第653話 群狼襲撃

統一歴九十九年五月八日、早朝 - グナエウス街道/アルトリウシア



 馬車とは、文字通り馬車馬を動力とする車両である。馬の力で曳いてもらって動き、馬の力で曳いてもらう事で進行方向を変更し、そして止まる時も馬の力を使う。ブレーキの様な機構はない。全く無いわけではないが、それは駐車ブレーキであり走行中に減速のために使われることは無い。あるとすれば、馬が暴走した時や馬の力では減速しきれないような緊急時に用いられるぐらいだ。本来の使い方では無いので、そう言う使い方をすると簡単に壊れてしまう。


 そのような馬車であるから、重たい荷物を運ぶ際はどうしても速度が出せない。牽引力けんいんりょく制動力せいどうりょくも、どちらも完全に馬頼りだからだ。前進するために駆動力も一馬力なら、停止するための制動力も一馬力しか発揮できないし、曲がる力も一馬力だ。

 一馬力で足りなければ馬の数を増やすことになるのだが、じゃあ二頭で曳けば二馬力になるのかというとこれがそうも単純ではない。これが何らかの機械的動力であれば動力源を二台三台と増やしていけば、発揮できる力も二倍三倍と単純に比例してくれるのだが、馬の場合……いや、馬に限らないが動物が動力源だった場合は、二頭三頭と増やしていくと発揮できる力は一・九倍、二・六倍という具合に増えていく。一台の車を曳くための頭数を増やしていけばいくほど、実は効率が低下していくのである。そして仕事の効率が低下すると、当然ながら採算がとれなくなっていく。馬に食わせる飼料だってタダでは無いからだ。

 問題は採算だけではない。馬を多く繋げれば、それだけようになっていく。道路の幅に限界がある以上、横には二頭までしか繋げられない。すると二列で縦に繋げて曳かせることになるのだが、二列二頭なら一馬身ばしん、二列四頭なら二馬身と長くなっていく。馬を増やせば増やすほど、馬を含めた馬車の全長が長くなっていくわけだ。しかも、馬車馬は先述しているようにただ車を引っ張れば良いという存在ではない。減速する際はブレーキとしての役割も果たさねばならないのである。慣性によって前へ進み続けようとする馬車を馬が踏ん張って押しとどめて減速させねばならないのだから、すべての馬は馬車から伸びる一本の棒に繋げられている。だからカーブを曲がる際は前の馬から順番に曲がっていくのではなく、繋げられた馬全部が一斉に方向転換していかなければならないのだ。だから当然だが、馬車を曳く馬の頭数が増えれば増えるほど、小回りが利かなくなっていく。


 以上のような理由から、馬車一台を曳く馬の数にはおのずと限界があった。馬の数を増やし過ぎれば効率が悪くなり、小回りが利かなくなって広くてカーブの緩い道しか通れなくなってしまう。

 今、グナエウス砦からアルトリウシアへ向けてグナエウス街道を降っていく荷馬車は、まさにその上限に達している最大規模の馬車だった。一昨年のフライターク山噴火によりアルビオンニウムが閉鎖されシュバルツァー川が水路として使用できなくなり、ズィルパーミナブルクからの船を使っての銀の積み出しが出来なくなったことから昨年になって数を増やし始めた重量級の馬車である。南蛮由来の重馬ドサンクゥム種八頭によって牽引され、本来ならばズィルパーミナブルクの銀をクプファーハーフェンの港まで運んでいたものだった。それが先月のハン支援軍アウクシリア・ハン叛乱事件を受け、復旧復興のための資材運搬のために急遽グナエウス峠へ回されて来ていたのである。


 百八十タレント(約五・三トン)もの銀を運ぶための馬車は今、銀の代わりに詰めるだけの木材を積んで朝もやのけぶる石畳の道をゆっくりと降りていく。行き脚が付き過ぎて止まれなくなったり、曲がれなくなったりしないよう、細心の注意を払いながら……まだ朝早く、他に街道を通る者はいないためそれほど心配することはないが、八頭立ての馬車の操縦は簡単ではない。なにせ二列八頭繋げられた馬の分だけで、全長は七ピルム(約十三メートル)に達するのである。そしてその後ろに馬車が繋がっており、御者はその馬車から前にいる八頭を制御しなければならないのだ。道幅が広い軍用街道ウィア・ミリタリスとはいえ、カーブを曲がる際は対向車線側も含め道幅を目一杯使わないと曲がれないところも少なくない。しかも前側の馬は右に曲がりながらも後ろ側の馬は前の馬に追随するように右を向きを変えながら左前方へ進ませるというような割と高度な技も使わなければならない場面もあったりするのだ。当然、対向車がいたりするとそんな真似は出来ない。そんな時は対向車が居なくなるまで、カーブの手前で待っていなければならなくなる。

 彼が誰よりも早起きをして陽の昇る前からグナエウス砦を出発したのには単に仕事熱心だというだけではなく、そういう対向車との待ち合わせのような面倒を少しでも避けたいという思惑もあってのことだった。


 その甲斐もあって、馬車は無人の街道をスムーズに進んでいく。身を凍らせるかのような冷たい朝霧も、むしろ目を冴えさせてくれる、心地よい存在に感じられるほど快調であった。


「ハアッ!」


 御者は声を発し、馬車に一ムチを当てる。峠道は基本的に下り坂だが、わずかながら平坦な場所も、そして登り坂も存在している。彼らはそのわずかな平坦な道を進んでおり、そして目の前には小さな上り坂が迫っていたのだ。平坦なうちに加速をつけて、その勢いで少しでも楽に上り坂を越えてしまおうという算段である。


「ハアッ!ヤアッ!!」


 道は登り始め、馬車は減速し始めた。そして、勢いを残したまま坂を登りきる。そこから右へ曲がり、今度は再び長い下り坂だ。そこから先は勢いを殺さねばならない。


「よぉ~し、ドウッ!ドウドウ!!」


 まだ馬車は登りきっていなかったが、御者は先頭の馬が登りきったところで行き脚を緩める。御者が指示を出してから八頭全部の馬がその指示に従うまでには若干のタイムラグがあるため、少し早めに指示を出さねばならない。


「?…ドウッドウッ!

 どうしたぁ、ドウッ!!」


 御者が減速を命じたのに馬たちの反応が鈍い。暴走しているわけではないが、どうも馬が勝手に先を急いでいるかのようだった。御者は手綱を引き、馬を必死で抑えようとする。


「親方、どうかしたのかい?」


 普段とは違う様子に、隣に座っていた助手が不安そうに尋ねた。


「いや、何か知らんが馬の様子がおかしい。

 勝手に前へ進みやがる。

 ドウッ!ドーウッ!!」


 こんなことは初めてだった。ドサンクゥム種の馬は馬体が大きく力も強いが大人しい馬である。一般に非常に従順で、暴れることは滅多にない。彼らの八頭の馬たちもそうしたドサンクゥム種に対する一般的な評価に見事なまでに合致した馬たちであり、これまで御者の命令に従わなかったことなど無かった。

 ところが今、八頭の馬は妙に落ち着きが無く、御者の命令に対する反応が鈍い。御者の声以外の何かを、しきりに気にしているように耳がピクピクと動いている。馬の中には頭をわずかに左右に振って周囲に視線を走らせているものもいた。


「親方ぁ、コイツらぁ何かに怯えてるみてぇだ。」


「ああ、クソッ、何だってんだ、ドウッ!ドーウッ!!」


 御者が必死で抑えているからまだ辛うじて速度も安全な範囲に抑えられているが、それが無ければ馬たちは勝手に加速しようとする。もういつ暴走し始めてもおかしくない……そんな危機感が御者と助手を焦らせる。


「いったい、何があるっていうんだ?」


 御者が必死で馬を抑えている横で、助手は周囲を見回し始めた。だが彼らの視界はようやく明るくなり始めてはいたものの、濃い霧によって塞がれたままであり、街道両脇の法面のりめんの先の森が辛うじてかすんで見える程度である。


「ドウッ!ドーウッ!

 おらぁ、これ以上出すとこの先のカーブを曲がれねぇぞ!?

 落ち着けぇ!ドーウッ!ドーウッ!」


 何があるのか分からないがいっそのこと、一度止めてしまおうか……御者がそう考え始めたころ、隣にいた助手が声を挙げた。


「あ!親方、オオカミだ!!」


「何ぃ!?」


「今一瞬見えた!親方、オオカミがいる!!

 あ、ホラ親方アソコ!!

 あ、アッチにも!!」


 我が耳を疑う御者に助手はなおもそう言い、斜め前方を指差した。そこには確かにオオカミがいた。


「オオカミだと!?

 コイツ等オオカミに怯えてやがったのか!

 ドウッ!ドウッ!!」


「またいた!アソコにも!!

 親方ヤバイよ!俺たち囲まれてる!!」


 気付けば左右の法面の向こう、藪の中からオオカミが姿を現したり消したりしながら馬車に並走していた。明らかにこちらを狙っている動きである。


「オオカミが馬車を狙うだと、しかもグナエウス街道で!?

 山から降りて来たってぇのか!?」


 普通、オオカミはグナエウス街道のような街道には姿を現さない。レーマ軍がひっきりなしに警備をし、オオカミの様な害獣は積極的に狩るため、警戒して近づいてこないのだ。


「ヤバいよ親方!数が増えてる!!逃げなきゃやられちまう!」


「バカ言え!これ以上出したら、この先のカーブ曲がれねぇんだぞ!?」


「でもこのままじゃ!」


「かまやしねぇ、松明投げつけてやれ!

 こんだけ明るくなったらもう必要ねぇ!」


 御者に言われ、助手は身をよじって馬車の側面に斜めに突き出るように差し込まれていた松明を引き抜いて両手に持った。さすがに投げつけるようなことはしないが、イザとなったらこれを振り回して追い払うしかない。野生動物なら火を恐れるはずだ。


「ドウッ、ドーウッ!!」


 馬車の前方にはいよいよカーブが迫って来ていた。ここから先はしばらく九十九折つづらおりのようにカーブが続くため、目一杯減速しないと通過できない。それを知っている御者は手綱を思いっきり引いて馬を止めようとする。周囲にオオカミが居ようが居まいが関係ない。このままのスピードで突っ込めば待っているのは確実な死なのだ。

 馬車は少し減速したが、一度ついてしまった速度は殺しきれていない。


「クソォッ、仕方ねぇ」


 減速しきれないと踏んだ御者はブレーキレバーを思いっきり引いた。彼らを取り囲んでいたオオカミたちが一斉に距離を詰め始めたのは、その直後のことだった。

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