことは記憶に残っている。
「亡き夫は
それがアルビオンニウムの手前にあるはずのブルグトアドルフに
女の私にも理解できるようにご説明いただけるかしら?」
ハッキリ言ってアルビオンニア属州は狭い。アルビオン島自体はずっと広いのだが、そのうち帝国の版図としているのは北端のごく一部でしかないのだ。初代侯爵ヨハンがアルビオン島に初めて上陸してから八十五年……当初、過去の大災害で無人島と化したと思われていたアルビオン島でレーマ帝国は南蛮諸氏族と接触し、衝突し、アルビオンニア侯爵家の使命である版図拡大は南へは百マイルも進んでいない。
しかし、そんな狭い領土であっても、いや狭い領土だからこそ防衛は極めて重要であり、強力な南蛮軍と対抗するために歴代侯爵は伝統的に
「はい、
これまでは各地の
本来ならば、それらを活用することでこの程度の軍事行動は容易にこなすことができたでしょう。」
「それが活用できなくなっているということですか?」
「はい、残念ながら‥‥‥」
「理由の一つは、シュバルツゼーブルグより北の
ですが、食料はシュバルツゼーブルグにも備蓄があるでしょう?
それにブルグトアドルフはライムント街道上の街ですもの、輸送も簡単なのでは無くて?」
ライムント街道が
亡き夫が心血を注いで築き上げて来たものが、今まさに必要とされている時に使えなくなっているなどということは、エルネスティーネにとって到底納得のいくものではなかった。自然と、その口調や態度がトゲトゲしいものになってしまう。
「まず、シュバルツゼーブルグにあった備蓄は今般の避難民救済のために既にアルトリウシアへ抽出されており、我々が把握する限り余裕がほとんどありません。」
ゴティクスがエルネスティーネの隠し切れていない感情を意に介することもなくそう説明すると、エルネスティーネは座っている椅子の肘掛けをギュッと握りしめ、ウッと息を飲んだ。
「したがいまして、必要な食料はズィルパーミナブルクから運び出すほかありません。ですが、ズィルパーミナブルクからシュバルツゼーブルグまではシュバルツァー川の水運が使えますが、シュバルツゼーブルグから北は御存知のように水運が使えません。」
本来、ライムント街道に沿うようにシュバルツァー川が流れており、ズィルパーミナブルクからアルビオンニウムまでの貨物輸送は船で行われていた。だがシュバルツァー川はシュバルツゼーブルグより北の数か所で、一昨年のフライターク山噴火の影響で大量の土砂が流れ込んでおり、船が通過できなくなっている。
「シュバルツゼーブルグから北へ物資を輸送するためには馬車が必要となりますが‥‥‥」
「馬車はすべて使っている……そういうことですね?」
状況を察したエルネスティーネはゴティクスの説明の先を予想し、口にする。ゴティクスは「理解してもらえたか」と安堵し、かすかな笑みを浮かべて恭しく頭を垂れた。
「ご賢察の通りにございます、
つまりエルネスティーネが頼りにしていたアロイスと
楽観的には一週間から十日ほどは手弁当で活動できるはずだから、戦うべき敵の居場所が分かっていて、なおかつ一戦だけで確実にケリが着くなら一見すると簡単なようではある。だが実際はそうではない。
まず今回の敵は盗賊団だ。どこにいるのかがまずわからない。それにおそらくこちらとまともに戦おうとせず逃げ回ることだろう。こういう相手を仕留めるためには、要所要所に拠点を築いて部隊を配置し、地域を文字通り制圧していかなければならない。それは必然的に長丁場になることを意味し、十日やそこらで解決することを期待するのは楽観的を通り越して能天気とでも言うべきレベルのことだった。
それに相手はハーフエルフである。魔法を使える彼らの戦闘力は未知数であり、噂では大砲並みの威力を持つ攻撃魔法をバンバン撃つことができるという……そんな相手にゲリラ的に戦われたら、こちら側がどれほど消耗することになるか見当もつかない。下手すると、わずか数名のハーフエルフに一方的に打ちのめされ、撃退されてしまう可能性も決して否定はできないのだ。
エルネスティーネは思わず目を閉じ額を揉んだ。
「なんてこと……それでは何もできないというの?」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます