第652話 黎明の索敵

統一歴九十九年五月八日、早朝 - グナエウス峠山中/アルトリウシア



 ドナートが目を覚ました時、まだ夜は開けていなかった。乳白色の朝もやに包まれた森の中は、うっすらと青い黎明の光に染められつつある。ひんやり‥‥‥と表現するには少しばかり冷たすぎる空気に大きく白い息を吐いて身体を起こす。高地だけあってエッケ島よりもずっと寒いが、それでも寄り添って寝てもらったダイアウルフの体温のおかげで一応睡眠は十分にとれているように感じられる。


 昨夜の炭焼き職人たちは、結局逃げ延びた。狩ろうと思えば全員狩ることもできた。だがドナートはそれをしなかった。

 もしも全滅させることができたなら、ドナートたちは火を使える活動拠点を得ることができただろう。炭焼き職人が炭を焼いている筈の場所からは常に煙が立ち昇っている。炭焼き職人たちを全滅させれば、炭が焼けるまでの間はここで焚火をしても、周囲の者たちから怪しまれることはない。この寒い山中で温かい食事を用意することもできるし、暖を取ることもできるのだ。それはとても魅力的な選択に思える。だがドナートはその選択をあえてしなかった。


 炭焼き職人の中から一人抜け出してどこかへ行ったコボルト……彼を部下に追跡させたところ、どうやらここからさほど離れていない場所でも炭を焼いているようだったのだ。もし、こっちの炭焼き職人を全滅させたとしても、向こうの炭焼き職人が何かの理由でこちらへ来てしまう可能性がある。ドナートたちがのんびり休んでいるところを見られては困るし、直接は見られずともドナートたちがここで生活をしている痕跡を見つけられれば、それだけでドナートたちの作戦は失敗する可能性が出て来る。

 炭焼き職人を全滅させてこの場所を拠点として使うためには、そっちの炭焼き職人も全滅させなければならないだろう。いや、もしかしたら連携している炭焼き職人のグループはこの二つだけじゃないかもしれない。だとしたら、この辺にいる炭焼き職人を探し出して襲って回る必要が出てくるかもしれない。

 だがドナートたちの戦力は限られている。ドナート自身を含めたゴブリン騎兵四名とダイアウルフが五頭のみ……そして、ドナートたちは鉄砲マスケートゥム爆弾グラナートゥムといった武器を使用することができないうえに、姿さえ見せてはならないという条件付きだ。つまり、実質的にまともに戦力になり得るのはダイアウルフ五頭のみなのである。


 炭焼き職人のグループと戦い、勝つこと自体は簡単だ。ダイアウルフ五頭で襲えば負けることは無い。だが、確実に全滅させることができるかと言うと難しい。まして、相手の中にはコボルトなど、素で戦闘力の高い種族も含まれているのだ。

 必ず全員を殺す必要があるわけではないが、まかり間違ってダイアウルフが傷つくようなことになっては困る。この作戦、勝つだけでは十分ではなく、無傷で生還することが絶対条件なのである。しかも、ドナートたちは誰の目にも触れないままに、それを遂行せねばならない。


 となると、あえてここであの炭焼き職人たちを全滅させるのは避けた方が良い様に思われた。

 ダイアウルフに襲われて逃げ延びた彼らは間違いなく最寄りの中継基地スタティオへ駆け込み、そこにいる警察消防隊ウィギレスに保護を求めるだろう。そしてレーマ帝国は気づくはずだ。グナエウス峠にダイアウルフが出没すると……それはドナートたちにとってはむしろ望む結果だった。


 ドナート隊の目的はグナエウス峠でダイアウルフを暴れさせ、レーマ貴族らにダイアウルフの脅威を認識させ、そしてハン支援軍アウクシリア・ハンにダイアウルフの処理を依頼させることにある。グナエウス街道を行き来する馬車を襲うというのは、その目的を果たすために行う作戦目標の一つでしかない。そして、その目的は、炭焼き職人を襲うという行為によっても一応成し得ることなのだ。

 だが、そのためには炭焼き職人を全滅させてしまってはならない。生き延びてもらい、「ダイアウルフに襲われた」と報告してもらわねばならないのだ。

 うまく行けば、この地域一帯で炭を焼いている炭焼き職人たちに警報が発せられ、一斉に引き上げてくれるかもしれない。そうすれば、ドナートたちが不意に目撃されてしまう危険性も減るし、作戦を継続する上でも都合がいい。


 火を使える拠点を得るというメリットは魅力的だが、作戦全体の都合を考えた結果、ドナートはあえて炭焼き職人を逃がすことにしたのだ。一人を殺し、残りの三人は手傷を負わせはしたが、あえて殺さずに生き延びさせた。彼らがどこかの中継基地へ逃げ込み、被害を訴え、レーマ軍が驚嘆きょうたんしてくれれば願ったりかなったりである。


 だが、それだけではまだ足りない。

 彼らが中継基地へ駆け込むというのはこちらの予想に過ぎないし、逃げ込むところを確認できたわけでもない。ダイアウルフが炭焼き職人を襲っている間、ドナートたちは当然離れたところに隠れていたからだ。体格の小さなゴブリン兵では、山の中とはいえ必死で逃げるヒトやホブゴブリンの脚には追い付けない。だからドナートたちは炭焼き職人が逃げ出すところまでは見ていたが、その後は頃合いを見計らって犬笛でダイアウルフを呼び戻すに留めていたのだ。


 レーマにダイアウルフの脅威を覚えさせるためには、まだまだ襲い続けねばならない。

 持ってきた食料が続く間、あるいは雪が降り始めるまでの間、付近の山中に居る炭焼き職人たちを、そしてグナエウス街道を行き来する荷馬車を、ダイアウルフに襲撃させ、レーマにダイアウルフの恐ろしさを植え付けてやるのだ。


 ドナートが身体を起こすと、ドナートと添い寝をしていたダイアウルフものっそりと起き上がり、ドナートに鼻を寄せてフンフンとひとしきり匂いを嗅ぐといとおし気にベロベロと顔を舐めまわし始める。ドナートは特にそれを避けるでもなく、お返しとばかりにダイアウルフの大きな顔を、首を、そして頭を掻きむしるかのように撫でまわした。


 ブフフンッ!


 ドナートの顔を舐め終えたダイアウルフがくすぐったそうに鼻を鳴らし、身体をブルっと震わせる。その音にドナートの部下たちも目を覚まし、次々と起き始めた。


「隊長?」


「起きろ、朝一番の獲物を探すんだ。」


 ドナートはダイアウルフの唾液で濡れた顔を両手で拭いながら、まだ寝ぼけた様子の部下たちにかつを入れるように言うと、部下たちは弾かれたように飛び起き、次々と毛布代わりに被っていた外套をバタバタと振って朝露あさつゆの水滴を飛ばし、その身にまとい始める。

 彼らはそのまま鞍もつけずにダイアウルフの背にマットだけを被せ、その上に跨った。脱走したダイアウルフによる襲撃……それを演出するためには、ダイアウルフが鞍だのハーネスだのを装着していては都合が悪い。だから脱着に時間のかかる装具はあえて装着せず、乗りにくいのは我慢して最低限のクッションだけで騎乗していた。


 記憶とダイアウルフの感覚だけを頼りに、彼らは視界が十四~五ピルム(約二十六~二十八メートル)ほどの霧の立ち込めた森の中を、野営地から北へ向かって進んだ。樹々の間を縫うように緩やかな斜面を登り続けると、やがてグナエウス街道を見下ろせるちょっとした高台へ出る。立ち込めた霧のために街道の様子は目では見えないが、だがこの霧が無ければドナートたちがいる場所と街道の間を遮る物はほぼ無いはずである。


「よし、着いたぞ‥‥」


 ドナートはそう言うとダイアウルフから降りた。そして繁み越しにジッと、見えない筈の街道の様子を伺う。部下たちも次々とダイアウルフから降り、その背から鞍代わりに尻に敷いていたマットをはぎ取る。


「隊長、ホントにやるんですか?」

「この霧じゃ見えませんよ?」


 移動してくる間に少しずつ明るくなったとはいえ、目の前に広がるのは乳白色の闇である。自分たちがいる場所が、昨日襲撃地点にピッタリだと確認した場所であることは疑いようが無いが、そこから見えるはずの街道は霧に遮られて全く見えない。


「見えないから襲いやすいし、逃げやすいんじゃねぇか。」

「そうかも知んねぇけど、これじゃ敵の様子も見えねえぇぜ?」


 ドナートに代わって部下の一人が他の二人をいさめる。が、若い連中はどうやら不満なようだ。いや、不安なのか……こんな少人数で敵地の後方へ回り込み、そして土地勘もあまりないのに戦わねばならないのだ。不安を覚えない方がおかしい。そしてその自分で解決のしようのない不安が不満になって口から漏れ出て来るのだろう。

 ドナートは部下たちを振り返り、人差し指を口に当てて静かにするようにジェスチャーすると、穏やかな口調でしゃべり出した。


「昨日も説明したが、いくらダイアウルフとはいえ荷馬車が何台もいるところに襲い掛かるわけにはいかん。孤立した馬車を狙わなきゃダメなんだ。

 そのためには、これくらいの時間がいい。

 朝一番に通る奴、またはその日の最後に通る一台を狙うんだ。」


「‥‥‥」

「それにしたってこの霧じゃ、相手が本当に一台かどうかわかんなくねぇですか?」


「ダイアウルフの耳を信じろ。

 その程度を聞き分けるくらい、わけはない。」


 『単騎駆け』の異名を持つハン族一の英雄にさとされるとさすがに彼らも黙らざるを得なかった。

 不承不承ふしょうぶしょう……まさにそんな態度ではあったが、納得したと言うより理解はしたといった様子で部下が黙り込むのを確認すると、ドナートは再び霧の向こう側にあるはずの街道の方へ視線を向ける。ドナートのダイアウルフ、テングルがその隣に座って同じように街道の方に集中する。ドナートの部下たちもそれに倣い、思い思いの位置から街道の方へ注意を向け始める。

 ほどなくして、テングルの耳がピクピクと動き、地面に落ち着けていた尻を持ち上げて立ち上がった。

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